詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファザー」(★★★★★)

2010-02-22 18:16:43 | 午前十時の映画祭
フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファザー」

監督 フランシス・フォード・コッポラ 出演 マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ロバート・デュヴァル、ダイアン・キートン

 2010年02月22日、福岡の天神東宝で見た。席はEの10である。私は、この席が空いている限り、ここで見る――と、奇妙なところにこだわっているのは・・・。
 最初に「ゴッドファザー」を見たのは、小倉の東宝。いまは、廃業し、建物もない。駐車場になっている。その、なくなってしまった映画館で見た記憶では、この映画は「黒」の色が輝くほど美しかった。この映画で私は「黒」の美しさに気がついた。私にとっては画期的な映画だった。
 ところが。
 「黒」が美しくない。
冒頭の、書斎での会見(面会?)。ブラインドを下ろした室内。屋外で行われている結婚式の明るさとはうらはらな生臭い暗いやり取り。マーロン・ブランドたちが着ている服の黒い色。それが中途半端で、なんとも不思議だ。それにつづく結婚式でも、礼服の黒が安っぽい。それと比例する(?)ように、白にも華やかさがない。昔もこんな色だったのだろうか。私は、妙に気がそがれてしまった。
それでも。
やっぱり結婚式のシーンはいいなあ。活気がある。登場人物がばらばらに動いているのに統一感がある。喜びの生命力が満ち溢れている。無垢な感じがとてもいい。ジェームズ・カーンの能天気な明るさが、とてもいい。
それにしても。
やっぱり時間の経過というか、時代の動きは凄いもんだねえ。当時は「バイオレンス」に見えた描写が「バイオレンス」からほど遠い。どの殺戮も美しい。びっくりしてしまう。馬の生首は馬と血の色がとても似合っていて奇麗だ。酒場で、手をナイフで突き刺され、首を絞められるシーンなど、記憶の中では自分の首が絞められているような苦しさがあったが、いまはもう平気。高速道料金所の銃撃も、とてもあっさりしている。
うーん、人間の感性はおそろしく発展(?)するものだ。
驚いたシーンをもうひとつ。
マーロン・ブランドがトマト畑で倒れるシーン。短い。私の記憶の中では3倍くらいの長さになっていた。マーロン・ブランドの演技はそんなに素晴らしいとは思わなかったが、このシーンだけはまねしたいくらい好きだった。それがこんなに短かったとは。

それにね。
 アル・パチーノ、ロバート・デュヴァル、ダイアン・キートン。みんな若い。こんなに若い時代があったなんて、驚いてしまう。ロバート・デュヴァルという役者は私は大好きだが、印象としては、もっと禿げていて、もっと歳をとっていて、マーロン・ブランドより少し年下と思っていたけれど、マーロン・ブランの子供(養子)だったなんて。 ダイアン・キートンって、いつから垂れ目のブスになったの? ウッディ・アレンと別れてから? なんて、映画とは関係のないことまで思ってしまうのも、古い映画を見る楽しみかも。



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中島まさの・中島友子『まさのさん』

2010-02-22 16:41:38 | 詩集
中島まさの・中島友子『まさのさん』(編集工房ノア、2010年01月26日発行)

 中島まさの・中島友子『まさのさん』は母と娘の2人の詩集である。前半に母・まさのの詩をおさめ、後半が娘・友子の詩で構成されている。母・まさのは死去している。
 まさのの詩を読んだだけだが、不思議な強さがある。
 「八十八歳八か月」という詩が最後におかれている。死の直前の作品と思われる。

これから
どんどんやせて
死んでいくやろう
多田さんも
土山さんも
松岡さんも
みな のうなった
みんな死ぬんや
どうもないがな

 私はついつい余分なことを書いてしまうが、ここには余分なものがない。見当たらない。
私は、詩は余分なもの、言おうとすること(ストーリー)からはみ出していくものだと考えている。その私の定義からすると、こういうことばに詩はないはずなのだが、私の定義を裏切るように(?)、あ、いいなあ、と感じてしまう。
 でも、ほんとうにはみ出していくもの、はみ出したものがないのかな?
 ある、と思う。

