詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クリント・イーストウッド監督「インビクタス/負けざる者たち」(★★★★★)

2010-02-05 19:25:27 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 モーガン・フリーマン、マット・デイモン

 これはとても不思議な映画である。結末がわかっている。それなのに、まるではじめてみる結末のように引き込まれ、感動してしまう。なぜだろう。新しい手法が取り入れられているわけではない。むしろ、古い。特に、前半が、あ、これはどうしたものだろう……と思うくらい、古い。古くさい。なんといっても台詞が多い。映像ではなく、ことばで見せる映画である。
 私はことばが多い映画は好きではない。ことばがなくてもわかるのが映画というものだ。この映画は、私の定義からは外れる。落第の映画である。マンデラのことばがどんなに魅力的で、説得力があったとしても、ことばを映画で伝えるというのは間違っていると思う。ことばを伝えるためには本がある。映画は本を超えるべきである。
 --などということは、うーん。忘れてしまいますねえ。マンデラの高尚な「理想」を語ることばの数々。それは、忘れてしまいますねえ。映画だからねえ。特に、私のように、映画にことばはいらない、と考えている人間は、ことばなど、最初から無視している部分があるので、よけいそういう感じになるのかもしれないけれど。
 で、何が残るか。
 モーガン・フリーマンの表情。ひょうひょうとしている。理想、真理を語るというより、何でもないことを語る感じなのだ。途中にマット・デイモンを呼び、お茶をのむシーンがあるが、「お茶はどんなふうにしてのむ?」と聞くときの表情と、そんなに差がないのだ。理想を語る、理想で国民をひっぱっていくというときの表情に「強引さ」がない。国民をリードしなければならないという「悲壮感」がない。かわりに「あたたかさ」がある。他人に対して「命令」するのではなく、助けを求める。私にはあなたが必要だと、自分を控えめに差し出し、相手が近づいてくるのを待って、それを受け入れる。そのときの、「あたたかい」表情が残る。ことばは付け足しである。
 立派なことば、高尚な理想のことばがどんなに矢継ぎ早に口にするときも、そのときの顔は「高尚な理想を語っているんだ」という顔ではない。私にはあなたが必要だ、と助けを求める顔であり、ひとを受け入れ、抱き締める顔なのだ。
 あ、そうか。ひとは他人とあって話すとき、ことばを聞くのではなく「顔」を見るんだ。あたりまえのことだが、そんなことを思い出した。
 そして、そのこと--ひとと話すとき、ひとはことばではなく、顔を見ている、顔が他人を説得する、ということは、クライマックスでマット・デイモンに引き継がれていく。最後の最後のスクラム円陣。マット・デイモンが仲間に呼びかける。そのとき「俺の目を見ろ」とはじめる。すごいなあ。そのとき、もちろんマット・デイモンはマット・デイモンで、きちんとしたことを言う。仲間を鼓舞することばを発する。けれど、ことばはどうでもいいのだ。ことばの前に、「目」で伝える。「目」で伝達し合う。きっと仲間たちは、この勝利を思い出して語るとき、この円陣のことを語る。マット・デイモンが何を言ったかを語る。そして、そのとき真っ先に「俺の目を見ろ、とマット・デイモンは言った」というに違いない。あとのことばはいろいろ違ってくるかもしれないが、「俺の目を見ろ」だけは、だれもが間違えずに思い出すことができるはずだ。そして、そのときのマット・デイモンの目そのものを思い出す。
 あ、とってもいい顔というか、いい目をしていたねえ。「俺の目を見ろ」と言ったときのマット・デイモン。透明で、いま、ここにあるもの、つまり、仲間の顔を見ているのではなく(もちろん、しっかり仲間の顔を見ているのだけれど)、仲間の顔を見ることで、その向こう側を見ている。「勝つ」ことをめざしているんだけれど、「勝つ」を超越したものを見て、「ほら、これが見えるかい」と仲間に語りかけている。疲れ切って、余力の残らない仲間の顔ではなく、まだ何にも汚れていないもの、疲れていない美しいものを見ている。とてもいい目だ。(この目の一瞬の輝きだけで、マット・デイモンにアカデミー賞をやりたいねえ。)
 そして、この目が、その見つめているものが、スタジアムの観衆全員が見つめるもの、南アフリカの国民全員が見つめるものへつながっていく。「結論」はわかっているけれど、その「結論」は、このマット・デイモンの澄みきった目によって、浄化されてスクリーンに広がる。どきどきしますねえ。はらはらしますねえ。夢が、理想が実現するときって、こんなにどきどきするもんなんだねえ。
 ひととひとが話すとき、相手を見る、目を見る--というのは当然なのだけれど、何かをなし遂げるとき、ひとは目を通して、相手ではなく、ほかのものを見つめてしまう。だから……。ほら、優勝が決まった瞬間、白人がアフリカンに抱きつく、アフリカンの少年を白人の警官が抱き上げる。いままで見ていた「顔(顔の色)」ではなく、ひとりひとりの目が、いま、目の前にあらわれた美しいものしか見ていない。その美しいものから、「融和」がはじまる。
 涙が出るくらいに美しい。

