詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

コートニー・ハント監督「フローズン・リバー」(★★★★)

2010-02-17 21:27:44 | 映画
監督・脚本 コートニー・ハント 出演 メリッサ・レオ、ミスティ・アップハム、チャーリー・マクダーモット

 アメリカ、カナダ国境の雪の質感がとてもいい。私は映画に描かれている場所に住んだことはないし、行ったこともないのに、こういうことを書くと無責任かもしれないけれど、雪に魅了された。私の知っている雪は北陸の雪がほとんどすべてだが、その雪とはまったく異質。雪がみずからの冷たさで凍るときの青さが雪全体を破壊している。もう、それは雪ではない。川が近くにあって、その水分の影響で(川には氷が張っているから直接水分の蒸発というのはないだろうけれど)、雪が水のように粘っている。水分の少ない雪はさらさらしているが、この映画に出てくる雪は、粘着力がある。そして、その粘着力を内側から支えている--というか、雪の結晶を破壊して、噴出してくる凍る力。凍る力というのは--うーん、いいことばが思いつかないが、なにかをくっつけてしまう。ドライアイスや凍りすぎた(?)氷に手を触れると、指がくっついてしまう。そんな感じで、雪が雪をくっつけ、雪でなくなる。そこにあるのは「雪」と呼ばれるものだが、すでに「雪」ではなくなったもの、「雪」であることを破壊された「もの」なのだ。
 この質感に、ともかく圧倒される。
 そして、この質感に影響されているのだろう、そこに登場する人々も、その人でありながらその人ではない。何かに破壊されて、その破壊したものの力が、その人を突き破って、本来ならばくっつくはずのない人間を結びつけてしまう。その結びついた人も、また何かに破壊されているのだが、その破壊する力をその人はどうすることもできない。それまでの「私」を突き破っていく力だけが生きる力を持っているからだ。
 メリッサ・レオはローンの支払いに困り、移民を不法入国させる仕事をすることになる。このときメリッサ・レオを破壊し、突き破っているのは「金」であるように見える。彼女といっしょに仕事をするミスティ・アップハムも金が必要だ。彼女を破壊しているのも「金」であるように見える。ところが、ほんとうは「金」がふたりを破壊しているのではない。ふたりを破壊し、ふたりがそれまでのふたりではいられなくしているのは「金」ではなく、子供への愛である。こどもを愛していて、その愛だけは壊したくない。愛そのものである子供だけはなんとしてでも守りたい--という気持ちが、ふたりを破壊し、違法行為に駆り立てるのだ。「金」ではない。
 そのことが明らかになるのは、パキスタンの移民を不法入国させるとき。鞄を預けられる。メリッサ・レオは、その鞄のなかにテロの材料があると思い込み、途中で捨てる。ところが、鞄のなかには赤ん坊がいたのだ。それを知ってふたりは鞄を捨ててきた凍った川へ引き返す。幼い命をそんなふうに見捨てることはできない。ふたりは、話し合いというほどの話し合いもせず、即座に決断し、行動する。子供の命を救う--ということに反対のことはできない。そんなことをしてしまえば、自分の子供も救えない。子供の命を救ったことにはならない。
 子供への際限のない愛--それがふたりを破壊する力である。そして、そのふたりを破壊し、ふたりを突き破ってあらわれるこどもへの愛がふたりを結びつけるのだ。「子供のために」。その共通のものがあるから、ふたりは互いを裏切らない。ふたりを破壊した力がふたりを結びつけ、協力させる。
 そして、この、ふたりを破壊した子供への限りない愛が、またふたりを再生させる。パキスタン人の赤ん坊のことはすでに書いたが、ふたりの違法行為をどう償うか--その判断のぎりぎりのことろで、メリッサ・レオならどんなふうに子供を守れるか、ミスティ・アップハムならどんなふうに子供を守れるか、ふたりは、パキスタンの赤ん坊を救ったときと同じように、ほとんど会話らしい会話もしないまま、結論に達する。
 (どんな結論だったか、映画で確認してください。)
 このあと。
 あの、冷たい、青い、凍ることしか知らない雪が、きらきらと白く輝く。いままで灰色だった空気の色に光が満ちる。人力メリーゴーラウンドにのって明るい笑顔の子供。自転車をこぎながら楽しそうな少年。それをみつめる女--その、どこにでもいる母親の顔。なにも求めずただ子供をみているだけの女の顔。
 これは、とてもいい。
 そして、これはファーストシーンのメリッサ・レオの顔となんと違うことだろう。ファーストシーンのメリッサ・レオの顔はまるで老婆である。メリッサ・レオは「生活」に破壊されてしまっている。そのあと、どんなにマスカラをつけ、マニュキアをしたって、破壊されてしまった顔はもとにはもどらない。ただ、子供への愛がきちんと実を結んだとき、新しい顔が生まれるのだ。--これは、メリッサ・レオだけではなく、あらゆる女に共通のことなのかもしれない。ラストシーンは、それを象徴している。

