詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(103 )

2010-02-06 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「山の暦(イン・メモーリアム)」は、ぶらぶらと歩き回る詩である。

昔のように菫がどこをさがしても
みつからなくなつた
ただ坂の途中の藪に
イラグサと山ゴボウばかりだ
この山の唯一の哀愁だつた
ちんいようげの香りもしなくなつた
試験は未だあることになつている
試験が唯一のギリシャ悲劇のすべて
哀愁の源泉としてまだほとばしつて
いるのだ。
この山賀フロレンスを見下す
ところであつたらダンテは地獄篇
にすばらしい追加をしたことだ

 日本の自然の風景とギリシャ悲劇、ダンテが混在する。そこに試験(大学の?)までまじってくる。
 普通、それが文学であるかどうかは別にして、ことばというものは「同じ傾向」のものが自然にあつまってくる。何かを書こうとする(伝えようとする)とき、その伝えようとする「もの」(思い)にむけてことばが整えられる。統一させられる。
 ところが、西脇の詩では、そういう統一がない。いや、あるのかもしれないが、基準がないように見受けられる。統一がないというより、統一が常に破られる、といった方がいいかもしれない。
 いま引用した部分では、前半は「日本の自然」である。昔あった菫がみつからない。その「哀愁」。それのまわりには、イラグサ、山ゴボウという自然が集められる。
 それが、突然、「試験」によって破られる。
 それは「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」の乱入の仕方と似ている。意識の統一へ、突然「いま」が乱入してくるのだ。そして、意識の統一が破られるのだ。
 だから、これはほんとうは、「日本の自然」に「試験」が乱入してくるというよりも、「日本の自然」というものにむかって動いてしまっている意識、その意識があつめてくることばに対して、「いま」が乱入してくると言った方がいい。
 「日本の自然」も「いま」には違いないが、そこには「精神」というものが統一的に働いている。ことばを「統一」してしまう意識が働いている。こういう意識は、何かを書く、ことばをあつめるときに、自然に働いてしまうのもだが、西脇は、そういう「統一・整理」しようとする意識を破るのである。
 そして、その破る存在としての「試験」についてはなんの説明もない。「かけす」について説明がなかったのと同じである。背後の木にとまっているかけす--というふうに、西脇は説明していない。説明を省略し、ただ「現実」を「もの」として持ち込む。そこには「統一・整理」という意識が働いていないから、これを「無意識」と名付けてもいいかもしれない。
 「いま」を統一してしまう「意識」の世界へ、「無意識」をぶつける。「統一」を「無意識」で破壊する。そうすると、ことばが一気に動く。一気に乱れる。
 「試験」のあと、ことばは「日本の自然」とは関係のないギリシャ悲劇やダンテへと動いていく。そして、動いた先(?)から、過去(?)を振り返るようにして、一気に何事かが断定される。ダンテなら、この風景を詩に書き、すばらしいものにした、と。

 あ、まるででたらめ。この詩人は何をいっているのだ。ことばが分裂してしまっているじゃないか--と言ってしまうこともできる。
 この詩を「難解」、「現代詩は難解」というひとは、そういうふうにくくってしまって、自分とは無関係なものにするだろう。このときの「無関係」の「無」は、西脇の「試験」の「無意識」の「無」と似ている。つながりが「無い」の「無」である。ひとはだれでも「つながり」があるものに「意味」を見出す。そして、そのつながりが納得できたときに、「わかる」ということばをつかう。

 たしかに、ここにはつながり、連続というものがない。そのかわりに、つながりを壊すこと、破壊があり、破壊によって生じる乱れがある。
 そして、その破壊と乱れこそ、実は、詩である。破壊と乱れのなかには関係がある。「無」ではないものが、ある。破壊がなければ、乱れは生まれないのだから、そこにはつながりがある。
 だが、問題は、そんな簡単な論理では片付けられない。たぶん。きっと。

