「山の暦(イン・メモーリアム)」は、ぶらぶらと歩き回る詩である。
昔のように菫がどこをさがしても
みつからなくなつた
ただ坂の途中の藪に
イラグサと山ゴボウばかりだ
この山の唯一の哀愁だつた
ちんいようげの香りもしなくなつた
試験は未だあることになつている
試験が唯一のギリシャ悲劇のすべて
哀愁の源泉としてまだほとばしつて
いるのだ。
この山賀フロレンスを見下す
ところであつたらダンテは地獄篇
にすばらしい追加をしたことだ
日本の自然の風景とギリシャ悲劇、ダンテが混在する。そこに試験(大学の?)までまじってくる。
普通、それが文学であるかどうかは別にして、ことばというものは「同じ傾向」のものが自然にあつまってくる。何かを書こうとする(伝えようとする)とき、その伝えようとする「もの」(思い)にむけてことばが整えられる。統一させられる。
ところが、西脇の詩では、そういう統一がない。いや、あるのかもしれないが、基準がないように見受けられる。統一がないというより、統一が常に破られる、といった方がいいかもしれない。
いま引用した部分では、前半は「日本の自然」である。昔あった菫がみつからない。その「哀愁」。それのまわりには、イラグサ、山ゴボウという自然が集められる。
それが、突然、「試験」によって破られる。
それは「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」の乱入の仕方と似ている。意識の統一へ、突然「いま」が乱入してくるのだ。そして、意識の統一が破られるのだ。
だから、これはほんとうは、「日本の自然」に「試験」が乱入してくるというよりも、「日本の自然」というものにむかって動いてしまっている意識、その意識があつめてくることばに対して、「いま」が乱入してくると言った方がいい。
「日本の自然」も「いま」には違いないが、そこには「精神」というものが統一的に働いている。ことばを「統一」してしまう意識が働いている。こういう意識は、何かを書く、ことばをあつめるときに、自然に働いてしまうのもだが、西脇は、そういう「統一・整理」しようとする意識を破るのである。
そして、その破る存在としての「試験」についてはなんの説明もない。「かけす」について説明がなかったのと同じである。背後の木にとまっているかけす--というふうに、西脇は説明していない。説明を省略し、ただ「現実」を「もの」として持ち込む。そこには「統一・整理」という意識が働いていないから、これを「無意識」と名付けてもいいかもしれない。
「いま」を統一してしまう「意識」の世界へ、「無意識」をぶつける。「統一」を「無意識」で破壊する。そうすると、ことばが一気に動く。一気に乱れる。
「試験」のあと、ことばは「日本の自然」とは関係のないギリシャ悲劇やダンテへと動いていく。そして、動いた先(?)から、過去(?)を振り返るようにして、一気に何事かが断定される。ダンテなら、この風景を詩に書き、すばらしいものにした、と。
あ、まるででたらめ。この詩人は何をいっているのだ。ことばが分裂してしまっているじゃないか--と言ってしまうこともできる。
この詩を「難解」、「現代詩は難解」というひとは、そういうふうにくくってしまって、自分とは無関係なものにするだろう。このときの「無関係」の「無」は、西脇の「試験」の「無意識」の「無」と似ている。つながりが「無い」の「無」である。ひとはだれでも「つながり」があるものに「意味」を見出す。そして、そのつながりが納得できたときに、「わかる」ということばをつかう。
たしかに、ここにはつながり、連続というものがない。そのかわりに、つながりを壊すこと、破壊があり、破壊によって生じる乱れがある。
そして、その破壊と乱れこそ、実は、詩である。破壊と乱れのなかには関係がある。「無」ではないものが、ある。破壊がなければ、乱れは生まれないのだから、そこにはつながりがある。
だが、問題は、そんな簡単な論理では片付けられない。たぶん。きっと。
破壊と乱れ。それが「美しさ」にかわる。それは、なぜなのか。
西脇の詩の秘密は、そこにある。破壊と乱れのつながりを支えている何かがあって、その何かを私は「美しい」と感じるのだ。
その何かを説明するのは難しい。
私は、とりあえずそれを「音楽」と呼んでいるが、その「音楽」の定義がむずかしい。ことばが動いていくとき、ことばを動かすのはなんのか。「意識」が動かすのとは違う動きを西脇の詩のことばはしてしまう。それは、きっと、ことば自身のエネルギーが解放されてのことなのだと思う。西脇がことばを動かしているのではなく、ことばがかってに動いていく。ことばが、ことばを「聞きあって」、そうして動いていく。それは、「音楽」の音が互いの音を聞きあいながら動いていくのに似ている--そんなふうに、私には感じられる。
これはもちろん、大雑把な「感じ」であって、具体的な説明・論理にはなっていない。「音楽」をどう定義するか、その定義の仕方の入口さえもわからない。けれど、私は、そこに「音楽」が働いていると感じる。
西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2西脇 順三郎慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |