監督・脚本 コートニー・ハント 出演 メリッサ・レオ、ミスティ・アップハム、チャーリー・マクダーモット
アメリカ、カナダ国境の雪の質感がとてもいい。私は映画に描かれている場所に住んだことはないし、行ったこともないのに、こういうことを書くと無責任かもしれないけれど、雪に魅了された。私の知っている雪は北陸の雪がほとんどすべてだが、その雪とはまったく異質。雪がみずからの冷たさで凍るときの青さが雪全体を破壊している。もう、それは雪ではない。川が近くにあって、その水分の影響で(川には氷が張っているから直接水分の蒸発というのはないだろうけれど)、雪が水のように粘っている。水分の少ない雪はさらさらしているが、この映画に出てくる雪は、粘着力がある。そして、その粘着力を内側から支えている--というか、雪の結晶を破壊して、噴出してくる凍る力。凍る力というのは--うーん、いいことばが思いつかないが、なにかをくっつけてしまう。ドライアイスや凍りすぎた(?)氷に手を触れると、指がくっついてしまう。そんな感じで、雪が雪をくっつけ、雪でなくなる。そこにあるのは「雪」と呼ばれるものだが、すでに「雪」ではなくなったもの、「雪」であることを破壊された「もの」なのだ。
この質感に、ともかく圧倒される。
そして、この質感に影響されているのだろう、そこに登場する人々も、その人でありながらその人ではない。何かに破壊されて、その破壊したものの力が、その人を突き破って、本来ならばくっつくはずのない人間を結びつけてしまう。その結びついた人も、また何かに破壊されているのだが、その破壊する力をその人はどうすることもできない。それまでの「私」を突き破っていく力だけが生きる力を持っているからだ。
メリッサ・レオはローンの支払いに困り、移民を不法入国させる仕事をすることになる。このときメリッサ・レオを破壊し、突き破っているのは「金」であるように見える。彼女といっしょに仕事をするミスティ・アップハムも金が必要だ。彼女を破壊しているのも「金」であるように見える。ところが、ほんとうは「金」がふたりを破壊しているのではない。ふたりを破壊し、ふたりがそれまでのふたりではいられなくしているのは「金」ではなく、子供への愛である。こどもを愛していて、その愛だけは壊したくない。愛そのものである子供だけはなんとしてでも守りたい--という気持ちが、ふたりを破壊し、違法行為に駆り立てるのだ。「金」ではない。
そのことが明らかになるのは、パキスタンの移民を不法入国させるとき。鞄を預けられる。メリッサ・レオは、その鞄のなかにテロの材料があると思い込み、途中で捨てる。ところが、鞄のなかには赤ん坊がいたのだ。それを知ってふたりは鞄を捨ててきた凍った川へ引き返す。幼い命をそんなふうに見捨てることはできない。ふたりは、話し合いというほどの話し合いもせず、即座に決断し、行動する。子供の命を救う--ということに反対のことはできない。そんなことをしてしまえば、自分の子供も救えない。子供の命を救ったことにはならない。
子供への際限のない愛--それがふたりを破壊する力である。そして、そのふたりを破壊し、ふたりを突き破ってあらわれるこどもへの愛がふたりを結びつけるのだ。「子供のために」。その共通のものがあるから、ふたりは互いを裏切らない。ふたりを破壊した力がふたりを結びつけ、協力させる。
そして、この、ふたりを破壊した子供への限りない愛が、またふたりを再生させる。パキスタン人の赤ん坊のことはすでに書いたが、ふたりの違法行為をどう償うか--その判断のぎりぎりのことろで、メリッサ・レオならどんなふうに子供を守れるか、ミスティ・アップハムならどんなふうに子供を守れるか、ふたりは、パキスタンの赤ん坊を救ったときと同じように、ほとんど会話らしい会話もしないまま、結論に達する。
(どんな結論だったか、映画で確認してください。)
このあと。
あの、冷たい、青い、凍ることしか知らない雪が、きらきらと白く輝く。いままで灰色だった空気の色に光が満ちる。人力メリーゴーラウンドにのって明るい笑顔の子供。自転車をこぎながら楽しそうな少年。それをみつめる女--その、どこにでもいる母親の顔。なにも求めずただ子供をみているだけの女の顔。
これは、とてもいい。
そして、これはファーストシーンのメリッサ・レオの顔となんと違うことだろう。ファーストシーンのメリッサ・レオの顔はまるで老婆である。メリッサ・レオは「生活」に破壊されてしまっている。そのあと、どんなにマスカラをつけ、マニュキアをしたって、破壊されてしまった顔はもとにはもどらない。ただ、子供への愛がきちんと実を結んだとき、新しい顔が生まれるのだ。--これは、メリッサ・レオだけではなく、あらゆる女に共通のことなのかもしれない。ラストシーンは、それを象徴している。
冷たく青く、凍った雪が、破壊された女が生まれ変わるとき、その雪も、空気も明るく輝く--そいういう映画である。
