詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ペドロ・アルモドバル監督「抱擁のかけら」(★★★★)

2010-02-07 22:42:08 | 映画


監督・脚本 ペドロ・アルモドバル 出演 ペネロペ・クルス、ルイス・オマール、ブランカ・ポルティージョ、ホセ・ルイス・ゴメス、ルーベン・オカンディアノ

 美しいシーンがいつくもある。とりわけ美しいのが、盲目になったルイス・オマールが、彼とペネロペ・クルスのキスシーンを映し出すモニターに指でふれるシーンだ。モニターだから、その指にふれるのは実際のペネロペ・クルスの肌ではない。唇ではない。また、盲目になったルイス・オマールに、ペネロペ・クルスが見えるわけではない。そして、見えないこと、触れえないことが、そこにある「映像」をより輝かせる。
 モニターの映像は、証明の足りない車内、車内でキスをするふたりを映している。ルイス・オマールも、ペネロペ・クルスも、ともに不鮮明である。粒子がとんで、粗い映像である。そして、その「粗い映像」を見る(見える)のは、実、ルイス・オマール以外の登場人物と、映画の観客にだけである。ルイス・オマールには「粗い映像」は見えない。そのかわり、「鮮明な映像」が見える。同じように、もし、他の登場人物や観客がモニターに触れたとしても、そこから感じ取ることができるのはモニターのガラスだけである。だが、ルイス・オマールはガラスではなく、ペネロペ・クルスの肌である。唇である。
 ルイス・オマールの記憶(肉眼と、その唇、指)が、ペネロペ・クルスを見つめ、ペネロペ・クルスに触れる。それは、実際に見て、触れるものよりも強烈にルイス・オマールの「肉眼」と唇と手に直接的に刻まれる。美、そのものとして、直接的に刻まれ、美そのものになるのだ。
 あるいは、あらゆるものは「記憶」になることで「真実」になる、ということができるかもしれない。「現実」に起きているとき、それも「真実」ではあるにちがいないが、それは変更可能な何かである。「記憶」になるとき「不変の真実」になる。「普遍」になる。そういう「哲学」をアルモドバルは強烈に描く。

 もうひとつ、はっとするような美しいシーン。ペネロペ・クルスが、夫(パトロン?)の息子がとったビデオの映像にあわせ、アフレコをする。ビデオには「音」がない。ビデオのなかでは、ペネロペ・クルスが夫に対して、悲しい顔で別れを告げている。怒りを告げている。ところが、そのことばを思い出しながら、アフレコをする現実のペネロペ・クルスは、ビデオの映像とは違って肌が美しく輝いている。ビデオの映像では目も泣いているのに、アフレコをしている現実のペネロペ・クルスの目は、さっぱりと哀しみを洗い流してきれいに光っている。新しい命に輝いている。
 このシーンにはふたつの重要なテーマがある。ひとつは、ひとの顔はひとつではないということ。見るひとによって、それは違って見えるということ。違った顔をひとはひとにみせるということ。パトロンにとって、ペネロペ・クルスは狂おしいほどに愛しいひとだが、いつも醜い。ほかの男を愛していて、自分に振り向いてくれない「いやな女」である。「いやな女」であるからこそ、それを「外見どおりの美しい女」にしたくて、必死になっている。一方、ルイス・オマールには、いつでも「美しい顔」である。悲しみ、苦しんでいる顔に見えるときでも、それは悲しみ、苦しみをとりのぞけばいつでも輝かしい顔にかわるものとして見えている。
 もうひとつは、どんな悲しみも、悲しみという「過去」(記憶)にすることで、ひとはそれを乗り越えていくことができるということ。ルイス・オマールはペネロペ・クルスとのキスを「過去」から「いま」によみがえらせ、その官能的な唇を自分のものにすることで、ペネロペ・クルスが死んでしまったという悲しみを乗り越えるが、ペネロペ・クルスはパトロンと過ごさざるを得なかった悲しみを「過去」に封印することで、「過去」を乗り越える。

 この映画では、あらゆる登場人物が、「過去」を「過去」としてしっかり「記憶」し、つまり「いま」にはっきりと呼び出して、新しく、出発しなおす。「過去」を受け入れ、抱き締め、それから出発する。
 「抱擁のかけら」とはよく訳出したもので、過去のかけらを抱擁することで、新しい命を吹き込み、過去のなかで死んでしまった「いのち」をよみがえらせているのだ。
 ペネスペ・クルスがアフレコするシーンでは、パトロンといっしょに暮らすとき、その「家」(そのベッド)で、傷つけ、殺すしかなかったルイス・オマールへの愛、ペネロペ・クルス自身の純情をよみがえらせているのである。そのよみがえった純情、パトロンに汚された純情を涙で洗い流したからこそ、アフレコをするペネロペ・クルスは美しい。
 それはもしかすると、たんに純情を取り戻したから、というよりも、純情を捨ててしか生きる術がなかった自分自身を許しているからかもしれない。自分の過ちを自分で許す--そういうことをとおして、実は、自分を傷つけた他人をも許しているのかもしれない。怒りの中にも、なにかしら、そういう「包容力」のようなものが感じられる。
 これは、ルイス・オマールの生き方にもあらわれている。彼を傷つけたのは、ペネロペ・クルスの愛人だけではない。かつての恋人であり、仕事仲間の女性もまた、ひそかに彼を傷つけていた。けれど、それを許し、受け入れ、抱き締めて、いっしょに歩きはじめる。その「包容力」が、あらゆる命を新しくする。