 何が過剰か。何が「ストーリー」をはみ出しているか。「行間」である。

みな のうなった
みんな死ぬんや

 この2行には、「行間」はない。ない、というと変な言い方になるが、この2行は関西弁(?)と標準語で繰り返しているだけである。同じことを言っている。2行は重なり合っている。
 でも、次の

どうもないがな

 はどうだろう。どう、つながるのだろう。脈絡があるようで、ない。
 私は、この脈絡の「ない」状態をもちこたえることができなくて、ついつい、「説明」の道筋をつけてしまう。「行間」に「意味の橋」をかけてしまう。
 中島まさのは、そういう「意味の橋」を思いつかないほど、過剰な「行間」を提出する。それがあまりに過剰すぎて、差し出された「行間」が「見えない」。見えないので「ない」と思ってしまうが、それは「ない」のではなく、読んでいる「私、谷内」をすっぽりと包んでしまっているのだ。
 だから。
 あ、娘の中島友子に語りかけたことばなのに、それは私、谷内に対して語りかけているように感じてしまう。
 私は母の死に目に会えなかった親不孝な人間だが、こういう詩を読むと、あ、母もそんな気持ちで死んでいったかな、となぜか安心する。

 「娘へ」はとてもいい作品だ。この作品を成立させているのも、巨大な「行間」である。 「行間」が巨大すぎて、そこには不純物が存在しえない。「行間」になにが紛れ込もうが、そんなものはミクロの塵の存在になりえない。

人が言うてくれてのは
できると思てやから
受けたらええ
やってみることや

 この大きな「行間」。そこにすっぽりと入り込むうれしさ。いいなあ。


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福間健二「レッスン、書けない小説のための」

2010-02-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
福間健二「レッスン、書けない小説のための」(「詩論へ」2、2010年01月31日発行)

 ことばの暴走にはいくつか種類がある。電池の配列でいうと「直列」と「並列」があるが、「並列」は科学の世界ではたぶん「暴走」とは言わないだろう。「並列」では電力がアップするわけではないから。
 けれども、ことばの運動では、この「並列」も暴走であると、私は思う。西脇順三郎がその代表的な詩人であると思う。
 「並列」の暴走詩は、西脇がやり尽くしたようにも思うけれど、「並列」なので、どこまでも広がりつづけていくことができるとも言えるかもしれない。限界がない--と言い換えてもいいかもしれない。
 福間健二「レッスン、書けない小説のための」を読みはじめて、すぐ、そんなことが思い浮かんだ。

父の話を聞き、花を眺め、コーヒーを
何杯も飲んで、「役に立つものも、少しは
つくった」
という書き出しを考えた
つかのまの、停戦のための休暇。
それから長い時間がたった。その主語である父はもういない。
「何を言われても、反論してはいけない」
と忠告してくれた精神科医も失意のうちに亡くなった。
言いかえさない機会に向かって
父は語った。
雲の話。夢の話。戦争の話。
焼きつくされた盆地の村の
裏口から出た遅い午後の野に、甘ずっぱい匂いがただよったのは
「青い豹」としての父たちに記憶される
女盗賊が走ったから、ではなかった。

