詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

レベッカ・ミラー監督「50歳の恋愛白書」(★★★★-★)

2010-02-13 21:16:33 | 映画

監督・原作・脚本 レベッカ・ミラー 出演 ロビン・ライト・ペン、キアヌ・リーヴス、ウィノナ・ライダー、ブレイク・ライヴリー、モニカ・ベルッチ

 ここには書かなかったけれど、主演者がとても豪華。主役クラスがちらっ、ちらっと顔を出す。そして演技も手抜きをしていない。とてもいい映画だ。
 でもねえ、タイトルがひどい。タイトルで、損をしているねえ、この映画。まあ、内容も、単純明解なストーリーがあるわけではないから、ヒットはしないだろうけれど。
 ★評価が★4個-1個=3個の理由は、そこ。とても残念。
 私は、こういう映画は大好きで、タイトルさえまともなら、べたぼめしてしまうだろうなあ……。

 さて。
 見どころは、なんといってもロビン・ライト・ペン。とても不思議な存在感がある。映画であることを忘れてしまう。映画のなかに、「人間は年をとるにつれて優しさを身につけ行くものだが、きみ(ロビン・ライト・ペン)には最初から優しさがある」ということばが出てくるが、その感じがぴったり。
 他人を拒絶するものがない。
 あ、そうなのだ。いま、書いてみて気がついたのだが、ロビン・ライト・ペンがこの映画で演じている「役」は、優しいというよりも、「他人を拒絶しない」というキャラクターなのだ。
 母を拒絶したではないか、という見方もあるかもしれないけれど、それは拒絶ではない。いっしょにいると拒絶してしまいそうだから、拒絶という反応が出る前に、ロビン・ライト・ペンが母の元を去ったのだ。離れていったのだ。
 不思議というか、なんというか……。
 このロビン・ライト・ペンが演じる女は、他人を拒絶しないが、そこには「私」(ロビン・ライト・ペン自身)という「他人」も拒絶しない、ということが含まれる。誰でも、自分のなかに、自分ではどうすることもできない「私」、「他人としての私」を持っている。そういう「私」を拒絶しながら人間は複雑な行動をとるのだが、ロビン・ライト・ペンは違う。受け入れながら、優しくつつむ。そうすることで「私(ロビン・ライト・ペン)」という人格を完成させる。
 象徴的なのが、夢遊病としての「私」を受けれいることである。もちろん、それは拒絶できないものであるからこそ、病気として出現してくるものなのだが、ロビン・ライト・ペンは病気そのものを受け入れる。しっかりと病気である「私」、意識の及ばない「他人としての私」をみつめ、その「側」に立つ。治療によって、「他人としての私」を消してしまうようなことはしない。
 「他人としての私」をロビン・ライト・ペンは消さない。(この難しい役を、ロビン・ライト・ペンは、とても「軽く」演じている。存在感がある、というのは、こういう役者のことだねえ。)
 「他人としての私」を消さずに生きる、抱き締めて生きる--それがわかるから、夫も、若い恋人も、それを消そうとはしない。「他人としての私」を抱え込んだままのロビン・ライト・ペンを愛する。キアヌ・リーヴスもロビン・ライト・ペンの夫役をやった男優も、とてもいい感じでロビン・ライト・ペンと向き合っている。そのなかで、ロビン・ライト・ペンがほんとうに美しく輝いている。
 いやあ、いいなあ。ほんとうに、いいなあ。
 女性って、こんなふうに愛されたいんだねえ。女の気持ちがとってもよくわかる。よくつたわってくる。
 ちょっと男の監督には撮れない映画だ。
 レベッカ・ミラーという監督は、私の記憶のなかには名前が残っていないが、うーん、つばつけときたい、というかなんというか。人に知られたくない。自分だけのためにとっておきたいようないい感性だ。だれかお薦めの監督いない? お薦めの映画ない? と聞かれたとき、「どうしてもっていうなら教えるけれど……」という感じのする監督である。そういう1本である。
 ★4個-1個=3個という評価なんだけれど、ね、もし、あなたが映画が好きというなら、あなたにだけ、★4個+1個=5個という評価を、こっそり教えたい。こっそりなんだから、宣伝しちゃ、だめだよ。(←念押し)

メッセージ・イン・ア・ボトル [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城戸朱理「時間の解体へ」

2010-02-13 14:00:05 | 詩(雑誌・同人誌)
城戸朱理「時間の解体へ」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 城戸朱理「時間の解体へ」は三井喬子『青天の向こうがわ』評である。

