詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(111 )

2010-02-19 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「体裁のいい景色(人間時代の遺留品)」は断章で構成されている。私は「意味」を気にしない読者だけれど、ときどき「意味」も考える。似たことばがでてきたとき、あ、これはこれの言い換えか、という具合に。
 ひとはだれでも、同じことを同じことばで繰り返すか、別のことばで繰り返すことの方が多い。新しい何かを言うよりも。新しいこと--というのは、そんなに多くないのかもしれない。繰り返しの中の「差異(ずれ)」のなかにしか新しいことがないのかもしれない。ことばは、もうすでにあふれるほど書かれてしまっているから……。

   (1)

やつぱり脳髄は淋しい
実に進歩しない物品である

 「脳髄」と「淋しい」は西脇の詩のなかでは頻繁に出てくる。出てくるたびに私は、西脇は「淋しい」が好きなんだなあと感じる。その「淋しい」は、私の感じる「淋しい」とは少し違うと思うけれど、その違いをつきつめて考えることはしない。「ひとがいなくて淋しい」とは違う何か、けれど「人がいないときの淋しい」にも通じる何か--それくらいの感じでしか読んでいない。
 すこし、考えてみることにする。
 この2行を「学校教科書文法(あるいは解読法?)」にしたがって読めば、脳髄は進歩しない、だから「淋しい」物品である、ということになる。進歩しないことが「淋しい」に通じる。「脳髄」を「物品」と対象化することで、進歩しないことは「淋しい」ことであると、客観的(?)に定義している。
 でも、進歩って何? 「脳髄」には日々、いろいろなものが蓄積される。学習をとおして、いわば「進歩」するのが脳髄である。「何が」進歩するのか--そのことが省略されているので、この2行は、正確(?)には「意味」をとることができないけれど、まあ、学習による知識の蓄積--そういうものはほんとうの進歩ではない。そういうものでいっぱいになってしまう脳髄というのは「淋しい」。
 「学校教科書解読法」では、これくらいまで考えるのかな? でも、なんというのだろう、こういう解読そのものが、西脇からいわせれば「淋しい」の典型かもしれないね。

 (いま、「物品」ということば、その「音」について書いてみたいという欲望にとてもつよくかられているので、ちょっと挿入する形で……。
 この2行でいちばん驚くのは「物品」ということば、その「音」である。
 私の「音感」でいえば、ここは「代物(しろもの)」ということばがくる。さび「しい」、「し」んぽ「し」ない「し」「ろ」ものであ「る」。「し」の「音」と「ら行」が交錯する。のう「ず」い「じ」つに、という「ざ行」の通い合いも「し」につながる。「ず→じ→し」という具合。
 でも、西脇は「物品」と書く。
 この「音」を聞いた瞬間(見た瞬間、読んだ瞬間と言い換えるべきか)、私の「脳髄」の「音」は、西脇に比べると、格段に「淋しい」ことがわかる。
 「物品(ぶっぴん)」は冒頭の「やつぱり」と呼応しているのである。
 「淋しい」ということばをつかいながら、どこかに「やっぱり」淋しくはない「音楽」をひそませている。
 それが西脇だ。)

 「淋しい」にもどる。

   (2)

湖畔になる可く簡単な時計を据付けてから
おれはおれのパナマ帽子の下で
盛んに饒舌つてみても
割合に面白くない

 「淋しい」は「割合に面白くない」と言い換えられている。たんに「面白くない」ではなく「割合に」ということわりがあるが、この「割合に」という不思議な「思い入れ」のようなものが「淋しい」と深く関係しているかもしれない。
 客観的ではなく、主観的な、何か。不足感。それが「淋しい」かもしれない。

 (で、またまた脱線。
 「湖畔になる可く簡単な時計を据付けてから」の「なる可く」は「なるべく」と読ませるのだと思う。
 でも、そう読んだあと「簡単な」という「音」がつづくと、いま「べ」と読んだばかりの「可」を、「肉体」は「か」と読み替えている。そして、それが「据付けてから」の「か」へジャンプしてゆく。間にあることばを飛び越えて、なる「か」く「か」んたんなとけいをすえてつけ「か」ら--という具合になってしまう。
 「意味」と「音」が「文字」(書きことば)によって、とんでもない具合に暴走してしまう。
 それは「パナマ帽子の下(した)で」「盛んに饒舌(しゃべ)つてみても」にも通じる。「饒舌つて」の「舌」に目が触れたとき、「しゃべって」と読むべきであることはわかっているのに「した」と読みたくなる。「下」と「舌」が重なり合う。そして、「饒舌つて」を「しゃべって」以外の「音」でどう読めば面白くなるんだろうか、とどきどきしてしまう。
 でも、これって、「割合に」面白くない。どちらかというと「淋しい」。しゃきっとした感じで、何かが動かない--「進歩」がないからね。)

 もう一度「淋しい」にもどってみる。

   (4)

青いマンゴウの果実が冷静な空気を破り
ねむたき鉛筆を脅迫する
赤道地方は大体に於いてテキパキしていない

   (5)