 タイトルの「レッスン、書けない小説のための」ということばにしたがえば、「役に立つものも、すこしは/つくった」というのは小説の書き出しかもしれない。それは、まあ、私にとっては重要ではない。
 この詩には「長い時間がたった」ということばもあるが、このときの「時間」が問題である。「時間」を問題にしたい。
 「時間」の定義は、ひとの数だけあるかもしれない。だが、厳密なことは別にすれば、「時間」は一般的には「ふたつ」ある。
 ひとつは、いわゆる「直線」としての「時間」がある。過去-現在-未来が一直線上に配置されて説明される時間。これは、ある意味では「直列」の時間かもしれない。こういう「時間」は「長い」「短い」という尺度で測ることができる。ある単位を基準にして客観的な数値としてあらわすことができる。福間は「長い」と簡単に書いているが、この「長い」はそういうことを考えさせてくれる。
 もうひとつは、「螺旋」としての「時間」がある。春-夏-秋-冬。この繰り返し。「時間」はいつもある特定の「刻印」のある「とき」に螺旋を描きながらもどってくる。その「螺旋」を「螺旋階段状」にすると、その特別な「とき」と「とき」の間をひとつの単位として「長い」「短い」ということもできるかもしれない。これはしたがって、ある意味では、「直線」の「時間」を「曲線」に書き換え、さらに「平面」から「立体」に書き換えたものだと言えるかもしれない。
 私は、実は、その一般的にいれわている「時間」の形態とは別のものがあると感じている。
 それは、どこにも属さない「時間」--言い換えると、「直線」、あるいは「螺旋」からはみ出してしまう「単独」の時間のことである。何にも属さず、ただ「単独」に、そこに存在してしまう時間。
 福間の詩にもどって言えば、「役に立つものも、少しは/つくった」という小説の書き出しのことばが内包する「時間」。もちろん、その書き出しが小説として完成すれば、その「内包」された時間は、解きほぐされ、拡大され、ひとつの「直線」、あるいは「螺旋」を描く。けれど、小説が完成に向けて動いていかないとき、それはただそにに存在する「孤独」な存在である。
 こういう「時間」が、実は詩である。そして、こういう「時間」は、ほんとうにただ「並列」として存在するだけである。どんなに「並列」が増えても、それは運動の推進力そのものには影響しない。
 けれど、それは「長持ち」する。
 この「長持ち」の感覚--それが、詩の、豊かさだ。
 福間の詩には、こういう「単独」の時間がたくさん出てくる。「長い」「短い」で測られることなく、「時間」とも名付けられずに、ただ登場する。
 精神科医と父の関係は説明されない。「直列」に連結されることなく、ただ「並列」に置かれている。ときには、その「電池」にはエネルギーがないかもしれない。けれど、平気で(?)「並列」に配置される。ときには、

女盗賊が走ったから、ではなかった。

 と否定形で登場する。それは「直列」どころか、「並列」からも除外され、「物語」のさらに「外」に置かれてしまうのだが、この「外」の拡大、「物語」の破壊が詩である。何ものをも推進しない。「時間」をつくらない。それが詩である。
 福間の、この「並列の詩学」には、「ではなかった」という否定形と、もうひとつ、特徴的なことばがある。
 作品のつづき。

「なにかおいしいものを食べさせてくれよ」
食べることにまるで関心のなかった父が
急にそんなことを言いだして
鐘がなった

 「急に」が、福間の「並列」のもうひとつのキイワードである。「急に」とは「突然」ということであり、それは「関心(関係・脈絡)」の「無」(否定)とつながっている。「直列」の「時間」には「脈絡」がひとつしかない。「並列」にはそれは無数にあって、その無数はいつでも「急に」(突然)、他の脈絡とは無関係に成立する。
 それは「急に」であるからこそ、衝撃がおきる。何かが刺激される。その刺激が詩のすべてなのだ。
 この部分の「なにかおいしいものを食べさせてくれよ」に限らないが、先の引用の部分の「青い豹」「女盗賊」も、それがどういうものか、詩のどこを探しても「脈絡」がない。どんなものでも「過去」を持っているはずだが、ここでは「過去」が説明されず、「過去」というものから自由な「もの」(とき)が氾濫する。
 もし、ここに書かれていることに「過去」というものが存在するなら、それは福間の側にあるのではなく、読者の側にある「過去」である。書かれたことば--その「肉体」から独立したことばは誰とでも結びつき、結びつくことで読者の「過去」を攪拌する。
 それはあるいは「他人」「他者」と呼ぶべきものかもしれない。書いている福間にとってでさえ「他人」「他者」であるもの。その力によって、「文脈」をつくってしまおうとするものを壊す。叩き壊す。そのときの刺激--それが、「並列の詩学」の運動なのだろうと思う。

 この「並列の詩学」。西脇がはじめ、西脇が完成させた詩学と福間の詩学はどこが違うか。感じ方の違いといえばそれまでだが、私には、西脇の詩学には「音楽」があると思う。ことばをつらぬく「音楽」が「肉体」として存在する。福間にもあるのかもしれないが、私には、その「音楽」は聞き取れない。私の性にあっていない、ということかもしれない。「音楽」ではなく、また別なもの(美術とか……)が福間の詩学の基本なのかもしれないが、それもよくわからない。わからないけれど、まあ、「並列の詩学」として、福間のことばは動いている--いまは、そう感じる。



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