 冷たく青く、凍った雪が、破壊された女が生まれ変わるとき、その雪も、空気も明るく輝く--そいういう映画である。
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孫文波「古を詠む詩 江南を懐かしむ」

2010-02-17 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
孫文波「古を詠む詩 江南を懐かしむ」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 きのう、北川透「第三の男へ」の感想を書いた。書いているうちに、だんだん、書いていることが「ずれ」てきてしまった。「ずれ」ながら、別の書きたいことに近づいていってしまった。ことばは、まあ、そんなふうに、あっちへいったり、こっちへきたりしながら動いてしまうものなのだろうなあ。
 私は、そんなふうにしか書けない。

 きょうは、孫文波「古を詠む詩 江南を懐かしむ」の感想を書いてみたい。書いてみたい、と思うのは1行目が好きだからである。

言葉による想像は暴走する。川を渡れば、

 ああ、「言葉による想像は暴走する」--それは、そのままきのう読んだ北川の詩に対する感想になってしまう。おとつい読んだ陳黎の感想にもつながってしまう。「いま」、ことばは、国を超えて、同じように暴走しているのかもしれない。
 そして、その「言葉」は、「話しことば」ではない。「書きことば」だ。詩として書かれたことばが暴走するのだ。きっと。
 「話す」というのは、目の前にことばを聞く相手がいる。そのとき、ことばは暴走しにくい。「話しことば」も暴走するかもしれないけれど、暴走しはじめると、きっと相手が、「いま、なんて言った?」と聞き返すと思う。「話しことば」はいつでもその暴走を邪魔する相手と向き合って動くしかない。
 けれど、「書きことば」には、その暴走をとめる「相手」がいない。ひたすら暴走していけるのだ。書かれていることば、印刷されていることば、「声」と違って、肉体を離れたあとも消えてしまわないで、紙の上に存在している。存在を確立して、その確立された存在を土台にして出発し、暴走できるのだ。(話されたことばもまた、「脳」のなかに存在しているから、「脳」を出発点に暴走できる--なんていう反論は、とりあえずしないでくださいね。)
 そして、いったん書かれてしまうと(印刷されてしまうと)、その「ことば」の所有者はだれかわからなくなる。書いたひとは著作権は私にある、というかもしれないけれど、そういう「法律」の問題ではなく--ことばは、「書かれたことば」は、書いたひとの思惑(書いた人がこめた「意味」)を無視して、読んだ人によってかってに「誤解」される権利を持っている。その「誤解」を利用して、ことばは暴走するのだ。
 たぶん、書いた人も、書いてしまったことばを読んだ瞬間、なぜそのことばを書いたかよりも、そのことばをどう「誤読」して、その先へ動かしていけるかを考えるのだと思う。私は、少なくとも、北川は、そういうことばの動かし方をしている詩人だと思う。
 書く、書いて読む。その行為の断絶と継続、その飛躍と飛躍を否定しようとする粘着力のようなものの間で、ことばをより自由にしようとしている。書く、書いて読む、という行為のなかで、「書きことば」が「書いた」ときの「意識」とは無関係に読み替えられ、暴走をはじめる。その暴走に、ことばの自由を感じる--そういう詩人に見える。
 「言葉による想像は暴走する」と書いた孫文波もまた同じような詩人だと思う。
 そういう前提に立って、私のことばは動いていくのだが……。

