詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(100 )

2010-02-03 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇のことばは自在に運動する。その「領域」は限定されない。「常識」にしばられていない。
 「地獄の旱魃」という作品。そこに描かれているものを見ていくと、「対象」が次々に変わっていくことがわかる。クールベ、キュクロス、スペンディユウス、ルソー、ニイチェ、マイヨル、ゴーガン……。なんの説明もなく(?)、ただ、ことばが対象を渡ってゆく。

マイヨルの木彫の女

我国の彫刻家はどうして
裸女の前面ばかり気にしているのだ。
うしろに偉大な芸術が
ふくらんでつきでている

ひがん花が咲いている日
ゴーガンの画布を憶う日

ゴーガンの裸体のタヒチの人々
がすきだ殆ど仏画だ。
なぜあんな絵を綴織りの壁掛におらなかつたのか

 ひろびろとした気持ちになる。「うしろに偉大な芸術が/ふくらんでつきでている」は女の尻こそ芸術だということをいっているだけなのだと思うが、そう思って読み返すとき、あ、詩とはやっぱり「ことば」なのだと思う。「意味」ではなく、「ことば」。その「音」の動き。「意味」を捨てて「音」になるための、たくまざるなにかがある。そのなにかが、きっと詩人と詩人ではない人間をわけるのだと思うが……。
 「ふくらんでつきでている」--その音の中に、私は丸く輝く「月」を見てしまう。たんに尻がつきでたでっぱりであるというのではなく、月のように静に肉体からのぼってくる感じがする。そう感じさせる「音」が、そこにはある。

 「ひがん花」と「ゴーガン」は、まるっきり違うものだが、「音」が似ている。違うものを、さっと渡ってゆく「音」の不思議さ。

 「がすきだ殆ど仏画だ。」--この行のわたり。「学校教科書」の文体なら「ゴーガンの裸体のタヒチの人々がすきだ/殆ど仏画だ。」になるのだが、西脇は、そんなふうには書かない。そう書かずに、

ゴーガンの裸体のタヒチの人々
がすきだ殆ど仏画だ。

 と書くとき、ゴーガンの絵と、仏画がくっきりと並んで、そこに存在する。そして、そのふたつの存在を「すき」が強烈に結びつける。「がすきだ殆ど仏画だ。」は学校教科書の文法では奇妙なことばであるが、「すきだ」と「殆ど仏画だ」のあいだに「間(ま)」がないということ、それがふたつでひとつであるということが、とてもおもしろいのだ。ことばは、ふたつのものをひとつにしてしまうこともできるのだ。

色ざめたとき色のフランネルの女の腰巻の
迷信のウルトラ・桃色は染物屋の残した
最後の色調

 西脇の詩を(ことばを)読んでいると、「もの」があって、それを「ことば」でつたえているというよりも、「ことば」が、そのつど「もの」を現実の世界へひっぱりだしているという感じがする。
 西脇は「対象」を描いているのではない。西脇は、ことばで「もの」を「世界」へひっぱりだしているのだ。ことばがいつも「主体」(主語、主人公)なのだ。だから、何を描こうと、それはアトランダムにものを描いているということにはならないのだ。

榎の大木は炭にやかれた
坂の土手に
山ごぼうが氾濫した。
実は黒く熟してつぶれた
いたましい汁をたらすのだ。

 そして、西脇の「主体」(主語、主人公)は、いつでも「音楽」を生きている。自在に動く「音楽」が、ことば全体を「ひとつ」にしている。

いたましい汁をたらすのだ。

 この行のなかには「たましい」が苦悩している。苦汁している。苦汁の汗をたらしている。そして、それは「山ごぼう」という素朴な自然によって浄化させられる。素朴ないのちが、人間をいつでも「最初」の場所にひきもどすのだ。だから、たましいが苦汁しているにもかかわらず、それが美しく見えてくる。





ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
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田中昌雄『蟻のカタコンベ』

