詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(112 )

2010-02-21 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『トリトンの噴水』。この長い散文詩(?)には、一か所、忘れらないところがある。この作品は途中から改行がなくなる。段落がなるなる。その直前の段落である。

 サピアンス夫人を初め、もろもろの女がToiletteに行つゐる間に私は考へた。人間はナタ豆のやうに青くなつた。

 「人間はナタ豆のやうに青くなつた。」ではなく、その前の「サピアンス夫人を初め、もろもろの女がToiletteに行つゐる間に私は考へた。」がとても印象的だ。そこに書かれていることが、とても俗っぽいというか、誰でもが経験することだからである。
 まあ、人がトイレに行っている間に考えるか、あるいは自分がトイレに行っている間に考えるかは、人によって違うかもしれないが、トイレというのは人と人を完全に切り離す。プライバシーの意識というような高級(?)なことではなく、もっとありふれた次元のことなのだが、それがありふれていて、手触りがあるだけに、この詩の中に出てくるさまざまな外国語に比べて、ぐっと身近に感じられる。そのために、この行が印象的なのだ。
 そうしてみると(というのは変な言い方だが)、ことばというのは、ある意味では、読者(私だけ?)は、自分のしっていることばだけしか理解しないということかもしれない。自分の知っていること、自分のわかること以外は、知らない、とほうりだしてしまうことができる--特に、文学、詩の場合は。
 わからないこと、知らないことを読んだってしかたがない。

 そして、またまた、そうしてみると、なのだが……。

 ネプチュンの涙は薔薇と百合の間に落ちて貝殻のほがらかなる偶像を蹴つて水晶の如き昼を呼ばん。

 たとえば、この文を、どう読むことができるか。
 あ、他人のことは別にして、私のことを書こう。
 私は、ここでは「意味」を探して読まない。だいたい、この文の「主語」「述語」の関係を、私は真剣には追わない。いや、追うことができない。

 ネプチュンの涙は(う、わかる)薔薇と百合の間に落ちて(うん、わかる)貝殻の(わかる)ほがらかなる(わかる)偶像を蹴つて(わかる)水晶の如き昼を(わかる)呼ばん(わかる)。

 (わかる)ということばを挿入してみたが、私は、西脇の文を、ひとつの文としてではなく、それぞれの部分として(わかる)と感じているだけである。そのわかったものをつないで「意味」をわかりたいとはまったく感じない。
 「ネプチュンの涙は」「昼を呼ばん」という文に短縮すれば短縮できるかもしれない。それが「意味」だとすれば「意味」かもしれない。けれど、それは、まあ、どうでもいい。その、「ネプチュンの涙は……昼を呼ばん」という短い文(?)の間から、つぎつぎにこぼれていったことば、そのことばの輝きをただ美しいなあ、思って読むだけである。
 こぼれながら、「意味」から逸脱し、「無意味」になることば。そういうものが、なんといえばいいのだろう、先に引用した「Toiletteに行つゐる間」のように、手触りとして実感できる。
 そして、それを感じることができれば、それは詩として、十分なのではないか、と思うのである。




ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
小沢書店

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坂多瑩子「穴」、水野るり子「夜ごとのアリス」

2010-02-21 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「穴」、水野るり子「夜ごとのアリス」(「二兎」1、2010年02月25日発行)

 「二兎」1では、5人が「不思議の国のアリス」にインスピレーションを得て、ことばを動かしている。
 坂多瑩子「穴」がいちばんおもしろかった。

大根の葉っぱが
穴だらけになって
穴の上には
おんぶバッタが
わんさといて
穴によくまあ落ちないでと
感心して
穴をのぞいていると
すっとあたりが暗くなって
ところどころ
電球がついているけれど
長い廊下で
教室がひとつふたつ
いつつあって
つるつるした石の階段もあって
触ると
ぬるま湯みたいにあたたかく
子どもたちが通りすぎていくけど
でも外は真っ暗で
手すりにまたがって降りてみたら
背中がもぞもぞしてきて
大きな手が頭の上にかぶさってきたから
急いで逃げると
走ってる
というより
とんでる
感じがして
おんぶバッタだ
騒がしい声が
遠くで聞こえる