 一年は誰にとっても一年であるわけだが、五歳の子供にとっての一年が、人生の二十パーセントであるのに対して、五十歳の人間にとって、一年とは、人生の二パーセントでしかない。子供のころの一年が永遠を思わせるほど長いものであるのに、年をとるにつれて、一年が早く感じられるというのは、その意味では当たり前であり、私たちは、そのように、時間というものを年齢に応じて主観的に把握している。

 びっくりしてしまった。こんな算数って、あるの? だいたい、この計算、あっているの?
 私は城戸のように頭がよくないので、昔のことはほとんど記憶していないが、たとえば生まれてすぐのその日、その一日は、城戸の計算によれば、その日は私にとって人生の百%になるわけだけれど、長かったのかなあ。わからないなあ。一歳の1年でも、やっぱりわからない。ぜんぜん長いとは感じないなあ。
 ちょとものごころがついて、たとえば小学生のとき。私は、山の中の小学生だったので、いまの子供のように塾もなければ習い事もない。遊ぶといっても、家の手伝いをしないことには遊べないし、暇なのか忙しいのかわからなかったが、たしかに夏休みは終わらないんじゃないかと思うくらい長かった。宿題はしない主義(?)だったので、最後の1日だって長かった。けれど、たとえば10歳のときの1年が人生の10%とは感じられないし、夏休みが40日として、ええっと、何%? それから、その夏休みの1日は人生の何%? わからないけれど、それでも長い?
 いや、ちょっと考えて、たとえば50歳の1年は、何歳のときの何日分と同じ割合になる? わかる? わからないなあ。算数の計算式があれば計算はできるだろうけれど、そんなふうにして計算して出てきた「数字」って、正確なもの?
 だいたい、そんなふうに「計算」で出さざるを得ないものって、「主観的」?

時間というものを年齢に応じて主観的に把握している。

 城戸ははっきりそう書いているが、「主観」って何なのさ。
 頭の悪い私は、はっきり言って、怒りだしちゃいますねえ。ちゃんと「日本語」で説明してくれよ。頭いいんだから、日本語くらい話せるだろう、と石でもぶつけたくなっちゃいますねえ。
 うちで飼っている犬だって、こんなわけのわからないことは言わない。
 「五歳の子供にとっての一年が、人生の二十パーセントであるのに対して、五十歳の人間にとって、一年とは、人生の二パーセントでしかない。」という計算って、「主観」じゃなくて、「主観」とはまったく関係ない(主観を無視した)「客観的」計算じゃない? 1(年)÷5(年)=0.2  1(年)÷50(年)=0.02。この「数学」が「主観的数学」だったらたいへんだよ。「1÷5=0.2 というのが数学の世界だけれど、私にとっては、1÷5=0.5 なんだよ」、あるいは「1÷5=7」というのが「主観的(実感)」という具合になるんじゃないの? 「主観」と「客観」がごちゃごちゃになっていない?

 詩にしろ、小説にしろ、文学というものは、それぞれの「個人的外国語」であることは理解しているつもりだが、あまりにも「日本語」からかけ離れている。
 「主観」を定義することから説明しなおしてよ。

 あ、違う言い方で質問しなおそう。私の疑問を書いておこう。

 誕生直後の子供、あるいは一歳のときは「主観」も「客観」もない、だから時間を「主観的」に把握できない。だから、たとえば一歳のときの1年は、その人にとって人生の100 %であるという計算は、そもそも成り立たない。
 城戸の「算数」(いや、小学生で習う足し算、引き算、掛け算、割り算という簡単な「算数」なんかではない--と城戸は主張するかもしれないが……)が、かりに正しいとしても、城戸は「主観」「客観」という意識がいつから人間の精神を動かしているかを除外したところでおこなわれているから、5歳のときの1年が人生の20%であるという計算にはまやかしがある。いつから「人生」と「その一生」、「その時間」を「主観的」に把握できるか、という大前提ぬきにして、○歳のときの1年はそのひとの○%なんて言えるわけがない。

 こんな「だまくらかし」が私は大嫌いだ。

 だいたい城戸は「主観」というものをどういう意味でつかっているのだろう。
 「主観」って、「客観」とは違って、「単位」がないよなあ。「単位」がないから「主観」だというのだと思うけれど、そういう「単位」のないものを、単位のあるもの(1年だとか、50年とか、城戸は「年」を単位としてつかっている)で「割る」ということは可能なの? 1年÷5年=0.2  ね、ちゃんと、「客観」には「単位」があるでしょ? ある単位を同じ単位の数字で割るとパーセント(割合)がでる。同じ単位でわらないときは「割合(パーセント)」にはならない。単位があることが「客観」の証明。
 単位のない「主観」を割ってパーセントを出すというような、そんな「高等数学」が、いったいどこに存在する?

