西脇のことばは自在に運動する。その「領域」は限定されない。「常識」にしばられていない。
「地獄の旱魃」という作品。そこに描かれているものを見ていくと、「対象」が次々に変わっていくことがわかる。クールベ、キュクロス、スペンディユウス、ルソー、ニイチェ、マイヨル、ゴーガン……。なんの説明もなく(?)、ただ、ことばが対象を渡ってゆく。
マイヨルの木彫の女
我国の彫刻家はどうして
裸女の前面ばかり気にしているのだ。
うしろに偉大な芸術が
ふくらんでつきでている
ひがん花が咲いている日
ゴーガンの画布を憶う日
ゴーガンの裸体のタヒチの人々
がすきだ殆ど仏画だ。
なぜあんな絵を綴織りの壁掛におらなかつたのか
ひろびろとした気持ちになる。「うしろに偉大な芸術が/ふくらんでつきでている」は女の尻こそ芸術だということをいっているだけなのだと思うが、そう思って読み返すとき、あ、詩とはやっぱり「ことば」なのだと思う。「意味」ではなく、「ことば」。その「音」の動き。「意味」を捨てて「音」になるための、たくまざるなにかがある。そのなにかが、きっと詩人と詩人ではない人間をわけるのだと思うが……。
「ふくらんでつきでている」--その音の中に、私は丸く輝く「月」を見てしまう。たんに尻がつきでたでっぱりであるというのではなく、月のように静に肉体からのぼってくる感じがする。そう感じさせる「音」が、そこにはある。
「ひがん花」と「ゴーガン」は、まるっきり違うものだが、「音」が似ている。違うものを、さっと渡ってゆく「音」の不思議さ。
「がすきだ殆ど仏画だ。」--この行のわたり。「学校教科書」の文体なら「ゴーガンの裸体のタヒチの人々がすきだ/殆ど仏画だ。」になるのだが、西脇は、そんなふうには書かない。そう書かずに、
ゴーガンの裸体のタヒチの人々
がすきだ殆ど仏画だ。
と書くとき、ゴーガンの絵と、仏画がくっきりと並んで、そこに存在する。そして、そのふたつの存在を「すき」が強烈に結びつける。「がすきだ殆ど仏画だ。」は学校教科書の文法では奇妙なことばであるが、「すきだ」と「殆ど仏画だ」のあいだに「間(ま)」がないということ、それがふたつでひとつであるということが、とてもおもしろいのだ。ことばは、ふたつのものをひとつにしてしまうこともできるのだ。
色ざめたとき色のフランネルの女の腰巻の
迷信のウルトラ・桃色は染物屋の残した
最後の色調
西脇の詩を(ことばを)読んでいると、「もの」があって、それを「ことば」でつたえているというよりも、「ことば」が、そのつど「もの」を現実の世界へひっぱりだしているという感じがする。
西脇は「対象」を描いているのではない。西脇は、ことばで「もの」を「世界」へひっぱりだしているのだ。ことばがいつも「主体」(主語、主人公)なのだ。だから、何を描こうと、それはアトランダムにものを描いているということにはならないのだ。
榎の大木は炭にやかれた
坂の土手に
山ごぼうが氾濫した。
実は黒く熟してつぶれた
いたましい汁をたらすのだ。
そして、西脇の「主体」(主語、主人公)は、いつでも「音楽」を生きている。自在に動く「音楽」が、ことば全体を「ひとつ」にしている。
いたましい汁をたらすのだ。
この行のなかには「たましい」が苦悩している。苦汁している。苦汁の汗をたらしている。そして、それは「山ごぼう」という素朴な自然によって浄化させられる。素朴ないのちが、人間をいつでも「最初」の場所にひきもどすのだ。だから、たましいが苦汁しているにもかかわらず、それが美しく見えてくる。
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