 アルモドバルの映画の登場人物は、ちいさな脇役の人物さえ、なんというか、非常にアクが強い。それぞれが強烈な「物語」をもっている。パトロンは、まあ、役柄的にもそうなのだけれど、ビデオのペネロペ・クルスのことばを「読唇術」で再現させるなど、やることが度を越しているが、そういう人物ではなく、ほんとうにちょい役で出てくるパトロンの息子(アルモドバルの過去?)のゲイの愛人や、ペネロペ・クルスのヘアドレッサーの男、ペネロペ・クルスを階段から突き落とす役の、ピカソの泣く女のような顔の女優など、思い出すときりがない。そういう人物が、ごった煮のなかで濁ってしまわず、それぞれ何か「純粋」といっていいほどの強度で映画のなかで生きているのは、もしかするとアルモドバルの「包容力」のせいかもしれない--そんなことも考えた。感じた。





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劇団四季「コーラスライン」

2010-02-07 21:02:49 | その他(音楽、小説etc)
劇団四季「コーラスライン」(福岡・劇団四季劇場、2010年02月07日)

 「コーラスライン」の千秋楽である。そして、福岡における劇団四季の「千秋楽」でもあるはずだった。浅利慶太は、福岡での上演は赤字つづきでやっていけない。「コーラスライン」を最後に福岡から撤退する、と発表したばかりであった。
 ところが、その「千秋楽」の開演前に、浅利慶太が42年ぶり(と、たしか言っていた)に舞台に立ち、観客に向かって語りはじめた。
 「福岡から、コーラスラインを最後に撤退する予定だった。だが、その計画を発表したとたん、多くのファンから抗議のメールが殺到した。その量があまりに多いので、しばらく形をかえてつづけることにした。9月まで、とぎれとぎれに公演をつづける。夏休みには、子ども向けの作品も上演する。そのラインアップは……。」
 浅利慶太によれば、そもそも福岡の劇場は、舞台の東京一極集中を批判する(?)形ではじめたものである。その灯を消してはいけない、ということらしい。
 浅利慶太は、また、四季では入場料を値下げした。その結果、切符代金そのものの収益は年間18億円減ったが、入場客が増えたので実質減収は8億円だった、とも語った。どうか、まだ一度も舞台を見ていないひとに、ぜひ、見に来るよう呼びかけてほしい、とも語った。
 約10分間の挨拶だったが、これがこの日の一番の「出し物」であった。商売上手なひとだなあ、と感心した。



 ミュージカルそのものは、はっきり言って退屈である。オーディションに合格するために、整形手術を受けたと過去を語る役の女性の歌が聞きやすかったが、あとは、私の耳にはかなりつらく響いた。「コーラスライン」のオーディションという話だからといって、そこに登場する役者たちが、ほんとうにコーラスラインのオーディションを受けるレベルの歌、踊りでは、見ている方がつらくなる。
 え、こんなにうまいのに、オーディションに受からないの? という疑問がわくくらいでないと、芝居にならない。
 私は四季のミュージカルはそんなに見ていないので誤解しているかもしれないのだが、この「コーラスライン」のどの部分が、四季の(浅利慶太の)演出なのだろうか。そのままブロードウェイの舞台をなぞっているだけなのではないのか。新しいダンスの振り付けや、役に対する新しい解釈が施されているのだろうか。よくわからない。ブロードウェイまでいけない人のために、ブロードウェイで見てきたものを再現して提供します--が演出だとしたら、とてもさびしい。
 
 それにしても。
 役者の声をなんとかしてもらいたい。ミュージカルであろうと、普通の芝居だろうと、舞台の基本は「声」だろう。声でぐいっとひっぱる役者がほしい。もうしわけないが、私は何度も何度も居眠りしてしまった。声が聞きづらくて、何を感じているのか、それがつたわってこないからである。



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平岡けいこ『幻肢痛』(2)

2010-02-07 00:00:00 | 詩集
平岡けいこ『幻肢痛』(2)(砂子屋書房、2010年01月10日発行)

 平岡けいこはふたつの世界を生きている。ひとつは「想い」の世界。

地下深く眠るものたちに
私は想いをはせる
古ぼけた棺の中
いくつもの欠けた亡骸
焼けた記憶
繰り返す真夏の裏側
                                (「裏側!」)

 「想う」ことは「過去」を現在に引き寄せることである。そして、それは「過去」をつくりだすことでもある。つくりだすといっても捏造ではない。「過去」に感情、想いをつけくわえることである。感情には「いま」という時間しかないから、「過去」に感情あたえたら、それは「いま」になる。
 でも、この「いま」は、たとえば目の前にいる誰かの「いま」とは違っている。そこに、人間のかなしさがある。「想い」によって噴出してくる「過去」。それをどう共有できるか。
 共有するために、平岡は、書く。