 「割れない」から「主観」、数学で証明できないから「主観」。それなのに、「主観」を数学で証明しようとする。
 なんのために?
 私は数学ができます、と自慢するために? それとも、数学を出せば、数学に弱い(?)詩人をごまかすことができる? あ、政治家が、一般市民が知らないカタカナ用語でなにか新しい嘘を言うときみたいだねえ。「カタカナ用語の意味を知っていて、批判してるの? まず、カタカナ用語から勉強したら?」政治家が嘘をつくときは、そこからはじめるね。同じように、城戸は「数学がわかるの? まず数学を理解してから批判したら?」と詩人(読者)をだまくらかそうとしているようだ。
 「主観」と「時間」の関係を「算数」でごまかしたあと、城戸は、結論として、こう書いている。

 この詩集は、時間と存在が消え失せる消尽点を詩的に突きつめることによって、逆に、主観ではありえぬ時間と、時間の外のにある存在というものを示そうとしているのだと言っていい。

 わけがわからない。「時間と存在が消え失せる」とき、「時間の外にある存在」って、何さ。時間が消え失せるなら、時間の内も外も消え失せる。存在が消え失せるなら、存在はどこにもない。「外にある」なら、それは「消え失せない」。「主観ではありえぬ時間」が「絶対時間」というものなら、それに「外」なんてありうるのか。いつでも、どこでも存在するのが「絶対時間」であるだろう。
 「主観時間」の「割り算」という「高等数学」を持ち出す前に、「主観」なんていう前に、感じたこと、実感を、実感のまま書いたらいいだろうに、と私は思う。ひとをだまくらかすために「論理」(高等数学)をつかう前に、「肉体」でことばを動かすべきだろう。


戦後詩を滅ぼすために
城戸 朱理
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池井昌樹「本人」、小笠原鳥類「朝食」

2010-02-13 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「本人」、小笠原鳥類「朝食」(「歴程」565 、2010年01月31日発行)

 池井昌樹「本人」は誰のことを書いたものだろうか。こんなふうに思い出してもらえるのはうれしいことだ。

こまったおとこだったなああれは
きれいさっぱりはいにされ
こんなにちいさくなってしまって
ほんにんはでもいよいよげんき
くらいよみちをよみじへと
いとりいそいそわがやへと
どんなにたのしたったか だとか
どんなにさびしかったか だとか
あとかたもないあたまのうえに
まんてんのほしちりばめながら

 「黄泉路」と「我が家へ」が並列される。「楽しかった」と「寂しかった」も並列される。それは「並列」ではなく、ほんとうは「一体」なのだ。あるとき、「黄泉路」が「男」と一体になって立ち現れてくる。「家路」も、あるとき「男」と「一体」になって立ち現れてくる。「楽しさ」も「寂しさ」も同じである。ある何かが「楽しさ」や「寂しさ」ではない。それは常に「男」と「一体」であり、切り離すことはできない。
 そういうふうにして、ひとりの「男」を思い浮かべるとき、池井は「その男」として目の前に立ち現れてくる。「書かれている男」と「書いている男(池井)」が「一体」となる。「書かれている男」を取り除く(?)とき、池井は存在しなくなるし、池井を除外すれば「書かれている男」は消えてしまう。池井のことばのなかで、「その男」と池井が出会い、「ひとり」になる。
 「あとかたもない」ということばが出てくるが、「書かれている男」も「池井」も、同じように「あとかたもない」ものなのだ。存在はしない。存在するのは、だれかを思う気持ち、そして、その思う気持ちの動きのなかに、ひとは「あらわれる」ということだ。
 あるのは、あるとき、何かが「あらわれる」「たちあらわれる」ということだけなのだ。
 それは、星空のように、あるときがくれば(たとえば「夜」がくれば)、一斉に輝くように、一種の「摂理」なのだ。

 あ、でも。

 こんなふうに詩を完璧な美しさに高めてしまっていいのだろうか、と不安になる。池井の詩に、特にこの詩について、どんな不満があるというわけではないけれど、だからこそ、ちょっと困るなあという気持ちにもなる。
 あまりにも「自在」すぎて、池井のことばが「自由」をめざして動いているという感じがしないのだ。完成されすぎている。



 小笠原鳥類「朝食」のことばは、「主語」「述語」が結びついていない。学校教科書文法でいうと、不完全な「文体」である。

ここに模様(動物の形)が、くだものの
色彩に塗られた建物の、壁に。ここに

 この2行のことばのうち「主語」はどれで、「述語」はどれか。「動詞」は「塗られた」しかなく、その「塗られた」は「建物」を修飾している。「述語」にならない。そういう不完全な「文体」であるけれど、私は、なぜだか、

