監督 クリント・イーストウッド 出演 モーガン・フリーマン、マット・デイモン
これはとても不思議な映画である。結末がわかっている。それなのに、まるではじめてみる結末のように引き込まれ、感動してしまう。なぜだろう。新しい手法が取り入れられているわけではない。むしろ、古い。特に、前半が、あ、これはどうしたものだろう……と思うくらい、古い。古くさい。なんといっても台詞が多い。映像ではなく、ことばで見せる映画である。
私はことばが多い映画は好きではない。ことばがなくてもわかるのが映画というものだ。この映画は、私の定義からは外れる。落第の映画である。マンデラのことばがどんなに魅力的で、説得力があったとしても、ことばを映画で伝えるというのは間違っていると思う。ことばを伝えるためには本がある。映画は本を超えるべきである。
--などということは、うーん。忘れてしまいますねえ。マンデラの高尚な「理想」を語ることばの数々。それは、忘れてしまいますねえ。映画だからねえ。特に、私のように、映画にことばはいらない、と考えている人間は、ことばなど、最初から無視している部分があるので、よけいそういう感じになるのかもしれないけれど。
で、何が残るか。
モーガン・フリーマンの表情。ひょうひょうとしている。理想、真理を語るというより、何でもないことを語る感じなのだ。途中にマット・デイモンを呼び、お茶をのむシーンがあるが、「お茶はどんなふうにしてのむ?」と聞くときの表情と、そんなに差がないのだ。理想を語る、理想で国民をひっぱっていくというときの表情に「強引さ」がない。国民をリードしなければならないという「悲壮感」がない。かわりに「あたたかさ」がある。他人に対して「命令」するのではなく、助けを求める。私にはあなたが必要だと、自分を控えめに差し出し、相手が近づいてくるのを待って、それを受け入れる。そのときの、「あたたかい」表情が残る。ことばは付け足しである。
立派なことば、高尚な理想のことばがどんなに矢継ぎ早に口にするときも、そのときの顔は「高尚な理想を語っているんだ」という顔ではない。私にはあなたが必要だ、と助けを求める顔であり、ひとを受け入れ、抱き締める顔なのだ。
あ、そうか。ひとは他人とあって話すとき、ことばを聞くのではなく「顔」を見るんだ。あたりまえのことだが、そんなことを思い出した。
そして、そのこと--ひとと話すとき、ひとはことばではなく、顔を見ている、顔が他人を説得する、ということは、クライマックスでマット・デイモンに引き継がれていく。最後の最後のスクラム円陣。マット・デイモンが仲間に呼びかける。そのとき「俺の目を見ろ」とはじめる。すごいなあ。そのとき、もちろんマット・デイモンはマット・デイモンで、きちんとしたことを言う。仲間を鼓舞することばを発する。けれど、ことばはどうでもいいのだ。ことばの前に、「目」で伝える。「目」で伝達し合う。きっと仲間たちは、この勝利を思い出して語るとき、この円陣のことを語る。マット・デイモンが何を言ったかを語る。そして、そのとき真っ先に「俺の目を見ろ、とマット・デイモンは言った」というに違いない。あとのことばはいろいろ違ってくるかもしれないが、「俺の目を見ろ」だけは、だれもが間違えずに思い出すことができるはずだ。そして、そのときのマット・デイモンの目そのものを思い出す。
あ、とってもいい顔というか、いい目をしていたねえ。「俺の目を見ろ」と言ったときのマット・デイモン。透明で、いま、ここにあるもの、つまり、仲間の顔を見ているのではなく(もちろん、しっかり仲間の顔を見ているのだけれど)、仲間の顔を見ることで、その向こう側を見ている。「勝つ」ことをめざしているんだけれど、「勝つ」を超越したものを見て、「ほら、これが見えるかい」と仲間に語りかけている。疲れ切って、余力の残らない仲間の顔ではなく、まだ何にも汚れていないもの、疲れていない美しいものを見ている。とてもいい目だ。(この目の一瞬の輝きだけで、マット・デイモンにアカデミー賞をやりたいねえ。)
そして、この目が、その見つめているものが、スタジアムの観衆全員が見つめるもの、南アフリカの国民全員が見つめるものへつながっていく。「結論」はわかっているけれど、その「結論」は、このマット・デイモンの澄みきった目によって、浄化されてスクリーンに広がる。どきどきしますねえ。はらはらしますねえ。夢が、理想が実現するときって、こんなにどきどきするもんなんだねえ。