アメリカ、カナダ国境の雪の質感がとてもいい。私は映画に描かれている場所に住んだことはないし、行ったこともないのに、こういうことを書くと無責任かもしれないけれど、雪に魅了された。私の知っている雪は北陸の雪がほとんどすべてだが、その雪とはまったく異質。雪がみずからの冷たさで凍るときの青さが雪全体を破壊している。もう、それは雪ではない。川が近くにあって、その水分の影響で(川には氷が張っているから直接水分の蒸発というのはないだろうけれど)、雪が水のように粘っている。水分の少ない雪はさらさらしているが、この映画に出てくる雪は、粘着力がある。そして、その粘着力を内側から支えている--というか、雪の結晶を破壊して、噴出してくる凍る力。凍る力というのは--うーん、いいことばが思いつかないが、なにかをくっつけてしまう。ドライアイスや凍りすぎた(?)氷に手を触れると、指がくっついてしまう。そんな感じで、雪が雪をくっつけ、雪でなくなる。そこにあるのは「雪」と呼ばれるものだが、すでに「雪」ではなくなったもの、「雪」であることを破壊された「もの」なのだ。
この質感に、ともかく圧倒される。
そして、この質感に影響されているのだろう、そこに登場する人々も、その人でありながらその人ではない。何かに破壊されて、その破壊したものの力が、その人を突き破って、本来ならばくっつくはずのない人間を結びつけてしまう。その結びついた人も、また何かに破壊されているのだが、その破壊する力をその人はどうすることもできない。それまでの「私」を突き破っていく力だけが生きる力を持っているからだ。
メリッサ・レオはローンの支払いに困り、移民を不法入国させる仕事をすることになる。このときメリッサ・レオを破壊し、突き破っているのは「金」であるように見える。彼女といっしょに仕事をするミスティ・アップハムも金が必要だ。彼女を破壊しているのも「金」であるように見える。ところが、ほんとうは「金」がふたりを破壊しているのではない。ふたりを破壊し、ふたりがそれまでのふたりではいられなくしているのは「金」ではなく、子供への愛である。こどもを愛していて、その愛だけは壊したくない。愛そのものである子供だけはなんとしてでも守りたい--という気持ちが、ふたりを破壊し、違法行為に駆り立てるのだ。「金」ではない。
そのことが明らかになるのは、パキスタンの移民を不法入国させるとき。鞄を預けられる。メリッサ・レオは、その鞄のなかにテロの材料があると思い込み、途中で捨てる。ところが、鞄のなかには赤ん坊がいたのだ。それを知ってふたりは鞄を捨ててきた凍った川へ引き返す。幼い命をそんなふうに見捨てることはできない。ふたりは、話し合いというほどの話し合いもせず、即座に決断し、行動する。子供の命を救う--ということに反対のことはできない。そんなことをしてしまえば、自分の子供も救えない。子供の命を救ったことにはならない。
子供への際限のない愛--それがふたりを破壊する力である。そして、そのふたりを破壊し、ふたりを突き破ってあらわれるこどもへの愛がふたりを結びつけるのだ。「子供のために」。その共通のものがあるから、ふたりは互いを裏切らない。ふたりを破壊した力がふたりを結びつけ、協力させる。
そして、この、ふたりを破壊した子供への限りない愛が、またふたりを再生させる。パキスタン人の赤ん坊のことはすでに書いたが、ふたりの違法行為をどう償うか--その判断のぎりぎりのことろで、メリッサ・レオならどんなふうに子供を守れるか、ミスティ・アップハムならどんなふうに子供を守れるか、ふたりは、パキスタンの赤ん坊を救ったときと同じように、ほとんど会話らしい会話もしないまま、結論に達する。
(どんな結論だったか、映画で確認してください。)
このあと。
あの、冷たい、青い、凍ることしか知らない雪が、きらきらと白く輝く。いままで灰色だった空気の色に光が満ちる。人力メリーゴーラウンドにのって明るい笑顔の子供。自転車をこぎながら楽しそうな少年。それをみつめる女--その、どこにでもいる母親の顔。なにも求めずただ子供をみているだけの女の顔。
これは、とてもいい。
そして、これはファーストシーンのメリッサ・レオの顔となんと違うことだろう。ファーストシーンのメリッサ・レオの顔はまるで老婆である。メリッサ・レオは「生活」に破壊されてしまっている。そのあと、どんなにマスカラをつけ、マニュキアをしたって、破壊されてしまった顔はもとにはもどらない。ただ、子供への愛がきちんと実を結んだとき、新しい顔が生まれるのだ。--これは、メリッサ・レオだけではなく、あらゆる女に共通のことなのかもしれない。ラストシーンは、それを象徴している。
冷たく青く、凍った雪が、破壊された女が生まれ変わるとき、その雪も、空気も明るく輝く--そいういう映画である。