 破壊と乱れ。それが「美しさ」にかわる。それは、なぜなのか。

 西脇の詩の秘密は、そこにある。破壊と乱れのつながりを支えている何かがあって、その何かを私は「美しい」と感じるのだ。
 その何かを説明するのは難しい。
 私は、とりあえずそれを「音楽」と呼んでいるが、その「音楽」の定義がむずかしい。ことばが動いていくとき、ことばを動かすのはなんのか。「意識」が動かすのとは違う動きを西脇の詩のことばはしてしまう。それは、きっと、ことば自身のエネルギーが解放されてのことなのだと思う。西脇がことばを動かしているのではなく、ことばがかってに動いていく。ことばが、ことばを「聞きあって」、そうして動いていく。それは、「音楽」の音が互いの音を聞きあいながら動いていくのに似ている--そんなふうに、私には感じられる。
 これはもちろん、大雑把な「感じ」であって、具体的な説明・論理にはなっていない。「音楽」をどう定義するか、その定義の仕方の入口さえもわからない。けれど、私は、そこに「音楽」が働いていると感じる。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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網膜剥離 その後(あるいは、永井荷風「花籠」)

2010-02-06 10:09:11 | その他(音楽、小説etc)
 
 網膜剥離で手術をし、その後、私自身のなかで明らかに違ってしまったことがある。ただひたすら読みたくなった。書きたくなった。そして、その書くことに関して言えば、「結論」というものがどうでもらるなった。私はもともと「結論」を想定せずに、ただ書くだけというタイプの人間だが、それでもときどきは、こんなふうに書けば論理がすっきりするかな?とか、私の書いたことが読者にとどけばいいなあ、という欲望をもっていた。できることなら、私が書いたことばが誰かに感動を与えることができればどんなにいいだろう、と願っていた。まあ、それは、ものを書く人間ならもって当然の欲望・願望なのかもしれないけれど。
 その欲望・願望が消えてしまったわけではないけれど、かなり違ってきた。そういう欲望・願望は薄れて、ただひたすら書きたくなった。「結論」など、どこにもない。「感動」なんてものも関係ない。私のなかにある「ことば」そのものを解放したいのだ。何かを読む、何かを見る、何かを聞く--そういう瞬間瞬間に動きはじめることばを、ただ勝手気ままに動かしたい。いや、ことばが勝手に動いていってしまって、「私」というものなど消えてしまったらどんなに楽しいだろうと思うのだ。
 私のことばは「自由」ではない。いまさっき書いたことと矛盾するけれど、私には、まだまだどこかで「結論」を書こうとする意識が残っている。ひとを感動させたいとか、ひとに認められたいとかいう欲望が残っている。そういうものを完全にふっきってしまって、ことばが、ただことばとして「自由」にどこまでも動いていく。私は、そのことばをただ追いかけていく--そんなふうにして、まるで他人の書いたことばを読むようにして、自分の中からあふれてくることばを追いかけたいと思うようになった。

 矛盾してもかまわない。矛盾に気がついたら、あ、これは矛盾だな、と書く。矛盾を解消するために、書き直す、考え直すということはしない。矛盾だな、とことばが気がついて、そのあと、そのことばがどんなふうに動くか、ただ、それを追いかけたい。どんなふうに矛盾を突破できるか、後ろから後押しできれば楽しいだろうなあ、というような感じ……。

 で、思いつくままに。

 荷風全集を読んだ。「花籠」という作品。ルビは面倒なので省略。一部の漢字は簡略化、ひらがなにした。

 然う。静枝の君は少しく顔を赤らめしが、其小さき胸に満々たる喜びは、遂に包まれ難くてや、云ふばかり無き愛嬌あるえくぼを、片頬に漏らし給ひぬ。

 美しい文章だと思う。喜びを胸に隠しきれず、それがえくぼとなってあふれた、というのはいいなあ、目に見えるようだなあと思う。「遂に包まれ難くてや」の「や」が簡潔でいいなあ、とも思う。現代語(?)にするとどうなるのだろう。「だろう」というような間延びしたことばになってしまうのだろうか。言ったか言わないかわからない、ひとことの「や」。こういう短いことばは、もう現在は残っていないのだろうか。
 「小さき胸に満々たる喜びは、遂に包まれ難くてや」という「主語」のとり方(つかい方)、動詞の受け方というか、「受動態」風の文体も、いまからみると(私からみると?)、なんだか西欧風。外国語風。あ、日本語はこんなに自在に「主語」を入れ換えることができるのだ、と感心してしまった。
 なによりびっくりするのは、そのことばのスピードである。「や」や「主語」「受動態」(?)をきれいに取り込む「文語」の力である。「文語」というのは古い、だからことばのスピードが遅い--と感じるのはたぶん間違いなのだろう。「文語」(そして旧かなづかい)が敬遠されるのは、そのスピードが速すぎて、現代の退化した(?)頭がついていけなくなっているからだろう。反省しなければ、と自分自身に言い聞かせた。