ひととひとが話すとき、相手を見る、目を見る--というのは当然なのだけれど、何かをなし遂げるとき、ひとは目を通して、相手ではなく、ほかのものを見つめてしまう。だから……。ほら、優勝が決まった瞬間、白人がアフリカンに抱きつく、アフリカンの少年を白人の警官が抱き上げる。いままで見ていた「顔(顔の色)」ではなく、ひとりひとりの目が、いま、目の前にあらわれた美しいものしか見ていない。その美しいものから、「融和」がはじまる。
涙が出るくらいに美しい。
そして、この映画は、そういう美しい映像をスクリーンに広げながら、冷静に、「でも、ことばも忘れないでくださいよ」とつけくわえる。マンデラを支えつづけたことばが、最後の最後の瞬間に、もう一度反復される。美しい目は、強いことばによって支えられていると告げる。それは、だれもが、人間ひとりひとりが、それぞれに「強いことば」をもたなければならないといっているようでもある。誰かに期待するのではなく、私の魂を私が育てなければならないのだから。
*
マット・デイモンの目について書いたが、ほかにも印象的な映像はたくさんある。モーガン・フリーマンは、ひとなつっこく、あたたかな表情を維持しつづけるが、一瞬だけさびしい顔になる。家族との関係がうまくいかないとき、ふっとさびしげな顔になる。個人的な世界の対立・孤立を内部に抱えながら、国全体の宥和を夢見たマンデラ。その、きわめて個人的な一瞬の顔。それが忘れられない。
また、マット・デイモンたちが子供たちにラグビーを教えはじめるシーンも実にいい。ぎごちなかった関係がラグビーボールをもつことでひとつにつながっていく。それが、とても楽しい感じで広がる。そして、それがそのままラグビーの試合そのものの興奮につながっていく。子供たちにラグビーを教える、というシーンから、映画が、ことばではなく、映像、人の動きそのものの作品に変化していく。--この自然な、ことばから映像への切り替えがすばらしい。
試合終了直前の、選手の顔、電光掲示板の時計。その文字。あ、文字にさえも表情がある。顔がある、という感じ。びっくりしますねえ。破裂寸前の選手の鼓動のどくんどくんという音と、スローモーションのリズム、デジタル時計の文字。これがアナログ時計だったら、緊迫感が違ってくるよなあ。
クリント・イーストウッドの作品は、今回も、完璧。「アバター」で汚れた目を、この作品で洗い直そう。
これはとても不思議な映画である。結末がわかっている。それなのに、まるではじめてみる結末のように引き込まれ、感動してしまう。なぜだろう。新しい手法が取り入れられているわけではない。むしろ、古い。特に、前半が、あ、これはどうしたものだろう……と思うくらい、古い。古くさい。なんといっても台詞が多い。映像ではなく、ことばで見せる映画である。
私はことばが多い映画は好きではない。ことばがなくてもわかるのが映画というものだ。この映画は、私の定義からは外れる。落第の映画である。マンデラのことばがどんなに魅力的で、説得力があったとしても、ことばを映画で伝えるというのは間違っていると思う。ことばを伝えるためには本がある。映画は本を超えるべきである。
--などということは、うーん。忘れてしまいますねえ。マンデラの高尚な「理想」を語ることばの数々。それは、忘れてしまいますねえ。映画だからねえ。特に、私のように、映画にことばはいらない、と考えている人間は、ことばなど、最初から無視している部分があるので、よけいそういう感じになるのかもしれないけれど。
で、何が残るか。
モーガン・フリーマンの表情。ひょうひょうとしている。理想、真理を語るというより、何でもないことを語る感じなのだ。途中にマット・デイモンを呼び、お茶をのむシーンがあるが、「お茶はどんなふうにしてのむ?」と聞くときの表情と、そんなに差がないのだ。理想を語る、理想で国民をひっぱっていくというときの表情に「強引さ」がない。国民をリードしなければならないという「悲壮感」がない。かわりに「あたたかさ」がある。他人に対して「命令」するのではなく、助けを求める。私にはあなたが必要だと、自分を控えめに差し出し、相手が近づいてくるのを待って、それを受け入れる。そのときの、「あたたかい」表情が残る。ことばは付け足しである。
立派なことば、高尚な理想のことばがどんなに矢継ぎ早に口にするときも、そのときの顔は「高尚な理想を語っているんだ」という顔ではない。私にはあなたが必要だ、と助けを求める顔であり、ひとを受け入れ、抱き締める顔なのだ。
あ、そうか。ひとは他人とあって話すとき、ことばを聞くのではなく「顔」を見るんだ。あたりまえのことだが、そんなことを思い出した。