快活なる杉の樹は
どうにも手がつけられん
実にむずかしい

 「テキパキしていない」は「淋しい」に通じると思う。「進歩」がないからね。「ねむたき」も「淋しい」に通じるだろう。停滞しているものは「面白くない」。だから「淋しい」。--「やつぱり脳髄は淋しい/実に進歩しない」は、そんなふうに形を変えて表現されている、ということかもしれない。
 「むずかしい」も「淋しい」だろう。(4)(5)は、絵を描いているときの描写だろう。「快活な」杉の絵を描くには手がおいつかない(手がつけられん)。「むずかしい」。だから「さびしい」。
 そうすると(?)、「淋しい」の対極にあるのは、「快活」ということかもしれない。「テキパキ」ということになるかもしれない。快活でテキパキしているものは「面白い」。そうでないものは「淋しい」。

 でもね、西脇は、次のようにも書くのだ。

   (8)

頭の明晰ということは悪いことである
けれども上級の女学生はそれを大変に愛する

 「淋しい」は「面白くない」というふうに「明晰に(あ、私の分析は明晰ではなかった?)」結論づけてしまうのは「悪いこと」である。
 わからないことを、わかったように分析し、そこに道筋をつけ、あたかも「進歩」したかのように装うこと--脳髄にできるのは、そういうことにすぎない。そういう擬似的な脳髄の操作、作業。それこそが、実は「淋しい」である。

 人間は、どうしても、そういう「悪」に染まってしまう。「脳髄」を持っているかぎり、その罠に陥ってしまう。ここから、どうやって脱出するか--西脇が考えているのは、ほんとうは、そういうことだと思う。
 「淋しい」には「脳」を破壊し、そのあとの世界を夢見る何かがこめられている、と私は感じている。





ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
小沢書店

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駱英「タルキートナのクジラの骨」

2010-02-19 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
駱英「タルキートナのクジラの骨」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 私は「誤読」する。「意味」を誤解するだけではなく、文字通り「文字」を間違って読んでしまう。
 たとえば、駱英「タルキートナのクジラの骨」。

ある原住民の長老がクジラの骨を売ってくれた
それはひとの霊魂か魂魄を収める器のように見えた
原住民の長老は米ドルを手にして呟く
わしには器に飛び込む自分が見えたんだ

 この4行目の「わしには」を私は「わたしには」と読んでしまう。3行目に「原住民の長老が……呟く」ということばがあるのだから、4行目は、長老の「つぶやき」のはずである。文法意識のしっかりしている人間なら、読み間違えないだろう。けれど、私は読み間違えてしまう。その前の(2行目の)

それはひとの霊魂か魂魄を収める器のように見えた

 の「器」が意識にひっかかっているからだ。「器のように」とあるから、これは「比喩」。「比喩」というのは、いま、ここにはないけれど、それを持ち出すことで、「意識」というか精神の動きをひとつの方向にひっぱっていくものだ。強いことばだ。その強いことばが、

わしには器に飛び込む自分が見えたんだ

 で繰り返される。そして、それはともに「見えた」でしめくくられる。クジラの骨が「器」(のように)「見えた」見えた、クジラの骨の「器」に飛び込む自分が「見えた」。「器」のように「見えた」のは、詩人・駱英(わたし)にとってである。だから、その「器」に飛び込む「自分」が「見えた」というのは、「器」に飛び込む駱英(わたし)が「見えた」ということだろう。
 「わし」と書いてあるけれど「わたし」と読んでしまった理由はそこにある。
 この段階で、私は私の「誤読」に気がついていない。


原住民の長老は声を大きくする これは二千年前の代物だ
わしらの祖先が大きなクジラを一頭仕留めたんだが
クジラのやつ祖先の一族三百人を呑み込みおった
祖先は毎日クジラの頭蓋骨製の器を見て憎しみをかき立てて
かく予言した この器は二千年後に人に買われる
苦しみも憎しみもそのとき忘却できる、と

 「原住民の長老は声を大きくする」とあるから、この6行も駱英の祖先の話ではない。「わしらの祖先」ということば、「呑み込みおった」の「おった」ということばに、あ、これは「長老」の祖先の話であり、長老が駱英に話しかけているんだと気がつきながらも、私はまだ「わしらの祖先」を「わたしらの祖先」かもしれないなあ、と「誤読」したがっている。長老の祖先ではなく、「わたしらの」(駱英らの)祖先、と読みたい気持ちになっている。駱英は、そこに「他人」の経験ではなく、自分の経験であり方かもしれないものを見ている--そう読みたい気持ちが、駱英のことばを、そんなふうに「誤読」させるのだ。
 すると、とても変なことが起きる。

今度は 私に器でもがく自分が見えた
三百の霊魂が三百の悲しみを訴えかけてくる
だがクジラはその大きな頭蓋骨で私とその祖先たちをすっぽり覆ってしまった

 私が「誤読」したように、駱英が「私に器でもがく自分が見えた」と、器(クジラ)にのみこまれているのだ。
 「今度は」ということばで、私は、はっと気がつき(はっと、目が覚め)、前の行を読み直し、あ「わたし」ではなく、これまで書かれていたのは「わし」だったのか、と気がつくのだが、その気がついた瞬間に、
 「今度は」
 駱英が「誤読」しはじめている。