 リズムが非常に気持ちがいい。えっ? と思うようなことが書いてあるのだが、リズムがいいので、えっ?と思っている暇がない。(トヨタのプリウスのブレーキのきかない0.46秒より短い。私の感覚では、0.46秒は「ああっ」から「あああっ」の間の長さである。けっこう長い。これだけの間、ブレーキがきかないというのは、こわい。トヨタの説明している「フィーリング」というのはとても変である。また、0.46秒とか70センチ?というような数字は「具体的」「客観的」であっても、「肉体感覚」からずれている。声に出して「あ」と言えるか、言えないか、それとも「あああっ」と声に出せる長さか、そういうことを誰も指摘しないのは、とても危険なことである。)
 書き出しの「大根の葉っぱが/穴だらけになって」というところから、すでに、えっ?は始まっている。私は大根の葉っぱが穴だらけという状態を見たことがなくて、ここでちょっと立ち止まった。(トヨタのプリウスのブレーキのきかない0.46秒よりかなり長い。)大根にたしかに葉っぱはあるし、大きくなれば虫も食うかもしれないが、まあ、街中ではそういうものには出会わない。スーパーなどでは葉っぱがついていてもたいてい刈り込まれている。大根の葉っぱに穴? ともう一度考え直したいのだけれど、「穴だらけになって/穴の上には」と「穴」という字が並んでことばを動かしているので、ついつい、考えることを忘れてしまう。
 「穴」といえば、アリスの穴だよなあ。おっこちて、そこからすべてがはじまる。異界への入口が「穴」だよなあ。
 そう思っていると、おんぶバッタが穴の上にいて、坂多は「穴によくまあ落ちないで」と感心している。でも、バッタが葉っぱの穴に落ちるって、どういうことさ、なんて、反論している暇がない。(トヨタのプリウスのブレーキのきかない0.46秒より短い。)
 すぐとなりの「穴」が、また、視線をひっぱっていく。
 この詩の書き出しに「穴」ということば、文字は4回出てくる。「学校教科書の文章教室」では、同じことばを繰り返すのはよくないというような指導がおこなわれるが、この詩では、その「文章教室」に違反したことばの動きがおもしろい。
 この矢継ぎ早の「穴」の繰り返しが、この詩のおもしろさの出発点である。
 坂多の詩は「書かれている」のだが、リズムは「話しことば」のリズムなのである。「書きことば」(文章教室は、書きことばの指導、話しことばは「話し方教室」の方に属する)では、同じことばはうるさい感じがするのかもしれないが、話しことばでは、ことばは声となって消えていくので繰り返されないと「頭」に残らない。書きことばは紙の上に残っているが、話しことばは、あらわれるとすぐに消えていく。

 で、このことを逆に考えると……。(ちょっと、飛躍が大きいかな?)
 書きことばで同じことば(文字)を重ねるというのは、ことばを「残す」ためではないのだ。逆に、前のことばを消すためなのだ。
 坂多のこの詩がその具体的な例になるが、「穴」は繰り返されるたびに、その「穴」の存在が明確になる(意識に具体的な「穴」として定着する)というよりも、まったく逆に動いている。
 最初の「穴だらけになって」の「穴」は大根の葉っぱにあいている具体的な「穴」である。けれど「穴の上には/おんぶバッタが/わんさといて」の「穴」は? バッタがいるのは「穴」の上ではなく、「穴」のそば、葉っぱの上ではないのかな?
 変でしょ?
 「穴によくまあ落ちないで」というけれど、バッタが葉っぱの「穴」に落ちるなんてことがある? 万が一落ちたって、バッタは飛べるから、それは落ちるとは言えないよね。もう、これは葉っぱにあいた「穴」、バッタが葉っぱを食ってあけた「穴」ではないね。でも、「穴」ということばをそのままつかっている。ほんとうは別のことばでいわなければいけないはずなのに、同じ「穴」をつかい、それより前の「穴」を無効(?)にしている。
 次の「穴をのぞいていると」の「穴」は、たしかに「穴」だけれど、葉っぱの「穴」は「穴」自体をのぞくということは、ふつうはできないね。穴「を」のぞくのではなく、あな「から」のぞく。
 ほら、葉っぱの「穴」は完全に消えているでしょ? 変でしょ? この詩の書いていること--というか、ことばのつかい方。
 この変なところ、「流通言語」になりえないところが、詩、なんですねえ。