2010-02-03 00:00:00 | 詩集
田中昌雄『蟻のカタコンベ』(編集工房ノア、2010年01月01日発行)

 田中昌雄『蟻のカタコンベ』には、いろいろなことばが「同居」している。その「同居」のあり方が、私には、かなり不満である。
 と、書いてもしようがないのかなあ。
 たとえば、「風のゴースト」。その書き出し。

石の吐息
生き物の粉末
ときに、血と悲鳴

 「石の吐息」「生き物の粉末」「血と悲鳴」は同じ「音楽」、「ときに、」は別の音楽。それは、「同居」できないことはないのだけれど……。そして、私の「好み」をいってしまえば、「ときに、」の方の音楽が、「石の吐息」などの「音楽」を突き破って動いていく瞬間が好きなのだけれど……。
 2連目。

秘語は
肌で聞かねばならないが
わたしは、皮膚が退化しているので
風は、ただ風

 うーん、逆に「石の吐息」の音楽の方が「ときに、」の音楽を封じ込めている、と感じてしまう。そして、その「流通言語」、ちょっと古くない? あ、私は、ここでつまずいているんです。
 「ときに、」という文字を読んだときは、なにかがはじまるかもしれない、と感じたけれど「秘語」だの「退化」だのということばが、(引用はしないけれど……)ほら、4連目の「逸脱」「妄念」などど簡単に響きあって、こういうことばの運動なら、すでにもう存在してしまったという気持ちになるのである。

 と、書きながら、この詩集について(あるいは、この詩について)書きたいなあと思うのは、そして書いているのは、最終連が忘れられないからである。

あっ、遠くで消防自動車が走っている
(どこかでぼくが燃えている?)
-だったら、空目、空耳を澄まして
 貝殻を助けにいかなくっちゃ…

 「ときに、」のリズム、深呼吸して「肉体」のなかから、いままで存在しなかったリズムと音を出そうとするときの「肉体」の動き--それに呼応するように、ふいにあらわれてくる「空目」「空耳」。あ、いいなあ。
 見誤り、聞き違い--それは、「いま」「ここ」にないものを見てしまうこと、聞いてしまうこと。そして、その瞬間、ことばではないものが、ことばになってしまう。ことばが暴走してしまう。
 田中は「石の吐息」も「ことばの暴走」と考えているのかもしれないけれど、そしてそれはたしかに以前はことばの暴走だったのかもしれないけれど、いまでは「ことばの予定調和」。それを破ってしまわないことには、ことばは自由に動き回れない。

 ひとは見誤る、聞き間違える。それは、ほんとうは、現実をそんなふうにねじまげてしまいたいという欲望が「肉体」のどこかに潜んでいるからかもしれない。

あっ、遠くで消防自動車が走っている
(どこかでぼくが燃えている?)

 それは、「空夢」なのだが、「空夢」はことばにすれば「正夢」になる。ちょっと補足すれば、「現実」の「世界」において「正夢」になる、というのではない。ことばの世界、「夢」のなかでは「空」と「正」の区別はないということである。
 ことばが動けば(夢は、ことばで見る)、そこにいままで存在しなかったことが存在する。存在があって、それをことばでとらえるのではなく、ことばがあって、それが存在を変形させる。ゆがめる。そして、自分の「肉体」にあったものにしてしまう。
 いつでも人間は、「存在(現実)」を自分にあったものにかえたいという欲望をもっている。それを、ことばのエネルギーで強引に作り上げてしまう。「現実」を破って、非在を存在させてしまう。そういうことがある。
 「空目」「空耳」ではなく「肉眼」「肉耳」が、見て、聞いたもの--それが「肉体」を突き破って「いのち」になろうとしているのかもしれない。
 
 田中が最後に書いている「貝殻」。それがどんなものかわからない。わからないけれど、どんな貝殻であっても、それが見たい、それに触れたい、そんなことを感じた。「空目」「空耳」を突き破って動く「肉眼」「肉耳」を感じた。


  
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