詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(98)

2010-02-01 12:00:36 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「比喩」とは何か。「いま」「ここ」にあるものを「いま」「ここ」にないもので語ることである。「いま」「ここ」から逸脱し、「いま」「ここ」ではない世界へ逸脱することである。そして、逸脱しながら、同時に「いま」「ここ」へ帰ってくる。それは「いま」「ここ」を混乱させることである。その混乱の中に、その乱れ、乱調の中に、喜びがある。それは視覚の喜びだったり、聴覚の喜びだったり、あるいは感覚ではなく「頭脳」の喜びだったりする。
 西脇の逸脱は単純ではない。視覚の喜び、聴覚の喜びと、簡単に分類できないことがある。そして、それが複雑であることが楽しい。
 「五月」。そのなかほど。

人間ではないものを
あこがれる人間の
青ざめた反射は
このすてられた庭で
石の幻燈のくらやみに
コランの裸女が
虎のようなしりをもちあげて
ねそべるのだ

 「人間ではないものを/あこがれる人間の/青ざめた反射は」の「青ざめた反射」ということばは、「人間の精神」の「比喩」かもしれない。とりあえず、そう仮定しておく。「青ざめた反射は」の「は」は「青ざめた反射(精神)」が「主語」であることを指し示している。
 では、「述語」は?
 それらしいことばが、すぐにはみつからない。
 「述語」が「ない」ということも考えられるけれど、私は「ねそべる」を「述語」だと感じている。
 人間の青ざめた反射(精神)は、このすてられた庭で、ねそべる--そう考えると、なんとなく「文章」になる。ひとつづきの「意味」(内容)が浮かび上がってくるような気がする。
 この場合、「石の幻燈のくらやみに」は「庭で」という場のありようを補足したものとなる。そして「コランの裸女が/虎のようなしりをもちあげて」という2行が、「ねそべる」を説明した「比喩」になる。
 「青ざめた反射」は、(庭のくらやみに)裸の女がしりをもちあげるように、ねそべっている。
 簡略化すると、そういう「比喩」を含んだ文章になり、その簡略化した「裸女」の「しり」に「虎のような」という「比喩」が重なっている。
 この7行のなかには、「比喩」が「入り子細工」のように組み合わさっているのである。「入り子構造」をとることで、「比喩」が逸脱していくのである。そして、その逸脱は、最初の「主語」さえかき消すところまで突き進む。

コランの裸女が
虎のようなしりをもちあげて
ねそべるのだ

 この3行を読んで、ほんとうの「主語」は「青ざめた反射」であったことを、すぐに思い出せるひとは少ないだろう。「青ざめた反射」という「主語」の「述語」はどれ? などという疑問というか、しつこい学校教科書文法は忘れてしまって、単純に裸女の虎のようなしりを思い浮かべるだろう。裸女がしりをもちあげて、欲情を誘うように、ねそべっている--そういう姿を思い浮かべてしまうだろう。
 ことばが、比喩をくぐりぬけることで暴走し、その暴走のスピードにつられて、「青ざめた反射」という「主語」(頭)がどこかへ吹き飛んでしまう。そういう快感がこの行の展開の中にある。