そして、そのこと--ひとと話すとき、ひとはことばではなく、顔を見ている、顔が他人を説得する、ということは、クライマックスでマット・デイモンに引き継がれていく。最後の最後のスクラム円陣。マット・デイモンが仲間に呼びかける。そのとき「俺の目を見ろ」とはじめる。すごいなあ。そのとき、もちろんマット・デイモンはマット・デイモンで、きちんとしたことを言う。仲間を鼓舞することばを発する。けれど、ことばはどうでもいいのだ。ことばの前に、「目」で伝える。「目」で伝達し合う。きっと仲間たちは、この勝利を思い出して語るとき、この円陣のことを語る。マット・デイモンが何を言ったかを語る。そして、そのとき真っ先に「俺の目を見ろ、とマット・デイモンは言った」というに違いない。あとのことばはいろいろ違ってくるかもしれないが、「俺の目を見ろ」だけは、だれもが間違えずに思い出すことができるはずだ。そして、そのときのマット・デイモンの目そのものを思い出す。
あ、とってもいい顔というか、いい目をしていたねえ。「俺の目を見ろ」と言ったときのマット・デイモン。透明で、いま、ここにあるもの、つまり、仲間の顔を見ているのではなく(もちろん、しっかり仲間の顔を見ているのだけれど)、仲間の顔を見ることで、その向こう側を見ている。「勝つ」ことをめざしているんだけれど、「勝つ」を超越したものを見て、「ほら、これが見えるかい」と仲間に語りかけている。疲れ切って、余力の残らない仲間の顔ではなく、まだ何にも汚れていないもの、疲れていない美しいものを見ている。とてもいい目だ。(この目の一瞬の輝きだけで、マット・デイモンにアカデミー賞をやりたいねえ。)
そして、この目が、その見つめているものが、スタジアムの観衆全員が見つめるもの、南アフリカの国民全員が見つめるものへつながっていく。「結論」はわかっているけれど、その「結論」は、このマット・デイモンの澄みきった目によって、浄化されてスクリーンに広がる。どきどきしますねえ。はらはらしますねえ。夢が、理想が実現するときって、こんなにどきどきするもんなんだねえ。
ひととひとが話すとき、相手を見る、目を見る--というのは当然なのだけれど、何かをなし遂げるとき、ひとは目を通して、相手ではなく、ほかのものを見つめてしまう。だから……。ほら、優勝が決まった瞬間、白人がアフリカンに抱きつく、アフリカンの少年を白人の警官が抱き上げる。いままで見ていた「顔(顔の色)」ではなく、ひとりひとりの目が、いま、目の前にあらわれた美しいものしか見ていない。その美しいものから、「融和」がはじまる。
涙が出るくらいに美しい。
そして、この映画は、そういう美しい映像をスクリーンに広げながら、冷静に、「でも、ことばも忘れないでくださいよ」とつけくわえる。マンデラを支えつづけたことばが、最後の最後の瞬間に、もう一度反復される。美しい目は、強いことばによって支えられていると告げる。それは、だれもが、人間ひとりひとりが、それぞれに「強いことば」をもたなければならないといっているようでもある。誰かに期待するのではなく、私の魂を私が育てなければならないのだから。
*
マット・デイモンの目について書いたが、ほかにも印象的な映像はたくさんある。モーガン・フリーマンは、ひとなつっこく、あたたかな表情を維持しつづけるが、一瞬だけさびしい顔になる。家族との関係がうまくいかないとき、ふっとさびしげな顔になる。個人的な世界の対立・孤立を内部に抱えながら、国全体の宥和を夢見たマンデラ。その、きわめて個人的な一瞬の顔。それが忘れられない。
また、マット・デイモンたちが子供たちにラグビーを教えはじめるシーンも実にいい。ぎごちなかった関係がラグビーボールをもつことでひとつにつながっていく。それが、とても楽しい感じで広がる。そして、それがそのままラグビーの試合そのものの興奮につながっていく。子供たちにラグビーを教える、というシーンから、映画が、ことばではなく、映像、人の動きそのものの作品に変化していく。--この自然な、ことばから映像への切り替えがすばらしい。
試合終了直前の、選手の顔、電光掲示板の時計。その文字。あ、文字にさえも表情がある。顔がある、という感じ。びっくりしますねえ。破裂寸前の選手の鼓動のどくんどくんという音と、スローモーションのリズム、デジタル時計の文字。これがアナログ時計だったら、緊迫感が違ってくるよなあ。
クリント・イーストウッドの作品は、今回も、完璧。「アバター」で汚れた目を、この作品で洗い直そう。
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