 --これは、とても奇妙な言い方になるけれど、駱英は長老の話を聞くことで、その話を「私(駱英)」の祖先の話と「誤読」し(正確には「誤読」ではなく、「誤聴」といえばいいのだろうか、日本語らしく「誤解」といえばいいのだろうか)、そこにつながる「自分」をみつめはじめているのだ。
 あ、私が「誤読」しただけではなく、駱英も「誤読」しているじゃないか。「誤読」のなかで、私と駱英が重なっているじゃないか。
 こんな感想は、駱英にとっては「意味」をなさないし、多くの人にも、私の書き方は間違っているということになるのは承知しているけれど……。

 私が書きたいのは、実は、ここ。

 こんなふうにねじくれて「誤読」したとき、私は、その詩人が大好きになる。詩人のことばが「他人」のことばではなく、自分のことばのように大切になる。
 私は駱英のことばを「誤読」し、駱英と長老らの祖先、そしてクジラと重なる。駱英のことばを「誤読」することで、私自身が駱英になって、それから長老らの祖先になって、クジラにのみこまれていくのを感じる。そのときの「肉体」の動きは、駱英が長老のことばに誘われ、自分を、そして自分の祖先を、長老らの祖先と「誤読」(誤解)し、クジラにのみこまれていく動きと重なる。
 だから、

だがクジラはその大きな頭蓋骨で私とその祖先たちをすっぽり覆ってしまった

 この1行の「その祖先」の「その」は誰(何)を指す? わからないでしょ? 「私」と「と」で結ばれているのは「だれ」? 私「と私の祖先」? あるいは私と「長老らの祖先」?
 区別がつかない。
 「誤読」をとおして、ほんとうはつながっていないものがつながってしまう。
 そして、そのときの「つながり」には、「区別」がない。

 この「つながり」を駱英は「宇宙」(世界)と呼んでいる。詩は、次の2行でしめくくられる。

私は思う おそらくこれが今日の宇宙と世界の象徴なのだ
よかろう 自分と一緒に三百の霊魂を北京まで連れ帰るとしよう

 この「宇宙感覚」は、私には、とても気持ちがいい。



 駱英の今回の詩の「誤読」で、私は、もうひとつ別のことを感じた。「書きことば」と「話しことば」の違い。
 「書きことば」の「誤読」の方がスピードが速い。暴走の度合いが大きい。
 こんなことは現実的には矛盾しているのだが、駱英が長老の話を聞いて、自分の祖先と自分を「誤読」するよりも早く、私は駱英の書いていることば(書きことば--書かれたことば)をとおして「誤読」してしまった。
 私の「誤読」に駱英がやっと追い付いてきた、という奇妙な感覚にとらわれてしまった。
 こういうことは、「書きことば」の方が「話しことば」よりもスピードが速いという仮説(?)でしか、証明できない。
 私は、クジラにのみこまれた祖先と私--という関係を、私は「わし」という「文字」を中心にして「誤読」した。そのとき「器」「見る」(見えた)ということばも影響していたが、「誤読」そのものは「わし」であって、「器」「見る」は「誤読」はしていない。「器」「見る」は正確に読んでいる、いちおうは。
 もし、私が書かれた文字(駱英の詩)を読むのではなく、駱英のように直接長老から話を聞いているのだとしたら、「わし」を「わたし」と「誤読」(正確には「誤聴」、「聞き間違い」)はしない。「わたし」と「わし」はだいたい、「聞き手」と「話し手」であり、会話のなかでは、混同のしようがない。話している人が、だれが「わたし」で、だれが「あなた」かわからなくなるようなことはありえない。
 また、この詩が「朗読」されたとしたら(その詩を朗読をとおして聞いたとしたら)、やはり私は「誤解」しないだろう。「わたし」というときと「わたし」というときでは、声の調子が違う。「呑み込みおった」の「おった」が象徴的だが、どんなことばも、いったん「声」となって「口」から出るときには、そこに「肉体」が刻印されていて、その刻印のなかで「わたし」と「わし」(別人)を勘違いすることはない。
 話しことば(対話)のなかで、話者(相手)を「わたし」と勘違いするということ--つまり、その話に吸収されるようにして、相手の勘定に揺さぶられ、自分が自分でなくなってしまうというのは、その人の話をじっくり聞いたときにおこることである。「わし」というひとことで、先の先まで「誤解」するというか、共感してしまって、感情が先走りするということはない。
 「話しことば」は、のろのろと進むのだ。「話しことば」は「誤読」(誤解)しようとしても、「誤解」しているなあ、と話者の方が気がつき、「いまの話、わかった?」とかなんとか、問いかけてくる。「書きことば」は、そういう「応答」がない。だから、どんどん暴走する。「誤読」が一人歩きする、ということがあるのだ。 

 あ、これは、「誤読」癖の弁解にすぎない? かもしれないなあ。



都市流浪集
駱 英
思潮社

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