詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ピーター・ジャクソン監督「ラブリーボーン」(★★)

2010-02-02 22:19:39 | 映画

監督・脚本 ピーター・ジャクソン 出演 シアーシャ・ローナン、マーク・ウォールバーグ、レイチェル・ワイズ、スーザン・サランドン

 「ラブリーボーン」の「ボーン」を映画を見るまで、「骨」だとばかり思っていた。いつまでたっても「骨」が出てこない--変な映画、と思いつづけてみていたのだが……。あ、「ボーン」は誕生だったんだねえ。
 少女が殺されるストーリーなのに「ラブリーな骨」では俗悪すぎるか……。でも、私なんかは、げてものが好きなので、「骨」を期待してたんだけれど。

 予想とは違ったのが残念なのだけれど、それにしても奇妙な映画。
 変質者に殺された少女が家族のことを心配する。そして、それを殺された少女の視点から描く。画期的といえば画期的だけれど、しっくりこない。犯人に対する少女の怒りが感じられないのだ。変じゃない?
 これは少女の視点から描いた--という体裁をとりながら、家族の視点から少女を思いやっている映画なのだ。愛する娘(姉)が殺された。その少女は、家族のことを心配して「天国」へいけずに、さまよっている。家族思いの少女に答えるために、家族は、少女の死、その悲しみをどう乗り越えていけばいいか。
 家族の誰か(父であってもいいし、母であってもいい、妹か弟であってもいい)が、少女はきっと残された家族のことを思いつづけている。だから、家族が力を合わせて助け合い、愛し合い、この悲しみを乗り越えなければいけない。そうしないと、少女は安心して天国へゆけない。きちんと生きていくことが、少女を天国へ旅立たせるための全体的な条件である。
 家族だけではない。恋人も同じ。少女の思い出は思い出としてこころに秘め、新しい愛へ進まなければならない。生きることが、少女にやすらかな眠りを与えることである。
 少女を愛したひとたちが、それぞれ再生する--その再生したいのちのなかで、少女もまた生まれ変わる。いきいきと生き続ける。
 うーん。わかるけれどさあ……。
 これって、映画じゃなくて、小説の仕事だよなあ。「映像」ではなく、「ことば」の仕事だよなあ。「映像」では、そんなことはまったくわからない。「ことば」なしでは、なんのことかさっぱりわからない。
 だから、ほら。
 映像よりも前に、死んでしまった少女のナレーションがすべてを説明する。「犯人」が誰かも、少女が「ことば」で説明する。(ショッピング・モールにいた怪しげな男が犯人ではない、なんてことまで、あらかじめことばで説明する。)少女自身の心配や喜びも、ぜんぶナレーション。ひどいでしょ? 映画として。映画になってないでしょ?
 

 犯人が事故で死んで、それで事件が解決--というのも、安直というか、いいかげんだなあ。それで家族は安心というか、気持ちが晴れるの? 殺された少女の気持ちは?
 不全感が残るなあ。

 *

 映画の感想になるかどうかわからないけれど……。
 犯人を誰がやるか。キャスティングのことだけれど。私は、映画がはじまってすぐ、こういう映画なら、ウィリアム・ハートがやるとおもしろいなあ、と思ったのだけれど、似てましたねえ。風貌が。禿げさせて、もっとやせていればウィリアム・ハートそのものじゃない? ウィリアム・ハートは「善人」役が多いようだけれど、やっぱり(?)「悪人顔」と思う人がいるんだなあ、と退屈にまかせて考えていました。
 きっとウィリアム・ハート自身がやった方が、この映画は怖くなったと思うけれど、そうすると、「ラブリーな誕生」(あるいは、「ラブのあるリ・ボーン 再生」)ではなく、ほんとうに「ラブリーな骨」の世界になってしまうかな?


