詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(106 )

2010-02-11 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇の詩には並列が多い。そのため、ことばの動いていく先が前へ前へというより、横へ広がる感じがする。それは「進む」というよりも、「いま」「ここ」にとどまりつづける動きのように思える。
 「プロサミヨン」という短い詩がある。「プロサミヨン」というのはなんのことだろう。私にはわからないが、そのなかには「行く人」が出てきて、「流れ去る」ということばもあるのだが、私には、その運動は、「いま」「ここ」からどこかへ動いていく運動には見えない。

川原を行く人よ
思う旅をして
君が行く路の草むらの中で
薫しい果(み)をうめ。
この多摩の女のせせらぎに
鳴くよしきりに
このぼけの花が咲く垣根に
やるせない宿命があるのだ
宝石がくもる。
あたたかい砂が
胸にこぼれる
流れ行く春の日も
流れ行く女も
寂光の菫に濡れて
流れ去る命の
ただひと時

 西脇に、何か書きたい「意味」があるかどうか、よくわからない。私は「意味」を考えない。時間--「流れ行く」ものの無常さ、ということばが思い浮かばないわけではないが、その流れ去るもの、過ぎ行くものという思いとは逆に、並列することで「いま」「ここ」を押し広げるものの方に、私の意識は傾いてしまう。
 「せせらぎに」「よしきりに」「垣根に」。「に」でつながれたものたち。つながれるたびに、視線が垂直にではなく、水平に動く。そのことばが「やるせない宿命があるのだ」という1行に集約していくというよりも、行の展開とは逆に、「やるせない宿命があるのだ」という1行が、先行する3行の中へ分散していく感じがする。
 もし、感動(?)、あるいは「意味」を強調するというか、西脇が「発見」したものを明確に印象づけたいなら、ひとつの「もの」だけを描き、たとえば「せせらぎ」だけを描いて、せせらぎと宿命ということばの運動をバネにさらに進んで行けばいいのだろうけれど、西脇は、そういうことをしない。集中ではなく、分散させる。これでは、ことばの運動として弱くはないか……。

 だが、というべきか、そして、というべきか。

 そして、いま書いたことと矛盾したことを書いてしまうのだが……。「やるせない宿命があるのだ」という1行は、分散することで、不思議な「一体感」をもたらす。「せせらぎに/やるせない宿命があるのだ」「よしきりに/やるせない宿命があるのだ」「垣根に/やるせない宿命があるのだ」というふうに分散しながら、「せせらぎ」も「よしきり」も「垣根」もひとつになる。それは「宿命」というものがあらわれてくるとき、それぞれ対等なのである--という意味で「ひとつ」になる。
 宿命があらわれる、すがたをあらわすとき、「せせらぎ」も「よしきり」も「垣根」も同じである。西脇が正確に書いているように、複数のもの(せせらぎ、よしきり、垣根)にひとつのもの「宿命」が姿をあらわす。「せせらぎ」の宿命、「よしきり」の宿命、「垣根」の宿命--それは複数ではなく「ひとつ」である。

 「複数」と「ひとつ」がくっついてしまう。これは矛盾である。矛盾だから、私は、そこに惹かれてしまう。その行を何度も読み返してしまう。読み返して、その矛盾がとけるわけではない。とけない。そのままである。そして、そのことが、私にはうれしいのだ。うまくいえないが。

 さらに、この「矛盾」の構造の中に「この」ということばが繰り返されているのも、何か「矛盾」を強調するようで楽しい。一般名詞としての「せせらぎ」や「垣根」ではない。「この」という限定されたもの、明確に区別された「もの」、その「複数」こそが「ひとつ」になりうるのだ。
 それを西脇は「音楽」にしてしまっている。
 「この」と繰り返される「音」、その「音」は「ひとつ」である。それぞれ指し示すもの(対象)は違うけれど、「音」は「ひとつ」。
 「意味」より先に「音」が西脇の思想、「音楽」を実現してしまうのだ。

 後半の「流れ」も同じ。そこに書かれている「流れ」はそれぞれ別の存在である。別の運動である。けれど、それは「流れる」という「ひとつ」の運動の中に集まりながら、過去へ引き返すようにして、それぞれの中へ分散していく。
 「複数」と「ひとつ」の融合--それが「音」のなかで起きる。




西脇順三郎のモダニズム―「ギリシア的抒情詩」全篇を読む
沢 正宏
双文社出版

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たかぎたかよし『回遊と伏流』

2010-02-11 00:00:00 | 詩集
たかぎたかよし『回遊と伏流』(霧工房、2010年01月14日発行)