 そして。

 この比喩の暴走、ことばの暴走がもたらす喜びは、裸女のしり、虎のようなしり、という男にとって(女にとって、もかもしれないが)、きわめて「視覚的」な喜びである。スケベな視力をめざめさせる喜びである。
 こういうことがあるから、西脇のことばは絵画的(視覚的)と言われるのかもしれない。
 それはそのとおりなのだが、私の「肉体」野中手は、別なものも揺さぶられている。「コランの裸女が」という行の「コラン」である。「コラン」が何を指し示しているのか、無知な私には皆目見当がつかないが、それが「すてられた庭」「石の幻燈」「くらやみ」というような、一種、日本的(東洋的?)な風景からははるかに逸脱したものであると感じる。異国のものであると感じる。「コラン」というカタカナの表記と「音」によって。
 「コラン」という表記と「音」があって、この7行は、なんだか急にぶっ飛んでしまう。急に飛躍してしまう。
 つづく「裸女」を西脇は何と読ませたいのかわからないが、私は「らじょ」と読む。「らじょ」ということばが日常的かどうか、私にはよくわからない。私なら「裸の女」と書いてしまうだろう。そう書いてしまうだろうけれど、「裸女」という文字にふれると、自然に「らじょ」と読んでしまう。そこには「コラン」の「ラ」の音が影響しているのだ。
 だから。(ちょっと、強引な「だから」なのだが。)
 だから、「裸女」は「らじょ」と読んでいるのではなく、ほんとうは「ラジョ」と読んで、そのあと、「裸女」という文字に引き戻されて「らじょ」と読み、そして「裸の女」と頭のなかで理解しているのだと思う。
 そして(またまた、そしてなのだが)、「ラジョ」が「裸の女」にもどったとき、「虎」「しり」が、「異国」のものではなく、また身近なものになる。「日常(というには、ちょっと変だけれど)」の「比喩」になる。

 「コラン」「裸女」--このふたつのことば、表記と音によって、私は(私の「肉体」は)、不思議な度をするのだ。そこには「ラ」「ら」という音がとても強く響いている。全体としては、「視覚的」な「比喩」なのだが、私はそれを「視覚的」と感じるよりも、ほんとうは「聴覚的」と感じてしまう。「音楽」があって、はじめて、この7行のことばの暴走、詩が生まれると感じる。
 私にとって、西脇は、いつでも「音楽」なのだ。




西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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篠原憲二『沖の音』

2010-02-01 00:00:00 | 詩集
篠原憲二『沖の音』(水仁社、2009年07月07日発行)

 ことばは何のためにあるか。篠原憲二なら「わかる」ためにあると言うに違いない。世界を、現実を、いま、ここで起きていること--自分自身のこころを「わかる」ためにある、と。そして、篠原にとって「わかる」ということは、「見える」ということである。
 「礼」という詩。サラリーマンの、というか、勤め人のかなしみを見てしまう詩。その全行。

こんな路地裏の
小さな軒先にも
電話機は置かれてあって
話の次第では
にわかのオフィスになる

一つの仕事を終え 次へと
向かう途すがら
その人のオフィスはあった

かしこまった受け応えなのは
何か詫びごとでもあるのか
似たような記憶の浮きがてに

行き過ぎたとき
はい と切り上げる声が届き

 いちばん 底だな

たぶん 深々とだろう
おじぎするのがみえた

 路地裏の電話機。そこから連絡するとき、それは路地裏からの連絡ではなく、「オフィス」からの連絡とかわりがない。「ことば」のなかに「仕事」があるのだ。そういうことをしたことが篠原にもあった。「似たような記憶」が篠原と、たまたま見かけた男(たぶん)を重ね合わせる。そして、そのとき、篠原は男を見ていない。男ではなく、篠原自身の過去--記憶を見ている。
 「はい」と少し高い声を出し、それから深々と頭を下げる。電話だから頭を下げようが下げまいが向こうに見えない--というのは嘘である。電話を通して、それは「見える」ものである。
 同じように、その姿は、その声の持ち主のそばを「行き過ぎ」たあとでも「見える」。「いちばん 底だな」と、男の状況を理解し、そのあと、その姿を見ないけれども、「深々と」「おじぎする」その様子が「みえる」。
 「たぶん」「だろう」は篠原が実際にはその男の姿を「見ていない」ことをあらわしている。想像していることをあらわしている。
 そして、そのときの「見る」は「肉眼」で「見る」である。実際には振り返らない。振り返らないけれど「肉眼」は「見てしまう」。「肉眼」には「見えてしまう」。それが「わかる」ということ。
 他人の「肉体」の動きが、それを見なくても「見える」こと--それが「わかる」である。
 なぜ「わかる」のか。そういう体験があるからだ。篠原にも、電話で深々と頭を下げたことが何度もある。その「記憶」が他人を「わからせる」。「見える」とは「記憶」と「現実」が重なることである。「記憶」と「現実」を重ねるのは「肉眼」である。