 


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誰も書かなかった西脇順三郎(99)

2010-02-02 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇のどこが好きか。なぜ好きか。自分で感じていることなのに、それを書くのがむずかしい。
 「詩」という作品。そのなかほど。

薔薇の夏
ゼーニアの花をもつて来た人
杏色の土
手をのばし指ざして聞いた人も
「あれですか
 君のところは」
水銀のような上流のまがりめ
マーシマロの花の黄金の破裂がある。

 「指ざして」の「ざ」の「音」が好き。濁音の豊かさに、ぐいっと引き込まれる。私は音読をするわけではないが、「指ざして」という文字を見た瞬間に、声帯が反応する。「さ」ではなく「ざ」。濁音のとき、音が「肉体」の外へ出ていくだけではなく、「肉体」の内部へも帰ってくる。そして、「肉体」の内部でゆったり力が広がる。その感じが、なんとなく、私には気持ちがいい。「ゆび・さして」では、「さ」の音ともに力がどこかへ消えていってしまう。
 そして、そのあと。

「あれですか
 君のところは」

 この、何も言っていない(?)2行がたまらなく好き。大好き。
 「あれ」とか「それ」とか……。同じ時間を過ごした人間だけが共有する何か、「あれ」「それ」だけでわかる何か。その口語の響き。
 そして、その口語とともに、ことばのなかへ侵入してくる「現実」。その不透明な手触り。

 不透明。

 不透明と書いて、私は、ふいに気がつく。
 西脇のことばには、いつも不透明がついてまわっている。
 透明なものが、たがいに透明であることを利用して(?)、一体になってしまう、透明な何かになってしまうというのとは逆のことが西脇の詩では起きる。
 不透明なものがぶつかりあい、けっして「一体」にはならない。たがいに自己主張する。そして、その自己主張の響きあいが楽しいのである。

 私は西脇の濁音が好き--と何度か書いたが、その濁音も、清音と比較すると不透明な音ということかもしれない。清音は透明な音。濁音は不透明な音。そして、その不透明さに、私は一種の豊かさを感じる。
 濁音だけがもちうる「温かさ」「深み」というようなものを、感じてしまう。

 濁音--と書いたついでに。この「詩」の最後の2行。

さるすべりに蟻がのぼる日
路ばたで休んでいる人間

 この2行に出てくる濁音の響きも、私にはとても気持ちがいい。「さるすべり」「のぼる」のなかで繰り返される「る」と「ば行」。それが次の行で「路ばた」の「ろ・ば(た)」に変化する。「だ行」(で、という音)、「ら行」(ろ、る)、そして繰り返される「ん」の「無音」。
 なぜ、この2行に快感を感じるのか私にはわからないが、快感なのだ。「音楽」なのだ、私には。
 声には出さない。黙読しかしない。それでも「音楽」なのだ。




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西脇 順三郎
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荒井隆明『廊下譜』

2010-02-02 00:00:00 | 詩集
荒井隆明『廊下譜』(あざみ書房、2010年01月31日発行)

 荒井隆明『廊下譜』には「まえがき」がついている。どうやって「構成」されているか、前もって説明している。とてもうるさい。詩は書いた瞬間から作者のものではなく、読者のものである。というより、ことばそのもののものである。ことばが勝手に動いていっていい。ことばから、わざわざ自由を奪い取って(ことばに枠にはめて)、それで「これが詩です。こういう詩です」と言われても、興ざめするだけである。
 「秒室」という詩があるが、見渡したところ、「時間」が、あるいは「時計」がというべきか--がテーマのようである。「テーマ」というものが、すぐに浮かびあがってくるところが、この詩集の窮屈さでもある。