 推敲ということばが随所に出てくる。たかぎたかよしは推敲のひとである、といっていいかもしれない。

 いったい詩はどこにとどけられるのだろうか。
 蟹のよ
 土を落とすと どこまでも限りなく吸い込まれて
 雨は誘われ しみゆき 止まず (詩「しおりの径」より)
 土に開いた黒い穴。そこに「雨は誘われ」て止まない。そう書いて落ち着いた。推敲時、「その下に死が横たわっている」と書いたりしたが、筆を置けなかった。詩行は、その行先を内に抱いているのだろう。

 たかぎを「推敲」へと動かしているのは「行先」ということばである。なんのために「推敲」するか--そう問われたとき、たかぎは、ことばを、「いま」「ここ」に定着させるのではなく、ことばがこれから向かう先、その行き先へ自然に(? 自由に、自らの力で)動いて行けるようにするため、というかもしれない。
 「その下に死が横たわっている」と書いてしまえば、ことばは、そこで止まってしまう。ことばで完全に世界を「定着」させるのは、それはそれでいいのかもしれないけれど、高木はそれを望んでいない。自分の書いたことばで「世界」が完結するのではなく、そのことばがどこかへ動いて行って、そこに、いま、ここにはない世界が完成する--そいういうことを願っている。
 「詩行は、その行先を内に抱いているのだろう。」は、そういうことを言おうとして書かれたことばであるように思える。

 このことばでおもしろいのは「行先」と「内」ということばの対立(?)である。「行先」とは「いま」「ここ」ではないところである。しかし、その「行先」をことばは「内」にもっている。「いま」「ここ」から離れた場所が「行先」なのではなく、「いま」「ここ」の「内」こそが「行先」である。
 これは矛盾である。そして、矛盾であるから、それは「思想」であり、「肉体」である。
 「行先」(自分より、外)と「内」は本来切り離されたものであるが、その切り離されているはずのものが実は「表裏一体」のもの、ひとつのものである。そういう「表裏一体」「ひとつ」のものとしての「ことば」にかえるために、たかぎは「推敲」する。

 そして、推敲すればするほど、ことばは「表裏一体」(複数であるのに「ひとつ」)という世界へ近づいていく。そして、そのことばが「表裏一体」に近づけば近づくほど、あたりまえのことかもしれないが、「内」(内部)に矛盾したもの、「流通言語」ではいいあらわせないものが蓄積してくる。そして、どうなるか。
 たかぎは、次のように書いている。

 「机」という名は、多くの言語で見かけは異っても、その本質に繋がる像を内在している。真の「意味」とも言えるこの像は、言語の姿でしか見出せないが、それ故に、叙述の場でなら、文体の隅々を決定しようと働きかけてくる。推敲とはそんな内圧を持つ行為なのだ。「机」の辞書的な意味の根が私という存在を伸びはじめる。

 最後の、

「机」の辞書的な意味の根が私という存在を伸びはじめる。

 が、「表裏一体」(ひとつ)ということに繋がる。ことばをとおして「私(たかぎ)」と「机」が表裏一体になる。私はもとより机ではないし、机は私ではない。けれど、そこにあるものを「机」と呼ぶとき、「私」は何なのか。
 机を私と切り離して、あくまで机というとらえ方もできるが、机を机と呼ぶとき、私自身が机となって存在するということも可能なのだ。私の中にある机という名の意味を私がよしとするからこそ、そのとき机は私とともに存在する。もし、私のなかの机という名に対して私が異議をもつとき、それは机ではなくなる。
 たかぎが書こうとしているのは、「表裏一体」(ひとつ)には、常に「私」が含まれるということである。私自身が対象と「表裏一体」(ひとつ)になるために、「推敲」がある、ということである。
 その「ひとつ」になる過程(運動?)のあり方を、なんと呼べばいいのだろう。たかぎは、細見和之翻訳のベンヤミンを引いている。

ベンヤミンの考えている人間の言語の使命は、およそこの世の事柄と出来事を「神」にたいして報告し証言する、そういうコンテクストに置かれているように思われる

 「神」。ベンヤミンなら「神」と向き合うことが推敲なのだ。推敲は、ベンヤミンにあっては、ひとつの絶対的な宗教なのである。たかぎとベンヤミンの関係は、私にはよくわからないが(ベンヤミンを私は読んでいないので、さっぱりわからないのだが)、たかぎにとって推敲は、絶対的宗教のようなものである。「世界の一体感」というか「世界」を自己と一体のもの(表裏一体、という意味であって、独裁という意味ではない)という境地に到達するための、強い祈りのようなものである。
 --私は無宗教なので「神」ということばを無造作につかっているかもしれないが、そんなことを感じた。

 たかぎのことばには、ことばの絶対性への強い希求があると感じた。




四時-夜をつたう
たかぎ たかよし
編集工房ノア

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