「比喩」とは何か。「いま」「ここ」にあるものを「いま」「ここ」にないもので語ることである。「いま」「ここ」から逸脱し、「いま」「ここ」ではない世界へ逸脱することである。そして、逸脱しながら、同時に「いま」「ここ」へ帰ってくる。それは「いま」「ここ」を混乱させることである。その混乱の中に、その乱れ、乱調の中に、喜びがある。それは視覚の喜びだったり、聴覚の喜びだったり、あるいは感覚ではなく「頭脳」の喜びだったりする。
西脇の逸脱は単純ではない。視覚の喜び、聴覚の喜びと、簡単に分類できないことがある。そして、それが複雑であることが楽しい。
「五月」。そのなかほど。
人間ではないものを
あこがれる人間の
青ざめた反射は
このすてられた庭で
石の幻燈のくらやみに
コランの裸女が
虎のようなしりをもちあげて
ねそべるのだ
「人間ではないものを/あこがれる人間の/青ざめた反射は」の「青ざめた反射」ということばは、「人間の精神」の「比喩」かもしれない。とりあえず、そう仮定しておく。「青ざめた反射は」の「は」は「青ざめた反射(精神)」が「主語」であることを指し示している。
では、「述語」は?
それらしいことばが、すぐにはみつからない。
「述語」が「ない」ということも考えられるけれど、私は「ねそべる」を「述語」だと感じている。
人間の青ざめた反射(精神)は、このすてられた庭で、ねそべる--そう考えると、なんとなく「文章」になる。ひとつづきの「意味」(内容)が浮かび上がってくるような気がする。
この場合、「石の幻燈のくらやみに」は「庭で」という場のありようを補足したものとなる。そして「コランの裸女が/虎のようなしりをもちあげて」という2行が、「ねそべる」を説明した「比喩」になる。
「青ざめた反射」は、(庭のくらやみに)裸の女がしりをもちあげるように、ねそべっている。
簡略化すると、そういう「比喩」を含んだ文章になり、その簡略化した「裸女」の「しり」に「虎のような」という「比喩」が重なっている。
この7行のなかには、「比喩」が「入り子細工」のように組み合わさっているのである。「入り子構造」をとることで、「比喩」が逸脱していくのである。そして、その逸脱は、最初の「主語」さえかき消すところまで突き進む。
コランの裸女が
虎のようなしりをもちあげて
ねそべるのだ
この3行を読んで、ほんとうの「主語」は「青ざめた反射」であったことを、すぐに思い出せるひとは少ないだろう。「青ざめた反射」という「主語」の「述語」はどれ? などという疑問というか、しつこい学校教科書文法は忘れてしまって、単純に裸女の虎のようなしりを思い浮かべるだろう。裸女がしりをもちあげて、欲情を誘うように、ねそべっている--そういう姿を思い浮かべてしまうだろう。
ことばが、比喩をくぐりぬけることで暴走し、その暴走のスピードにつられて、「青ざめた反射」という「主語」(頭)がどこかへ吹き飛んでしまう。そういう快感がこの行の展開の中にある。
そして。
この比喩の暴走、ことばの暴走がもたらす喜びは、裸女のしり、虎のようなしり、という男にとって(女にとって、もかもしれないが)、きわめて「視覚的」な喜びである。スケベな視力をめざめさせる喜びである。
こういうことがあるから、西脇のことばは絵画的(視覚的)と言われるのかもしれない。
それはそのとおりなのだが、私の「肉体」野中手は、別なものも揺さぶられている。「コランの裸女が」という行の「コラン」である。「コラン」が何を指し示しているのか、無知な私には皆目見当がつかないが、それが「すてられた庭」「石の幻燈」「くらやみ」というような、一種、日本的(東洋的?)な風景からははるかに逸脱したものであると感じる。異国のものであると感じる。「コラン」というカタカナの表記と「音」によって。
「コラン」という表記と「音」があって、この7行は、なんだか急にぶっ飛んでしまう。急に飛躍してしまう。
つづく「裸女」を西脇は何と読ませたいのかわからないが、私は「らじょ」と読む。「らじょ」ということばが日常的かどうか、私にはよくわからない。私なら「裸の女」と書いてしまうだろう。そう書いてしまうだろうけれど、「裸女」という文字にふれると、自然に「らじょ」と読んでしまう。そこには「コラン」の「ラ」の音が影響しているのだ。
だから。(ちょっと、強引な「だから」なのだが。)
だから、「裸女」は「らじょ」と読んでいるのではなく、ほんとうは「ラジョ」と読んで、そのあと、「裸女」という文字に引き戻されて「らじょ」と読み、そして「裸の女」と頭のなかで理解しているのだと思う。
そして(またまた、そしてなのだが)、「ラジョ」が「裸の女」にもどったとき、「虎」「しり」が、「異国」のものではなく、また身近なものになる。「日常(というには、ちょっと変だけれど)」の「比喩」になる。
「コラン」「裸女」--このふたつのことば、表記と音によって、私は(私の「肉体」は)、不思議な度をするのだ。そこには「ラ」「ら」という音がとても強く響いている。全体としては、「視覚的」な「比喩」なのだが、私はそれを「視覚的」と感じるよりも、ほんとうは「聴覚的」と感じてしまう。「音楽」があって、はじめて、この7行のことばの暴走、詩が生まれると感じる。
私にとって、西脇は、いつでも「音楽」なのだ。
西脇順三郎詩集 (岩波文庫)西脇 順三郎岩波書店このアイテムの詳細を見る |