 そして、この映画は、そういう美しい映像をスクリーンに広げながら、冷静に、「でも、ことばも忘れないでくださいよ」とつけくわえる。マンデラを支えつづけたことばが、最後の最後の瞬間に、もう一度反復される。美しい目は、強いことばによって支えられていると告げる。それは、だれもが、人間ひとりひとりが、それぞれに「強いことば」をもたなければならないといっているようでもある。誰かに期待するのではなく、私の魂を私が育てなければならないのだから。



 マット・デイモンの目について書いたが、ほかにも印象的な映像はたくさんある。モーガン・フリーマンは、ひとなつっこく、あたたかな表情を維持しつづけるが、一瞬だけさびしい顔になる。家族との関係がうまくいかないとき、ふっとさびしげな顔になる。個人的な世界の対立・孤立を内部に抱えながら、国全体の宥和を夢見たマンデラ。その、きわめて個人的な一瞬の顔。それが忘れられない。
 また、マット・デイモンたちが子供たちにラグビーを教えはじめるシーンも実にいい。ぎごちなかった関係がラグビーボールをもつことでひとつにつながっていく。それが、とても楽しい感じで広がる。そして、それがそのままラグビーの試合そのものの興奮につながっていく。子供たちにラグビーを教える、というシーンから、映画が、ことばではなく、映像、人の動きそのものの作品に変化していく。--この自然な、ことばから映像への切り替えがすばらしい。
 試合終了直前の、選手の顔、電光掲示板の時計。その文字。あ、文字にさえも表情がある。顔がある、という感じ。びっくりしますねえ。破裂寸前の選手の鼓動のどくんどくんという音と、スローモーションのリズム、デジタル時計の文字。これがアナログ時計だったら、緊迫感が違ってくるよなあ。

 クリント・イーストウッドの作品は、今回も、完璧。「アバター」で汚れた目を、この作品で洗い直そう。



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誰も書かなかった西脇順三郎(102 )

2010-02-05 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「燈台へ行く道」を読むと、なんとなくヴァージニア・ウルフを思い出す。タイトルの影響かもしれない。あるいは、ことばの運動というか、動きが、いわゆる「意識の流れ」のように思えるからかもしれない。
 次の部分が、とても好きだ。

岩山をつきぬけたトンネルの道へはいる前
「とらべ」という木が枝を崖からたらしていたのを
実のついた小枝の先を折つて
そのみどり色の梅のような固い実を割つてみた
ペルシャのじゅうたんのように赤い
種子(たね)がたくさん、心(しん)のところにひそんでいた
暗いところに幸福に住んでいた
かわいい生命をおどろかしたことは
たいへん気の毒に思つた
そんなさびしい自然の秘密をあばくものでない
その暗いところにいつまでも
かくれていたかつたのだろう

 「気の毒」。そして「さびしい」。あ、このことばは、こんなふうにして使うのか、と、こころがふるえる。 
 そのふたつのことばは「生命」とふかく結びついている。「生命」はいつでも「さびしい」。「さびしい」まま生きている。そこに美しさがあるのだから、それをあばいたりしてはいけないのだ。
 --ここには、西脇の、とても独特な「音楽」がある。
 それは、私がいままで何度か書いてきた「音」そのものの「音楽」とは別のものである。
 「音」のない「音楽」。沈黙の「音楽」。ことばにしてはいけない「音楽」。
 西脇は、ときどき、ことばにしてはいけないことをことばにしてしまう。
 それは武満徹が沈黙を音楽にしたのと似ているかもしれない。