 あ、ほんとうの「日記」みたい……。





荷風全集〈第1巻〉初期作品集
永井 荷風
岩波書店

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平岡けいこ『幻肢痛』

2010-02-06 00:00:00 | 詩集
平岡けいこ『幻肢痛』(砂子屋書房、2010年01月10日発行)

 詩集を開いた瞬間、ある1行が目に飛び込んでくる。そして、あ、この詩集について感想書きたい、という欲望がふつふつとわいてくる。まだ、1篇の詩も読んでいないのに、その詩がどういうものについて書いているのかさえもわからないのに……。そういう経験することが何度もある。 
 平岡けいこ『幻肢痛』も、そうした詩集の1冊である。
 
泣いてしまわねばならない

 冒頭の作品の2連目の2行目。それがふいに目に飛び込んできた。そして、その「泣いてしまわねればならない」が「書いてしまわなければならない」と聞こえた。平岡が、この詩を書いてしまわなければならない--と思いながら書いている。その「肉体」の声が聞こえた。
 私の「誤読」「幻聴」である。
 「誤読」「幻聴」であるとわかっているからこそ、私は、その「誤読」「幻聴」を追いかけてみたい、という気持ちになる。
 そして、書きはじめる。冒頭から読みはじめる。「夜明けまで」という作品だ。

限りなく焦燥に近い欲望なのだ
つまり 生活とは
無限のような一瞬なのだ

 1連目から読んでいたら(普通に詩集を読みはじめていたら)、私はつまずいてしまったかもしれない。1行目は読む気持ちをそそるが、2行目の「つまり」で私はうんざりする。3行目でがっかりする。観念のことばで書かれた説明というものが、私は嫌いだ。「頭」で動かしたことばは嫌いだ。
 だが、もうすぐ、あの1行があらわれる。その1行が私を待っている。

私は取り急ぎこの哀しみを
泣いてしまわねばならない
深海に沈む難破船のように
抉れた記憶を生活の裏に沈め

 「深海に沈む難破船」「抉られた記憶」。ああ、この無残なことば。読む気がしない。読む気がしない--と書きながらも、私の「肉眼」は「泣いてしまわねばならない」を「書いてしまわなければならない」と耳に伝えている。
 何なのだろう、この詩は。
 たぶん、その前の行、「私は取り急ぎこの哀しみを」の「取り急ぎ」に、この詩の「秘密」のようなものがあるのだ。「ゆっくり」ではだめなのだ。急いで、急いで、急いで、何かしなければならない。「泣いてしまわねばならない」。急いでいるために、すべてを「肉体」をとおしている暇はない。「頭」で処理できる(?)ところは処理してしまって、しっかりと「泣きたい」。「泣く」ことで「肉体」を回復したい。(「書く」ことで「肉体」を取り戻したい)。
 そう、この詩は叫んでいる。

限りなく焦燥に近い欲望なのだ
つまり 生活とは
無限のような一瞬なのだ

私は取り急ぎこの哀しみを
泣いてしまわねばならない
深海に沈む難破船のように
抉れた記憶を生活の裏に沈め

立ち去らねばならない 直ちに
古ぼけた懐中時計のねじを巻き
新しい地図を描く
失った翼でできた羽ペンで

弧を描いて
約束が落ちる
守られるはずだった
守られなかった約束たち

それぞれの形に留め置かれ
忘却に晒されるだけ

 あいかわらず観念的なことばがつづく。「頭」で書かれたことばがつづく。しかし、その一見すると「頭」で書かれたしか感じることができないことばが、「泣く」ということばのなかで、ぬれて、「肉体」になっていく。
 なぜだろう。
 実際には「泣いて」いないからだ。
 「泣いてしまわねばならない」ということばは、「泣いてしまっていない」ことを告げている。「泣いてしまっていない」。だから「泣いてしまわねばならない」。そして、そういうことばが「肉体」をくぐり抜けるとき、ほんとうは泣きはじめてもいない。泣きたい。泣けるなら、泣きたい。けれど、泣けない。泣けないから、「泣いてしまわねばならない」。
 そして、それが「書いてしまわなければならない」と聞こえるのは、そこにはまだ何も書かれていないからだ。

