監督・脚本 ペドロ・アルモドバル 出演 ペネロペ・クルス、ルイス・オマール、ブランカ・ポルティージョ、ホセ・ルイス・ゴメス、ルーベン・オカンディアノ
美しいシーンがいつくもある。とりわけ美しいのが、盲目になったルイス・オマールが、彼とペネロペ・クルスのキスシーンを映し出すモニターに指でふれるシーンだ。モニターだから、その指にふれるのは実際のペネロペ・クルスの肌ではない。唇ではない。また、盲目になったルイス・オマールに、ペネロペ・クルスが見えるわけではない。そして、見えないこと、触れえないことが、そこにある「映像」をより輝かせる。
モニターの映像は、証明の足りない車内、車内でキスをするふたりを映している。ルイス・オマールも、ペネロペ・クルスも、ともに不鮮明である。粒子がとんで、粗い映像である。そして、その「粗い映像」を見る(見える)のは、実、ルイス・オマール以外の登場人物と、映画の観客にだけである。ルイス・オマールには「粗い映像」は見えない。そのかわり、「鮮明な映像」が見える。同じように、もし、他の登場人物や観客がモニターに触れたとしても、そこから感じ取ることができるのはモニターのガラスだけである。だが、ルイス・オマールはガラスではなく、ペネロペ・クルスの肌である。唇である。
ルイス・オマールの記憶(肉眼と、その唇、指)が、ペネロペ・クルスを見つめ、ペネロペ・クルスに触れる。それは、実際に見て、触れるものよりも強烈にルイス・オマールの「肉眼」と唇と手に直接的に刻まれる。美、そのものとして、直接的に刻まれ、美そのものになるのだ。
あるいは、あらゆるものは「記憶」になることで「真実」になる、ということができるかもしれない。「現実」に起きているとき、それも「真実」ではあるにちがいないが、それは変更可能な何かである。「記憶」になるとき「不変の真実」になる。「普遍」になる。そういう「哲学」をアルモドバルは強烈に描く。
もうひとつ、はっとするような美しいシーン。ペネロペ・クルスが、夫(パトロン?)の息子がとったビデオの映像にあわせ、アフレコをする。ビデオには「音」がない。ビデオのなかでは、ペネロペ・クルスが夫に対して、悲しい顔で別れを告げている。怒りを告げている。ところが、そのことばを思い出しながら、アフレコをする現実のペネロペ・クルスは、ビデオの映像とは違って肌が美しく輝いている。ビデオの映像では目も泣いているのに、アフレコをしている現実のペネロペ・クルスの目は、さっぱりと哀しみを洗い流してきれいに光っている。新しい命に輝いている。
このシーンにはふたつの重要なテーマがある。ひとつは、ひとの顔はひとつではないということ。見るひとによって、それは違って見えるということ。違った顔をひとはひとにみせるということ。パトロンにとって、ペネロペ・クルスは狂おしいほどに愛しいひとだが、いつも醜い。ほかの男を愛していて、自分に振り向いてくれない「いやな女」である。「いやな女」であるからこそ、それを「外見どおりの美しい女」にしたくて、必死になっている。一方、ルイス・オマールには、いつでも「美しい顔」である。悲しみ、苦しんでいる顔に見えるときでも、それは悲しみ、苦しみをとりのぞけばいつでも輝かしい顔にかわるものとして見えている。
もうひとつは、どんな悲しみも、悲しみという「過去」(記憶)にすることで、ひとはそれを乗り越えていくことができるということ。ルイス・オマールはペネロペ・クルスとのキスを「過去」から「いま」によみがえらせ、その官能的な唇を自分のものにすることで、ペネロペ・クルスが死んでしまったという悲しみを乗り越えるが、ペネロペ・クルスはパトロンと過ごさざるを得なかった悲しみを「過去」に封印することで、「過去」を乗り越える。
この映画では、あらゆる登場人物が、「過去」を「過去」としてしっかり「記憶」し、つまり「いま」にはっきりと呼び出して、新しく、出発しなおす。「過去」を受け入れ、抱き締め、それから出発する。
「抱擁のかけら」とはよく訳出したもので、過去のかけらを抱擁することで、新しい命を吹き込み、過去のなかで死んでしまった「いのち」をよみがえらせているのだ。
ペネスペ・クルスがアフレコするシーンでは、パトロンといっしょに暮らすとき、その「家」(そのベッド)で、傷つけ、殺すしかなかったルイス・オマールへの愛、ペネロペ・クルス自身の純情をよみがえらせているのである。そのよみがえった純情、パトロンに汚された純情を涙で洗い流したからこそ、アフレコをするペネロペ・クルスは美しい。
それはもしかすると、たんに純情を取り戻したから、というよりも、純情を捨ててしか生きる術がなかった自分自身を許しているからかもしれない。自分の過ちを自分で許す--そういうことをとおして、実は、自分を傷つけた他人をも許しているのかもしれない。怒りの中にも、なにかしら、そういう「包容力」のようなものが感じられる。
これは、ルイス・オマールの生き方にもあらわれている。彼を傷つけたのは、ペネロペ・クルスの愛人だけではない。かつての恋人であり、仕事仲間の女性もまた、ひそかに彼を傷つけていた。けれど、それを許し、受け入れ、抱き締めて、いっしょに歩きはじめる。その「包容力」が、あらゆる命を新しくする。
アルモドバルの映画の登場人物は、ちいさな脇役の人物さえ、なんというか、非常にアクが強い。それぞれが強烈な「物語」をもっている。パトロンは、まあ、役柄的にもそうなのだけれど、ビデオのペネロペ・クルスのことばを「読唇術」で再現させるなど、やることが度を越しているが、そういう人物ではなく、ほんとうにちょい役で出てくるパトロンの息子(アルモドバルの過去?)のゲイの愛人や、ペネロペ・クルスのヘアドレッサーの男、ペネロペ・クルスを階段から突き落とす役の、ピカソの泣く女のような顔の女優など、思い出すときりがない。そういう人物が、ごった煮のなかで濁ってしまわず、それぞれ何か「純粋」といっていいほどの強度で映画のなかで生きているのは、もしかするとアルモドバルの「包容力」のせいかもしれない--そんなことも考えた。感じた。
ペドロ・アルモドバル・セレクション DVD-BOX紀伊國屋書店このアイテムの詳細を見る |