 もうひとつは「もの」自体の世界だ。

枝は歪に伸びても美しい
世界との調和を保っているから
思考のないものは
完璧に存在する
                            (「たとえば<愛>」)

 「もの」には「思考」がない。だから完璧である。--これは、「思考」は間違えるということを逆説的に言ったものである。
 平岡のふたつの世界は「感情」と「もの」と言いなおすことができるかもしれない。言いなおしてもいいのかもしれないけれど、少し違う。そして、私がいいたい「ふたつの世界」の「ふたつめ」はほんとうは、その「少しの違い」のなかにあることである。

 「感情」が引き寄せる「過去の時間」と違って、「もの」は完璧である。それは「思考」を持たないからである。--だが、この対比は完璧ではない。ほんとうに対比させたいならば、「思考」ではなく「感情」ということばをつかって、

枝は歪に伸びても美しい
世界との調和を保っているから
感情のないものは
完璧に存在する

 と言わなければならない。けれど、平岡は「思考のないもの」と「思考」ということばを使う。
 平岡のことばは、ここでは、少し揺れている。独自の動きをしている。その「少し」の「揺れ」のなかに、平岡の「思想」がある。
 平岡は「感情」と「感情を排除した、もの」があると考えているのではなく、世界は感情と思考でできていると感じているのだ。「感情」と拮抗するのは「もの」ではなく、「思考」なのだ。
 「感情」と「思考」が「もの」のなかでぶつかって、世界が動いていく。「感情」と「思考」は一致しない。そしてて、「思考」を排除した「もの」だけが、「感情」には「完璧」な存在として出現する。「思考」が排除された「もの」は、どんな「感情」でも受け入れてくれるからである。「感情」は「もの」そのものになり、「世界」と調和できる--これは、夢である。かなわない夢である。

 「思考」と「感情」の違いは、次の連に書かれている。「たとえば<愛>」の3連目である。

歪な陰をひきずり歩く私という個
あなたと呼べる個を映してしか実感のない
あやふやなかたち

 「わたし」「あなた」という人間。それを平岡は「個」と呼ぶことで「もの」にしている。この「奇妙」なことばの運動が「思考」である。「思考」は存在から何かを剥ぎ取り、共通の「単位」(ここでは「個」)で整理しなおす。共通の「単位」をもったのは「数学」(論理)によって説明できる。そして「数学」(論理)によって、どこまでも動かしていくことができる。純粋に、動かしていくことができる。
 「感情」はそうではない。
 「思考」が「もの」から何かを剥ぎ取って「個」にするなら、「感情」は「もの」に何かをつけくわえることで「個」にする。それはたまたま「個」ということばのなかで重なり合うけれど、ほんとうは完全に別なものである。
 「思考」によって誕生する「個」は「単位」。それは「単位」であるから、基本的に、その「個」は複数なければならない。たとえば林檎を1個、2個と数え上げるとき、「林檎」は1個だけではだめである。複数存在しなければならない。複数存在するものを整理するために「単位」という共通の物差しが必要になる。それは逆に言えば、単位という物差しが、「もの」を「個」という形で生み出すということでもある。そして、その単位としての「個」とは、英語で言えば不定冠詞「a (an)」である。
 「感情」が生み出す「個」は、不定冠詞「a (an)」ではなく、定冠詞「the 」によって特徴づけられる。それはけっして他のものとはまじりあわない。世界でたったひとつである。それは「感情」が「世界」から、「自分自身のもの」として奪い取ったかけがえのないものである。
 どこにでもあるもの、不定冠詞「a (an)」によって整理されるものと、どこにでもないもの、定冠詞「the 」によって特徴づけられるもの。それは、「世界」のなかにあっては、ときとして区別がつかない。定冠詞「the 」によって特徴づけるときの、「感情」というものは目に見えないからである。「実感」は、それこそ定冠詞「the 」でしかありえない、「ひとり」の人間のなかにあるものだからである。

 このどうしようもない(というか、解決不能なとしかみえない)「思考」と「感情」の拮抗する世界を平岡はなんとか和解させようとする。
 「泣いてしまう」(書いてしまう)、つまり「過去」を常に「いま」に呼び出しつづけるという方法がひとつ。そして、もうひとつは……。「たとえば<愛>」の最後の方の連の2行。

忘却の言葉は想像という
優美な手に支えられている

 泣くこと、涙で「過去」を呼び出し、「忘却」という手で、その涙をぬぐうのだ。
 平岡のこの詩集には、「忘却」という手でぬぐいさられた「過去」が書かれている。「忘却」しようとして「忘却」できない「涙」が書かれている。--それは結果的に(?)みると、矛盾である。「忘却」されていない、完全にぬぐいさられていないから。けれど、それが矛盾であるからこそ、それが「思想」であり、「肉体」なのである。
 矛盾、矛盾するしかないことばこそ、信頼に値する「真実」である。「思想」である。




未完成な週末
平岡 けいこ
近代文芸社

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