限りなく焦燥に近い欲望なのだ
つまり 生活とは
無限のような一瞬なのだ

 こんなことばを書いてみても、それは書きはじめてもいない。ことばにたどりついていない。ほんとうに書きたいことばが、まだ、やってこない。書きたいことばは遅れてやってくる。あらゆることばは遅れてやってくる。それは哀しみが、泣いてしまったあとにやってくるのに似ている。哀しみは遅れてやってくる。それを抱き締めるには、抱き締めてしっかり受け止めるには、まず泣いてしまわなければならない。
 平岡のことばは、そういう「場」でうごめいている。

 泣く、ではなく、「書く」と聞こえた、その1行。書くと聞こえたからには、「書く」ということを「中心」に据えて読み直してみる。「泣いてしまわねばならない」を「書いてしまわなければならない」と読み違えたまま、詩を読み直す。
 書く、とはどういうことか。
 それは過去を過去にすることだ。過去を「記憶」にすることだ。泣いてしまう、というのは、涙が出てきてしまう過去の出来事を、泣いてしまうことで、過去に封じ込める、過去にしてしまう、ということだ。

 ほんとうのキイワードは「泣く」ではなく、「しまう」なのだ。
 泣く、書くでは不十分。泣いて「しまう」、書いて「しまう」。それが、平岡の「肉体」が向き合っている世界だ。

 しかし。

 「抉られた記憶」ということばが平岡の現実をくっきりと描き出している。記憶はえぐられて、噴出してくる。過去はえぐられて、過去からあふれだしてくる。あふれだしてくるもの、しまいこめないものが過去なのだ。
 いま、ここ、へあふれだしてこないものは「過去」ではない。あふれだしてきて、涙をさそわないものは過去・記憶ではない。
 それをしまいこむために、泣く、書く--ここには矛盾がある。矛盾があるから、「思想」がある。

 過去を過去にするために書く--それは過去を過去から呼び出して、よりあざやかな過去にするということである。そうして、いったんあざやかな過去にしてしまえば、それを「出口」にしてさらに過去が噴出してくる。とめどもなく噴出してくる。過去とは、常に、現在の中へと噴出してくるからこそ過去なのである。
 だから、何度でも書かなければならない。(何度でも、泣かなければならない)。書いてしまう、泣いてしまうためには、次々に過去を現在に噴出させる、過去を生み出しつづけなければならない。
 この矛盾。矛盾だけれど、そうするしか方法がない。それが「思想」というものだ。

 矛盾。それが、書くこと。矛盾。それが、泣くこと。

 詩は、まだつづいている。

ただ目の前の哀しみを
泣いてしまわねばならない
海のように 繰り返し
赤子のように 揺れながら
希望のように 直ちに

白い月が夜明けと契るまでの
一瞬の けれど
永遠のような
絶望のような
闇を抱えて
今日を消費した焦燥を
なだめなければならない
一日の終わりに

つまり 生活とは
一瞬の闇が無限に続く
その先の壮麗な光なのだ

 「繰り返し」泣かねばならない。「繰り返し」書かなければならない。そうすることしか人間にはできないのだ。
 「希望のように 直ちに」は、泣くこと、書くことが、「希望」と直接つながっていることを証明している。「直ちに」とは「すぐに」であるが、それは「直接に」の「直」なのだ。
 「絶望」と「希望」は直接つながっている。「闇」と「光」は直接つながっている。その「直接」を取り戻すために、何度も何度も泣く、泣いてしまう。何度も何度も「繰り返し」書く、書いてしまう。

 ここに、たぶん、平岡の詩のすべてがある。まだ1篇読んだだけだけれど、私は、そのことを強烈に感じた。



誕生―ぼくはあす、不可思議な花を植え、愛、と名づける (アルカディアシリーズ―アルカディアブックス)
石川 勝保,平岡 けいこ
美研インターナショナル

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