何もない平原、と書いたが、それは正しくない。白く細い枝のようなものが一面に積もり、地平線の向こうまで続いているのだ。それは秒針だ。

 この文体が、荒井の「時間論」である。あるものを提示する。ここでは、まず「平原」を提示する。そして、それを反芻する。ここでは「正しくはない」という形で反芻する。反芻するとき、そこに「平原」と「平原ではない(正しくはない)」があらわれる。半数の間に「間(ま)」が生まれる。その「間(ま)」を別のもので埋める。「細い枝」。さらに、その「細い枝」を「秒針」と言い換えるかたちで反芻する。「間(ま)」が増幅する。
 これは、「時間」のあり方、「時間」を生きるときの「人間」のあり方に重なる。
 反芻とは、どこかへ向かって歩くことである。ここから出発し、ここではないどこかへ歩くこと。その歩行にともない、距離(間--ま)がひろがり、そこで「発見する」何か(そこで出会う何か)を定義し、反芻し、言い直し、さらに「間(ま)」を増やしていく。「間(ま)」は時計が刻む「秒」のように、増える。増えつづける。
 荒井は、その「時間」の秘密(?)を、自分で「秒針」と言ってしまっている。荒井(というか、荒井のために帯を書いたひと)は、荒井の詩を「方法詩」と呼んでいるが、「方法」は、即座に「答え」を出してしまう。そこが窮屈の原因である。
 「間(ま)」が増えつづける--と私は便宜上書いたが、「間(ま)」は増えない。増える前に、簡単に定義され、処理されてしまう。「方法」なのかで安定してしまう。
 だから、

一体どれだけ積もっているのか、見当もつかない。硫黄のような光を浴びて、腐乱した卵のような光沢を放ちながら、月に向かって毛羽立っている大地。足は秒針を踏み続けて無数の裂傷に模様され、血が滲んでいる。

 荒井は一生懸命書いているが、「血」が見えない。「腐乱した卵のような光沢」とか「裂傷に模様され」とか、「いま」「ここ」を突き破っていくようなことばの逸脱を獲得しながら、「時間が人間を傷つける」というような、流通言語の定義へと収斂していくことばの無残さだけが浮いてくる。

 ことばが収斂する--たぶん、そのことが、荒井の詩を「不自由」にしているのだ。何かに向かって歩く--そのとき、せっかく「反芻」による「時間」の増殖というものに出会いながら、その増殖を「目的地(?)」という結論に向けてひっぱりすぎる。「目的地」(結論)へ向けて、ことばを動かすという「方法」意識が強すぎるのである。
 「秒室」という詩は、「東の扉から入り、西の扉へ向って歩いていた。」ではじまり、「そしていつか、西の扉を出ていた。時間の果てに立っていた。」という具合にことばが動いていくのだが、西の扉をめざしていても、西の扉にたどりつけない、違うところへ、この詩で言えば「東と西の間」へ、どこまでもどこまでも迷い込んでしまうのがしてあるはずなのに、ぜんぜん迷えない。ことばが「結論」へ収斂する--そして、収斂させるために、荒井がことばを動かしているからである。

 短い詩でも同じである。

嘘や
沈黙や

を作っている
一本の白い薔薇

 荒井の詩をちょっと読むと、最後の「白い薔薇」は「月」の「比喩」であることがわかる。そして、この詩では「嘘や/沈黙や/夜」と「月(白い薔薇)」が向き合っていることがわかる。「月」を「白い薔薇」という「比喩」に収斂させるために「嘘」「沈黙」「夜」が選ばれていることが、すぐにわかる。
 「嘘」「沈黙」「夜」と「月」は完全に「予定調和」である。それは「月」を「白い薔薇」にかえたところで変わらない。いや、そういう「比喩」では「予定調和」が強くなるだけである。「比喩」さえが、「方法」によって導き出されたものにおとしめられてしまうのだ。
 こういうことを「無残」という。

嘘や

沈黙や

夜を作っている一本の白い薔薇

 この詩は、そういうふうに、三つの、無関係な「存在」の「音」になり、「音」になることで「和音」を作れたかもしれない。けれど、荒井は、それを「メロディー」のなかに窮屈に閉じ込めてしまった。「メロディー」は「予定調和」の美しさに収斂するが、その瞬間、「音」の楽しさが消えてしまう。
 こういうことを「無残」という。



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