 この「わかる」を篠原は「たぶん 深々とだろう」と、「たぶん」と「だろう」と2度の「推測」のことばのなかでつつみこんでいる。ここに篠原の「思想」がある。「わかる」(見える)を「断定」してしまわず、遠慮がちに、一歩引いて、「相手を立てる」というところに、篠原のやさしさがある。「わかる」と言ってしまわないことで、他者をそっと生かす、育てるというやさしさがある。

 「陸と川の間で」の最後は美しい。

沖で
鯔が
跳ね上がっては
落ちる
落ちるとき
小さな限界が見える

沖には
そこまで
行くことをしてしか分からない
音があるだろう

 「見る」と「聞く」、「姿」と「音」がここでは交錯している。「小さな限界が見える」とは、「小さな音が聞こえる」ということでもある。もちろん、その音は岸にいては聞こえない。けれども、その音を「肉耳」が聞き取る。肉眼が眼で見えないものを見る眼をあらわすとすれば、耳にも聞こえない音を聞く肉耳があってもいいはずだ、と私は思う。鯔が跳ね上がり、水に落ちる。その姿を見るとき、「肉耳」は、そのとおいとおい「音」を聞き取る。
 聞き取りながらも、それを「断定」しない。それはあくまで「たぶん」「だろう」の世界、想像の世界であると告げる。
 鯔が立てる水音は、実際に鯔がいる「沖」までいってみないことには「わからない」。「肉耳」でいくら聞き取っても、それがほんとうかどうか「わからない」。

 同じように、路地裏の電話で「はい」と高い声で受け答えした男の「真実の姿」は、やはり男にしかわからないものなのである。そのとき、ほんとうに彼が「底」だったのか。それは「わからない」。
 そして、この「わからない」は、とても複雑である。
 「記憶」と重ね合わせるとき、それが「わからない」はずはないのである。「肉眼」は、振り返ってみなくても彼が深々とおじぎするのが「みえる」。
 けれども、「みえる」からこそ、あるいは「わかる」からこそ、それを「たぶん」「だろう」でつつみ、「見なかったこと」、つまり「想像」にすぎなかったことにしてしまう。さらには「わからない」にしてしまう。
 そこには、祈りがあるのだ。
 深々と頭を下げたにしろ、そこにとどまりつづけるのではなく、その「底」にいつづけるのではなく、そこから踏み出して生きていく人間の力への「祈り」がある。期待がある。希望がある。
 篠原は「見たもの」(わかったもの)を、実は、否定されたいのだ。電話で頭を下げた男に、沖で跳ねる鯔に。篠原の「理解」(想像)を超えて、生きていってもらいたいのだ。そういう「祈り」こそ、篠原がことばに託しているものだろうと思う。

 ひとは誰でも他人が「見える」(わかる)。わかるけれども、篠原は、その「わかる」のなかに、他人を閉じ込めない。「見える」(わかる)を超えて、生きていってほしいという「祈り」をこめて、他者をみつめる。
 「桜前線」の最終連も美しい。

ぼくには--花が
悲鳴よりも長く かかって
届いて来るとわかった

 「肉耳」は「花の悲鳴」を聞き取る。けれど「肉耳」が聞いたものよりも「長く かかって」ほんとうの花は開くのである。「肉耳」と「他者」とのあいだには「時差」がある。「肉耳」(肉体にしみついた想像力)は「他者」の動きよりも早い。「他者」は時間をかけて、ゆっくりゆっくり「肉耳」を追い越していく。そういう力、篠原の「肉耳」を追い越す力を「他者」はもっている。

 篠原には、他者に対するまじめな「畏怖」がある。それが篠原のことばを、とても静かなものにしている。

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