 意識の流れ--と書いたが、あ、これは、ことばを捨てる動きなのだと思う。ことばを捨てるとき、そのことばの奥に隠れているものが、「とらべ」の固い実のなかの種のように姿をあらわす。
 ことばには、そういう動きもある。




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伊藤悠子「海のエジプト展」ほか

2010-02-05 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「海のエジプト展」ほか(「ふらんす堂通信」123 、2010年01月25日発行)

 「海のエジプト展」で見たこどもの石像のことを書いている。たんたんと書いているのだが、自然と引き込まれる。

千年有余
海は
我知らず
あやしていたのかもしれない
母から離れた幼子を
石像の一部であった幼子を
幼子は
海水に浸され点ほどの浅い窪みとなった眼窩で
母にうなずいていた
隆起の薄れた口の端で
乳をもらう満足を伝えていた
千年有余
海は
石像を石に戻しはしなかった
幼子はもうイシスの子ハルポクラテスではなく
共通の面影
ただの幼子になり
時をたがえて見つかった母に抱かれていた

 「海の中に母がいる」という詩句を思い出してしまうが、イシスの子ハルポクラテスの石像にとって、海はたしかに母だったのかもしれない。海と母は区別がないかもしれない。そして、そのとき、伊藤もまた海であり、母である。

海は
石像を石に戻しはしなかった

 「主語」は「海」である。学校教科書の文法上は、「海」が「主語」である。けれど、この詩を読んだ瞬間、その「海」は伊藤そのものである。
 海水に浸食され、最初の形からは遠くなった石像。かすかに残る目。唇。それをしっかりみきわめ、そこから母にうなずくしぐさ、乳を飲んで満足している表情をしっかりと読みとる伊藤の「肉眼」が、その「石」を単なる石から「石像」にひきもどす、奪い返すのである。
 そして、奪い返したとき、その石像はイシスの子ハルポクラテスは、イシスの子ハルポクラテスではなくなる。「共通の面影/ただの幼子」と伊藤は書いているが、これは正確には「私の、たったひとりの幼子」である。あらゆる母にとって、たったひとりの愛しい幼子である。
 展示されている「石」が「いし」から「石像」にひきもどされるとき、「石像」へと奪い返すとき、そのとき伊藤は(そして、すべての女性は)、単なる「おんな」ではなく「母」になるのだ。

 ここに描かれているのは、「石」(石像)の変化ではなく、「おんな」が「母」になるという「肉体」の運動である。
 
 「海という文字の中に母がいる」というのは、たぶん男の発想である。千年有余の海のなかで、女は「母」になる。「母」となって、いとしい幼子を抱いて誕生する。



 「トウカエデ」という詩の中にも忘れがたい行がある。

空が暮れかかるとき
街路に木の葉が一枚立っていた

 一本の木ではなく、一枚の葉。それは錯覚なのだが、その錯覚のなかに、一本の木よりも深い孤独がある。

空が暮れかかるとき
街路に木の葉が一枚立っていた
その整えられた樹形と 残照の加減で
一枚のトウカエデの葉にみえた
赤い葉も 橙色の葉も 黄色い葉も
大きな一枚の細やかな部分であった
ただ一枚すっと立っている
車は水のように流れていく
人は犬に引かれていく
木の葉だけが止まっている
木の葉と私だけが止まっている
ずうっと見つめ続けていればよかったが
ふと目をやると
ようとして
街路樹の連なりに組み込まれていた
トウカエデはさびしい私と遊んでくれたようだ
夜が来る前のいっとき

 「木の葉と私だけが止まっている」--この一体感は、「海」のなかで「母」として生まれ変わる瞬間に似ている。「私」が「私以外のもの」に「なる」。そのとき、「私」の「過去」というか「肉体」の奥に生きている「いのち」がよみがえる。
 一枚のトウカエデ。それは一枚でっあて、一枚ではない。一枚にみえるけれど、ほんとうは一本の木。いくつもの枝がひろがり、幾枚もの葉が茂っている。それぞれが違う色をしている。けれど、そのすべてが「一枚」にすりかわる。一枚と一本が入れ替わる--入れ替わることで「一体」になる。
 この動きは、「海」と「母」が「一体」になる、入れ替わる、新しく誕生するという動きと同じものである。

 この詩に書かれているのは「さびしい私」、孤独というものだが、それはセンチメンタルではない。新しく誕生するという動きがあるから、美しい。





詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂

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