西脇の詩には並列が多い。そのため、ことばの動いていく先が前へ前へというより、横へ広がる感じがする。それは「進む」というよりも、「いま」「ここ」にとどまりつづける動きのように思える。
「プロサミヨン」という短い詩がある。「プロサミヨン」というのはなんのことだろう。私にはわからないが、そのなかには「行く人」が出てきて、「流れ去る」ということばもあるのだが、私には、その運動は、「いま」「ここ」からどこかへ動いていく運動には見えない。
川原を行く人よ
思う旅をして
君が行く路の草むらの中で
薫しい果(み)をうめ。
この多摩の女のせせらぎに
鳴くよしきりに
このぼけの花が咲く垣根に
やるせない宿命があるのだ
宝石がくもる。
あたたかい砂が
胸にこぼれる
流れ行く春の日も
流れ行く女も
寂光の菫に濡れて
流れ去る命の
ただひと時
西脇に、何か書きたい「意味」があるかどうか、よくわからない。私は「意味」を考えない。時間--「流れ行く」ものの無常さ、ということばが思い浮かばないわけではないが、その流れ去るもの、過ぎ行くものという思いとは逆に、並列することで「いま」「ここ」を押し広げるものの方に、私の意識は傾いてしまう。
「せせらぎに」「よしきりに」「垣根に」。「に」でつながれたものたち。つながれるたびに、視線が垂直にではなく、水平に動く。そのことばが「やるせない宿命があるのだ」という1行に集約していくというよりも、行の展開とは逆に、「やるせない宿命があるのだ」という1行が、先行する3行の中へ分散していく感じがする。
もし、感動(?)、あるいは「意味」を強調するというか、西脇が「発見」したものを明確に印象づけたいなら、ひとつの「もの」だけを描き、たとえば「せせらぎ」だけを描いて、せせらぎと宿命ということばの運動をバネにさらに進んで行けばいいのだろうけれど、西脇は、そういうことをしない。集中ではなく、分散させる。これでは、ことばの運動として弱くはないか……。
だが、というべきか、そして、というべきか。
そして、いま書いたことと矛盾したことを書いてしまうのだが……。「やるせない宿命があるのだ」という1行は、分散することで、不思議な「一体感」をもたらす。「せせらぎに/やるせない宿命があるのだ」「よしきりに/やるせない宿命があるのだ」「垣根に/やるせない宿命があるのだ」というふうに分散しながら、「せせらぎ」も「よしきり」も「垣根」もひとつになる。それは「宿命」というものがあらわれてくるとき、それぞれ対等なのである--という意味で「ひとつ」になる。
宿命があらわれる、すがたをあらわすとき、「せせらぎ」も「よしきり」も「垣根」も同じである。西脇が正確に書いているように、複数のもの(せせらぎ、よしきり、垣根)にひとつのもの「宿命」が姿をあらわす。「せせらぎ」の宿命、「よしきり」の宿命、「垣根」の宿命--それは複数ではなく「ひとつ」である。
「複数」と「ひとつ」がくっついてしまう。これは矛盾である。矛盾だから、私は、そこに惹かれてしまう。その行を何度も読み返してしまう。読み返して、その矛盾がとけるわけではない。とけない。そのままである。そして、そのことが、私にはうれしいのだ。うまくいえないが。
さらに、この「矛盾」の構造の中に「この」ということばが繰り返されているのも、何か「矛盾」を強調するようで楽しい。一般名詞としての「せせらぎ」や「垣根」ではない。「この」という限定されたもの、明確に区別された「もの」、その「複数」こそが「ひとつ」になりうるのだ。
それを西脇は「音楽」にしてしまっている。
「この」と繰り返される「音」、その「音」は「ひとつ」である。それぞれ指し示すもの(対象)は違うけれど、「音」は「ひとつ」。
「意味」より先に「音」が西脇の思想、「音楽」を実現してしまうのだ。
後半の「流れ」も同じ。そこに書かれている「流れ」はそれぞれ別の存在である。別の運動である。けれど、それは「流れる」という「ひとつ」の運動の中に集まりながら、過去へ引き返すようにして、それぞれの中へ分散していく。
「複数」と「ひとつ」の融合--それが「音」のなかで起きる。
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