で。

 また、もとにもどって。
 この変なことばの運動を軽々とやってのける(そんなふうに感じさせる)ために、坂多はここでは「話しことば」の特徴を利用している。
 「話しことば」は声にした瞬間から次々に消えていく。それは、いいたいことを途中でかえてしまっても、前にいったことが消えてしまっているので、前にいったことと「ずれ」ているよ、という指摘がむずかしい。「書きことば」の場合、書かれている部分をふたつ並べることで、こことここに「矛盾」がある、「ずれ」があるというのはわりと簡単に指摘できるが、「話しことば」の場合、ちょっと面倒くさい。正確に「覚えて」いないといけない。いやだよねえ、他人のいったことをわざわざ正確に覚えるなんて。
 そして、これは話している本人にとっても同じ。前にいったことをきちんと踏まえて話すというのは「基本」であるけれど、話している途中に気分がかわって、いいたいことをいいきらない先に、次のことを言ってしまう、言いはじめてしまう--そういうことがある。
 坂多は、この、書きことばなら「文章」として完結しなくてはいけない部分を(句点できちんと区切らないといけない部分を)、完結しないまま、ずるずるずるっと、ずらしていく。
 「主語」と「述語」が、この詩では完結した文章として存在していない。
 ことばが発せられる過程で「主語」がかわり、それに対応する「述語」は完結しないまま、ずるっと動く。
 そしてその「ずるっ」に、「状況」を描写することばも「ずるっ」と引き込まれていく。

穴をのぞいていると
すっとあたりが暗くなって

 なんでもない「状況」の描写のようだけれど、この「状況」の転換のリズムがすばらしい。
 坂多は「大根の葉っぱ」と書きはじめたとき、どこにいた? スーパー? 違うね。そんなことろにバッタはいないから。大根畑? かもしれない。けれど、「穴をのぞいていると/すっとあたりが暗くなって」というときは、もう、「穴」をのぞいてはいない。「すっと」穴の中に入り込んでしまっている。穴の中に落ちてしまって、そのために「すっと」あたりが暗くなってしまっているのだ。
 「すっと」などということばは、ちょっといいかげんで、「文章教室」では嫌われるだろうけれど、その前の「わんさといて」の「わんさ」同様、「話しことば」としてなら、まあ、許されるね。(ここでも、「話しことば」が巧みに利用されている。)

教室がひとつふたつ
いつつあって

 この「ひとつふたつ」から「いつつ」あっての飛躍もいい。「飛躍」といっても「話しことば」だから飛躍がかぎられている。「ひとつふたつ/五十」ではなく、「肉体」でいっきに把握できる数の飛躍であるところが、とてもいい。「ひとつふたつ/五十」だったら、いつのまに、そんなに数えた?とあやしまれる。でも、ひとつふたつと数えはじめているとき、目はことばよりはやく動いているから、ぱっといつつと把握してしまう。そして、それにことばがおいついて「いつつ」という。この「肉体」のリズムが、そのまま「話しことば」のリズム。
 このリズムがほんとうに有効だ。

子どもたちが通りすぎていくけど
でも外は真っ暗で

 この2行の、「けど」「でも」は「書きことば」では重複である。むだである。けれど、「話しことば」では、それは「重複」ではなく、一種の「強調」である。論点(?)の移行を強調する。「逆説」をいいたくて「けど」があるのではなく、いま書いたことば(いま話したことば)から飛躍したくて「けど」「でも」がつかわれている。
 「話しことば」の独特のリズムがつかわれている。

 文章を完結させない、「主語」「述語」をきちんと対応させる文章をつくらない--という気分屋の「話しことば」のリズムを利用した、最後の部分が、また絶妙だ。

とんでる
感じがして
おんぶバッタだ
騒がしい声が
遠くで聞こえる

 「感じがして」は前の行の「とんでる」を引き継ぎ、私(坂多)には、「とんでる/感じがして」ということになるが、
 次の「おんぶバッタだ」。
 これが問題。
 「学校教科書文法」では、「おんぶバッタだ」は、騒がしい声の具体的な内容になるのかもしれない。子どもか誰かが「おんぶバッタだ」と叫んでいる。その騒がしい声が聞こえる--ということになるかもしれない。
 けれど。
 私は、ここは、私(坂多)が突然「おんぶバッタだ」と自覚したと読みたいのだ。「とんでる/感じがして」(あ、これは私が)「おんぶバッタ」(になってしまったから)「だ」。
 だから、ほら。「騒がしい声が/遠くで聞こえる」。その「声」はたしかに「おんぶバッタだ」と叫んでいるのだが、「遠い」。それよりも、もっと「近く」、坂多の「肉体」のなからか「おんぶバッタだ」と驚き、叫ぶ、声がする。

 「感じがして」--この「感じ」、だれものものでもない、自分のもの--それが、ことば全体を統一する。
 とても気持ちのいい詩だ。



 水野るり子「夜ごとのアリス」は「ナンセンス」なことばが、「アリス」そのものの運動を連想させて楽しい。

(曲がりくねったアリの巣アリス
(アリ地獄はポーカーフェース
(空き家のタンスにキリギリス
(ビンの底にはオレンジジュース


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