くだものの色彩にぬられた建物の壁に、模様(動物の形)が、ある

 と思ってしまう。「模様」(主語)が「ある」(述語)という「文章」として読んでしまう。不完全というか、主語-述語という形式を小笠原が破壊して書いているにもかかわらず、ことばがそんなふうに動いていくのを感じてしまう。
 なぜだろうか。
 「助詞」のつかい方が強靱なのだ。「ここに」の「に」が、再度「壁に」の「に」になって反復され、その「助詞」の力によって「ここ」と「壁」が同一のものとなる。小笠原は、いつもいつも完全な形で「助詞」をつかうわけではないが、必要なときはかならず正確につかう。そして、この「正確に」というのは、学校文法というか、文学の歴史というか、いわゆる誰もが知っている「正しさ」に基盤を置いている。
 完璧な嘘のこつは、全部を嘘で固めるのではなく、ひとつだけ「ほんとう」を含ませることだ--というようなことを何かで読んだ(聞いた)記憶があるが、小笠原は「助詞」を正確にすることで、いわぬる「学校教科書」の「文体」を破壊し、独自の文体をつくりあげる。完成させるのである。

 最初の2行が、もし「くだものの色彩にぬられた建物の壁に、模様(動物の形)が、ある」という単純な文章(ことばのありよう)に収斂してしまうなら、しかし、小笠原の詩はおもしろくない。たのしくない。
 私はとりあえず、冒頭の「ここに」を「壁に」という形で読み取り、「ある」という動詞を補う形でひとつの「文章」を浮かび上がらせてみたが、小笠原は最初の2行が簡単にそういう文章になってしまうことを知っているから、即座にそれを破壊するために、2行目の最後にもう一度「ここに」と置く。
 そのとき「ここ」は「壁」なのか。「壁」ではない。冒頭の「ここ」が「壁」であったら、その「ここ」は2行のことばによって「壁」に変質させられた「もの」である。何かである。その「なにか」がもう一度「ここ」というあいまいなものにひきもどされ、そこからことばが動きはじめるのだ。

ここに模様(動物の形)が、くだものの
色彩に塗られた建物の、壁に。ここに
写真で撮影されている、写真と
映画についての記事が多い(おお、
イルカなど、灰色の動物の、出現する
映画についての)カラフルな雑誌に

 「雑誌に」。それは「雑誌」に掲載された「写真」なのか。雑誌は、映画の記事を載せている。そこには動物の写真がある。--それは、冒頭の2行の「動物の形」を、ことばの「過去」から、いま、へと噴出させる。そのとき、「壁」は「壁」そのものではなくなる。「壁」ではあっても、それは「雑誌」に掲載された写真のなかの「壁」である。
 
 小笠原は、ことばの「過去」を噴出させるために「学校教科書」の「文体」を破壊しているのである。
 ことばは常に「過去」を「いま」に噴出させながら、「いま」「ここ」から別なところへと動いていく。「未来」へ、と簡単に言ってしまっていいかどうか、私にはわからないが……。
 このとき「過去」とは、明確な「もの」である。「もの」はそれ自体で「述語」をもたないけれど、その「述語」のかわりに、小笠原は、「助詞」をつかうというと変だけれど、助詞でことばにある方向性をだす。そこには、なんといえばいいのだろうか、自然と「日本語」の意識が動く。動いてしまう。その結果、どうしても「日本語」になってしまう。詩というのは、それぞれ独立した「外国語」なのだけれど、その独立した「外国語」が「日本語」で汚染されてしまう。
 ほんとうは、小笠原は、そういうものをこそ破壊したいのだろうけれど……。
 破壊したくて破壊でなきものが、「日本語」として小笠原に復讐をしかけてくる。その戦い--そう思いながら読むと、小笠原の詩はおもしろい。
 あるいは、逆に、小笠原のことばを、英語などの外国語にしてみたらどうなるか、それを考えると、「日本語」の復讐の度合いがわかっておもしろいかもしれない。
 次の数行、英語、フランス語(など助詞をもたない国語)に翻訳すると、どうなるかな?

「今月の、たべものの店」「野球
サッカーの、緑色のものの上で走る
元気な人たちが、さまざまな肉を
食事」写真と、短文と、料理のカラー写真が並び
ページを読んでいる(広げている、印刷




一輪
池井 昌樹
思潮社

このアイテムの詳細を見る

テレビ (新しい詩人)
小笠原 鳥類
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする