詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(107 )

2010-02-12 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 西脇の「音楽」は、どう説明していいか、実際のところわからない。たとえば「たおやめ」の書き出し。

都の憂鬱にめざめて
ひとり多摩の浅瀬を渡る。
梨の花は幾たびか散つた。

 「音」がとても気持ちよく響いてくる。リズムもとても気持ちがいい。私は「意味」を考えていない。音読するわけではないが、「音」が耳に響いてくる。
 1行目「都の憂鬱にめざめて」はゆったりと動く。それが、2、3行目で憂鬱とはまるで関係がないように、快活に音が動く。たぶん「た行」の音の繰り返しが気持ちがいいのだ。2行目「ひとり」の「と」からはじまり、わ「た」る、いく「た」び、「ち」「つ」「た」と動く。
 奇妙な言い方になるが、もし西脇が「散った」と促音でことばを表記していたら、この「音楽」は違ってくる。これは、奇妙な言い方であるとわかっているが、私には、その奇妙さのなかに、西脇の音楽の秘密があるかもしれないと思う。
 私は西脇の詩を音読はしない。あくまで「黙読」。「黙読」というのは「黙」して「読む」ということだが、そのとき声は出さないが「耳」は働いているし、声には出さないが発声器官は動いている。そしてそれは「目」(眼)をとおして動いている。「黙読」ではなく、「目読」あるいは「目読」ということばをつかいたくなる。
 そして、「目読」のとき、「散つた」の音は、「目」と「耳」と「発声器官」で微妙にずれる。目はは「つ」と読む。けれど、耳と発声器官は「っ」。そのずれが、意識のどこかをめざめさせる。何かが敏感になる。
 その敏感になったなにかのなかに「か」という「音」と文字が鮮烈に輝く。あかるい「か」の音。「た」と「か」の響きあい。
 もし、この3行目が「梨の花は幾たびも散つた」であったなら。「か」ではなく「も」ということばを西脇がつかっていたとしたら……。
 たぶん、この詩の音楽は違っていた。「意味」的にみて、「か」と「も」がどれほど違うかよくわからないが、音の問題で言えば、全体に「か」の方がはつらつと響く。音にスピードが出る。
 そして、さらに。
 「た」と響きあう「か」の音に影響されてのことだと思うのだが、「梨の花」が、私の「目」のなかで「梨花」になってしまい、「りか」という音が遠くから聞こえてくるのだ。「なしのはな」にも「い」の音はあるけれど「りか」の方が「い」の音が強烈である。そして、その強烈な「い」が「いくたびかちつた」のなかで形をかえながら動く。「いくたび」の「い」は異質だが「たび」の「い」、「ちつた」の「い」の音は「りか」の「り」に含まれる「い」と、ぴったり重なる。

 あ、こんなことは、きっとどう書いてみても、なんの説得力も持たないだろうと思う。思うけれど、あるいは、思うからこそ、書いておきたいとも思う。誰もこんなことを西脇の詩について言わないかもしれない。言わないかもしれないけれど、私が西脇の詩が好きなのは、こういう、なんともしれない、説明のしようのない部分なのだ。

梨の花は幾たびか散つた

 かっこいいなあ。この音をまねしたいなあ。この行がほしいなあ、と思い、読み返してしまうのだ。
 詩のつづき。

わが思いのはてるまで
静かに流れよ洲(す)から洲へ
明日は
わが男を娶(めと)る日だ。
心はおののくのだ。

 し「ず」かにながれよ「す」から「す」へ/あ「す」は--この「す」の繰り返しも美しい。そのあとの「「日だ」「のだ」の「だ」の繰り返しもおもしろい。不思議に、ことばが加速していく。
 けれど、この「のだ」が、もし2行目にまぎれこんで、

ひとり多摩の浅瀬を渡る「のだ」

 と書かれていたとしたら……。今度は、音楽が崩れてしまう。音は繰り返せばいいというものではない。音が「音楽」になるためには、なにか別な要素も必要なのだ。
 詩はつづく。音の響きあいはまだまだつづく。

唇をこんなに梨色(なしいろ)に塗り
髪はカピトリノのヴィーナスのように
深い淵のように渦巻かせ
頬を杏(あんず)のうす色にぬつたものの
わが恋のこのはてしない色には
劣るのだ。
明日は
わが男を娶る日だ。
この土手のくさむらに
赤い百合が開くのだ。
わが思いを寄せた数々の人々よ
見知らぬ釣人(つりびと)よ
さようなら
  (谷内注・「ものの」のあとの方の「の」は原文は踊り文字。いままで引用して
  きたものも、踊り文字は採用していない。私のパソコンでは表記できないので。)

 「のだ」「日だ」の繰り返しのほかに、こん「な」「な」しいろ、なし「いろ」カピト「リノ」、塗「り」カピト「リ」ノ、「か」み「カ」ピトリノ。「ふ」かい「ふ」ち、「ふ」かい「う」ず。う「ず」あん「ず」。「うず」「うす」いろ、「こい」の「この」。
 そして。
 「な」「し」「いろ」--はて「し」「な」(い)「いろ」
 私はめまいを覚えてしまう。モーツァルトの繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、あきることのない繰り返しに出会ったときのように、「気分」というものが(そんなふうに呼んでいいのかどうかわからないが)、ぶっとんでしまう。酔っぱらってしまう。
 なんだかわからないが、「明日は/わが男を娶るのだ」、と女になっていいふらしたい気分になってしまう。



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支倉隆子「冬の猿/アラバール」、荒川純子「贖罪」「湖水婚」

