「体裁のいい景色(人間時代の遺留品)」は断章で構成されている。私は「意味」を気にしない読者だけれど、ときどき「意味」も考える。似たことばがでてきたとき、あ、これはこれの言い換えか、という具合に。
ひとはだれでも、同じことを同じことばで繰り返すか、別のことばで繰り返すことの方が多い。新しい何かを言うよりも。新しいこと--というのは、そんなに多くないのかもしれない。繰り返しの中の「差異(ずれ)」のなかにしか新しいことがないのかもしれない。ことばは、もうすでにあふれるほど書かれてしまっているから……。
(1)
やつぱり脳髄は淋しい
実に進歩しない物品である
「脳髄」と「淋しい」は西脇の詩のなかでは頻繁に出てくる。出てくるたびに私は、西脇は「淋しい」が好きなんだなあと感じる。その「淋しい」は、私の感じる「淋しい」とは少し違うと思うけれど、その違いをつきつめて考えることはしない。「ひとがいなくて淋しい」とは違う何か、けれど「人がいないときの淋しい」にも通じる何か--それくらいの感じでしか読んでいない。
すこし、考えてみることにする。
この2行を「学校教科書文法(あるいは解読法?)」にしたがって読めば、脳髄は進歩しない、だから「淋しい」物品である、ということになる。進歩しないことが「淋しい」に通じる。「脳髄」を「物品」と対象化することで、進歩しないことは「淋しい」ことであると、客観的(?)に定義している。
でも、進歩って何? 「脳髄」には日々、いろいろなものが蓄積される。学習をとおして、いわば「進歩」するのが脳髄である。「何が」進歩するのか--そのことが省略されているので、この2行は、正確(?)には「意味」をとることができないけれど、まあ、学習による知識の蓄積--そういうものはほんとうの進歩ではない。そういうものでいっぱいになってしまう脳髄というのは「淋しい」。
「学校教科書解読法」では、これくらいまで考えるのかな? でも、なんというのだろう、こういう解読そのものが、西脇からいわせれば「淋しい」の典型かもしれないね。
(いま、「物品」ということば、その「音」について書いてみたいという欲望にとてもつよくかられているので、ちょっと挿入する形で……。
この2行でいちばん驚くのは「物品」ということば、その「音」である。
私の「音感」でいえば、ここは「代物(しろもの)」ということばがくる。さび「しい」、「し」んぽ「し」ない「し」「ろ」ものであ「る」。「し」の「音」と「ら行」が交錯する。のう「ず」い「じ」つに、という「ざ行」の通い合いも「し」につながる。「ず→じ→し」という具合。
でも、西脇は「物品」と書く。
この「音」を聞いた瞬間(見た瞬間、読んだ瞬間と言い換えるべきか)、私の「脳髄」の「音」は、西脇に比べると、格段に「淋しい」ことがわかる。
「物品(ぶっぴん)」は冒頭の「やつぱり」と呼応しているのである。
「淋しい」ということばをつかいながら、どこかに「やっぱり」淋しくはない「音楽」をひそませている。
それが西脇だ。)
「淋しい」にもどる。
(2)
湖畔になる可く簡単な時計を据付けてから
おれはおれのパナマ帽子の下で
盛んに饒舌つてみても
割合に面白くない
「淋しい」は「割合に面白くない」と言い換えられている。たんに「面白くない」ではなく「割合に」ということわりがあるが、この「割合に」という不思議な「思い入れ」のようなものが「淋しい」と深く関係しているかもしれない。
客観的ではなく、主観的な、何か。不足感。それが「淋しい」かもしれない。
(で、またまた脱線。
「湖畔になる可く簡単な時計を据付けてから」の「なる可く」は「なるべく」と読ませるのだと思う。
でも、そう読んだあと「簡単な」という「音」がつづくと、いま「べ」と読んだばかりの「可」を、「肉体」は「か」と読み替えている。そして、それが「据付けてから」の「か」へジャンプしてゆく。間にあることばを飛び越えて、なる「か」く「か」んたんなとけいをすえてつけ「か」ら--という具合になってしまう。
「意味」と「音」が「文字」(書きことば)によって、とんでもない具合に暴走してしまう。
それは「パナマ帽子の下(した)で」「盛んに饒舌(しゃべ)つてみても」にも通じる。「饒舌つて」の「舌」に目が触れたとき、「しゃべって」と読むべきであることはわかっているのに「した」と読みたくなる。「下」と「舌」が重なり合う。そして、「饒舌つて」を「しゃべって」以外の「音」でどう読めば面白くなるんだろうか、とどきどきしてしまう。
でも、これって、「割合に」面白くない。どちらかというと「淋しい」。しゃきっとした感じで、何かが動かない--「進歩」がないからね。)
もう一度「淋しい」にもどってみる。
(4)
青いマンゴウの果実が冷静な空気を破り
ねむたき鉛筆を脅迫する
赤道地方は大体に於いてテキパキしていない
(5)
快活なる杉の樹は
どうにも手がつけられん
実にむずかしい
「テキパキしていない」は「淋しい」に通じると思う。「進歩」がないからね。「ねむたき」も「淋しい」に通じるだろう。停滞しているものは「面白くない」。だから「淋しい」。--「やつぱり脳髄は淋しい/実に進歩しない」は、そんなふうに形を変えて表現されている、ということかもしれない。
「むずかしい」も「淋しい」だろう。(4)(5)は、絵を描いているときの描写だろう。「快活な」杉の絵を描くには手がおいつかない(手がつけられん)。「むずかしい」。だから「さびしい」。
そうすると(?)、「淋しい」の対極にあるのは、「快活」ということかもしれない。「テキパキ」ということになるかもしれない。快活でテキパキしているものは「面白い」。そうでないものは「淋しい」。
でもね、西脇は、次のようにも書くのだ。
(8)
頭の明晰ということは悪いことである
けれども上級の女学生はそれを大変に愛する
「淋しい」は「面白くない」というふうに「明晰に(あ、私の分析は明晰ではなかった?)」結論づけてしまうのは「悪いこと」である。
わからないことを、わかったように分析し、そこに道筋をつけ、あたかも「進歩」したかのように装うこと--脳髄にできるのは、そういうことにすぎない。そういう擬似的な脳髄の操作、作業。それこそが、実は「淋しい」である。
人間は、どうしても、そういう「悪」に染まってしまう。「脳髄」を持っているかぎり、その罠に陥ってしまう。ここから、どうやって脱出するか--西脇が考えているのは、ほんとうは、そういうことだと思う。
「淋しい」には「脳」を破壊し、そのあとの世界を夢見る何かがこめられている、と私は感じている。
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