言葉による想像は暴走する。川を渡れば、

 これはほんとうにおもしろい1行だ。
 「言葉による想像は暴走する。」ということばと、「川を渡れば、」の間にはなんの脈絡もない。中国語のことは私はわからないが、「川を渡れば」という部分だけを読むと、その「主語」は「言葉」とも「想像」とも「私」ともとることができる。日本語では「私」は省略できる。「話しことば」の場合、「主語」はなんとなく、話していることばの調子、声の調子で想像がつく。けれど書きことばには、そういう手がかりはなにもなく、ただほうりだされている。だから、この1行だけ読んだとき、読者は、「主語」を「言葉」「想像」「私(これはまだ書かれていないが……、そしてこれはあるいは「あなたが」かもしれないのだが……)」から自由に選びとることができる。
 それはこの1行を書いた孫文波にとっても同じである。
 「言葉による想像は暴走する。」ということばを書いたとき、孫文波はなにか特別なことを考えていたかもしれない。けれど、それをいったん書き終え、読み返したとき、「主語」を唐突にかえることもできるのだ。そういうことが「書きことば」では起きる。そして、暴走が始まるのだ。
 ここでの実際の暴走は……。

言葉による想像は暴走する。川を渡れば、
赤い灯が手招きするし、緑の酒もしかり。
霊隠寺、鶏鳴寺、しめて四百八十寺、
線香や蝋燭は盛んに焚かれるが、目にするのは経は読まずに
賽銭勘定に忙しい和尚。柱に読書人の家柄の扁額が掛かる家で
<秀才>の子孫は詩文を読まず、経済の活性化に専心する。
そうして娘たちはいたるところに花のよう、紅の香りが顔を打ち、
風流の士は老荘の哲学を語らず、スリーサイズを語るばかり。
キュッとアップの白いヒップこそ、まさしく水豊かな春の川の流れる地である。

 詩のタイトルにあるとおり、古(いにしえ)をさまよいつつ、現代へとわたりあるく。ことばは、どんなふうにでも噴出する。
 「言葉による想像は暴走する。川を渡れば、」というはじまりの1行の、切断と連続、飛躍と粘着を、どこまでも拡大する。暴走する。
 --とは、いいながら、ねえ。
 ここにも「ことば」の「気脈」を感じてしまうのだ。過去と現在がぶつかり、さまざまなことばがでたらめに噴出してくるようであっても、そこには「気脈」があるのだ。「気脈」としかいいようのないなにかがある。
 私は、そのなにかを「音楽」と感じている。「音」と感じている。
 「話しことば」と違って「書きことば」は「音」をもたないように見えるが、ほんとうは「音」をもっているのだ。そして、その「音」が響きあって、自分に気持ちいいものと通い合い、「ことばの肉体」はセックスし、こどもを生むのだ。「意味」ではなく、「音楽」となって、どこかへ飛んで行ってしまう。消えていってしまう。
 書きことばは、「音楽」になることで、話しことばを超越していくのだ。「音楽」は消える--けれど、楽譜のように、そこに「書きことば」が残っている。そして、それが「音」を誘う……。

 あ、また、わけのわからないことを書いてしまったなあ。

 「現代詩」--同じようにことばが暴走し、「意味」を拒絶する詩のなかでも、とても読みやすいものと、読めども読めども読み進むことのできない詩がある。とても読みやすい詩は(たとえば北川の詩は)、そのことばのなかに「音」がある。「音」の「気脈」が通い合っている。音楽がある。--これはもちろん「印象」であって、具体的に証明できることではないのだが……。
 孫文波、北川、陳黎--この3人が互いの詩を、そのことばをどう感じているか知らないが、私は、その3人のことばに、不思議に似たもの、通い合う「気脈」のようなものを感じた。


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