2010-02-12 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
支倉隆子「冬の猿/アラバール」、荒川純子「贖罪」「湖水婚」(「歴程」565 、2010年01月31日発行)

 支倉隆子「冬の猿/アラバール」はジャン・ギャバン主演の「冬の猿」という映画を思い出す詩である。思い出すといっても、「その映画は見たことがない」。この矛盾のなかで、ことばはどんなふうに動くか。動いていける。
 どこで、どんなふうに手にいれたかわからない「知識」がことばとなって動いていく。

鳩を飼う殺し屋、街角、場末、アラバール。「奇妙に柔らかい巣」。奇妙に柔らかい巣をもった殺し屋。奇妙に柔らかい巣をもった鳩を飼う殺し屋。鳩を飼う殺し屋が奇妙に柔らかい巣を持ち……、

 ここでは何も言っていない。その何も言っていないところがおもしろい。支倉をとらえているのは、単なることばである。「意味」をもっていないことばである。「意味」という言い方が不自然なら、帰属する「現実」をもたないことばである。それが何かを正しくあらわしているか、判断する材料を支倉はもっていない。「冬の猿」を見ていないのだから。
 それでも、ことばは動く。
 なんのために? どこへ向けて?
 何もわからない。わからなくても、動いていこうとしている。それを支倉は、ただ動きにまかせて追っている。
 そして、その途中には、「非鉄金属減量地金問屋。㈱吉澤五郎商店」というような、ことばの乱入もある。それは「冬の猿」とは無関係なようでいて、あ、ほんとうは、この突然の「もの」そのもののことばの乱入を支倉は書きたかったのではないだろうか、と想像させる。
 「冬の猿」など、映画オタクにまかせておけばいい。どうでもいいのだ。その映画など。ただ唐突に「冬の猿」ということばを思いついた支倉は、そのことばを書きたいと思い、そのこ書きたい気持ちを「冬の猿」ということばとともに動かしていて、いろいろなことばと出会う。
 映画の街、映画のバー(アラバール、とはア・ラ・バール、酒場にて、くらいの意味だろうか)とは遠く離れた支倉の街が、重ならないまま、重なり(奇妙な言い方だけれど、ずれそのものとして重なり)、手触りのあることばが噴出してくる。
 映画の聞きかじった「ストーリー」から「鳩」だの「殺し屋」だの「柔らかい巣」だのということばが噴出してくるように、支倉の街の中から、「非鉄金属減量地金問屋。㈱吉澤五郎商店」あるいは、「丸穴㈱富田穴かがり工業所」というようなものか噴出してくる。それは、「いま」「ここ」にある「過去」である。
 あ、ことばは動くとき、どうしても、「いま」「ここ」へ「過去」を噴出させるものなのだ。そして、「過去」だけが「未来」へ動いていくのだ、ということがわかる。
 その構造は、支倉が「冬の猿」ということばを急に思い出したのと同じ構造である。入れ子細工のように、ことばが動き回る。ぶつかり、音を立てる。その音を楽しみながら、支倉はことばを動かしている。
 ここに「無意味」の美しさがある。



 荒川純子「贖罪」「湖水婚」は「無意味」の対局にある。荒川のことばは「意味」を伝えたくてもがいている。

壁の向こう側はよくみえても
私は出られない
でも私は抜け出せない
                        (「贖罪」)

 「私は出られない/でも私は抜け出せない」は変じゃない? 「出られない」なら「抜け出せない」のはあたりまえ。「でも」で結びつけると矛盾するよ。
 ああ、そうではないのだ。
 この「でも」にこそ荒川の苦しみである。
 この3行は、ほんとうは「壁の向こう側はよくみえる/(でも)私は出られない/壁の向こう側はよくみえる/でも私は抜け出せない」と4行なのだろう。4行書いている時間があれば、荒川はもっと正確に「意味」を伝えられる。しかし、荒川は、そんなふうにしてことばを「ていねい」に誤解のないように動かしているほどの余裕はないのだ。
 支倉は「無意味」を噴出させることで、ことばの楽しさを味わわせてくれたが、荒川にとっては「無意味」は耐えられないかもしれない。

私は今、せかされている
                        (「贖罪」)

 何に?
 ことばに、である。ことばにならないことばに、せかされているのだ。

 「湖水婚」というのは、そうしてせかされる形で噴出してきた、荒川の悲しみであるだろう。「湖水婚」ということばは、辞書にはのっていない。せかされて、荒川の「肉体」が生み出したことばである。支倉は「過去」をことばとてし噴出させたが、荒川は「過去」をそのまま噴出させたくない。「肉体」のなかで「過去」という精子と荒川自身の卵子を結合させ、新しい「いのち」として生み出すのだ。

私はボートと婚姻した
女はオールを持ってはいけない
唇を縫われてただ座っていればいい

(略)

私には決定権はない
首にはみえない番号がふられ
順番に居場所を決められる
それが私には湖だった
ボートとの足かせが私の生き方と示され
誰もが憧れていた
服も髪も身につけるものは全て決められ
ずっと心待ちにしていた

こんな悲痛な事だなんて
湖水に手を浸しあおむけになる
どれだけこうしていればいいのだろう
ボートにゆられて
私は湖の中心でじっと動かないでいる

 あ、荒川は、ことばがことば自身の力で生まれてくるのを待っているようでもある。荒川の「肉体」をくぐりぬけることで、「流通言語」とは違った形になって、荒川の胎内を突き破って出てくるのを待っている。「湖水婚」ということばは、そのはじまりを告げている。
 荒川は、いま、新しいことばを妊娠している。




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