詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

サム・ペキンパー監督「ワイルドバンチ」(★★★★)

2010-02-28 21:47:04 | 午前十時の映画祭

監督 サム・ペキンパー 出演 ウィリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアン

 サム・ペキンパーの描写の特徴は、バイオレンスをスローモーションで描いたことだ。普通は見えないものを見えるようにする。普通見えないものが見えると、それが美しく見える。ペキンパーの暴力は美しい。
 それは、肉体の発見と言っていいかもしれない。
 暴力はその荒々しさのために多くのものを見えなくする。暴力は肉体に対して振るわれるが、その暴力を受けた肉体がどんな風に動くかということは意外と知られていない。「痛み」は誰もが知っているが、その痛みを感じる瞬間の肉体の動きを知っている人は少ない。
 スローモーションで明らかになった肉体の動き、それを見るとき、あ、人間は死んでゆくときも動くのだとわかる。その発見は、悲しい。その破壊は、だからこそ美しい。
 そしてそれが、肉体に疲れが出てきた男たちをとおして描かれるとき、そこにさびしさも漂う。あるいは、それは疲れ切った肉体の表現できる最後の美しさなのかもしれない。破壊され、破滅していくとき、あふれでる肉体のもっているものの蓄積。
 主役のウィリアム・ホールデンは左足に古傷をかかえているが、そういう傷をもった肉体もまた滅びるとき、破壊されるとき、古傷の存在を超越して、「いのち」として噴出してくる。
 同じ犯罪者の破滅でも、「明日に向かって撃て」「俺たちに明日はない」の若い肉体の死は、華麗で、かっこいい。「あたたかい」ではなく「さわやか」。逆に、もっと高齢の2人の犯罪を描いた「人生に乾杯!」では、それが年金受給者という高齢ゆえに、またかっこいい。そして潔い。
 「ワイルドバンチ」はその中間にあって、ともかく無様である。
 無様であること、敗北を承知で、それでも無様に肉体をさらして踏ん張ること。そういう生き方への郷愁に満ちた映画。その郷愁を引き出すための、スローモーション・バイオレンスだったんだなあ、と今思う。
 だから、その血の描き方にしろ、それは「迫真」のものではない。「血」はあくまで、つくりものであることがわかる。(当時の技術はそれまでだったのかもしれないが……。)血よりも、血を吹き出す「肉体」、まだ温みのある肉体の悲しさを感じさせるためのものだったのだと、今見えかえしてみて、そう感じる。

 肉体というものが、なつかしく、なつかしく、ただひたすらなつかしく感じられる映画である



 それにしても、映画の暴力描写、スピード感はずいぶん違ってしまったものだ。いまはもう、ペキンパーの描いたような暴力の郷愁は存在しない。
 映画のスローモーションのつかい方、肉体の表現の仕方は、ずいぶん変わってしまった。
 「マトリックス」でキアヌ・リーブスが弾丸を身を反らして避けるシーンがあるが、このスローモーションが「ワイルドバンチ」が違う点は、「マトリックス」のそれが可能性としての肉体である点だ。「マトリックス」のスローモーションは、あくまでスピードを見せるものである。ほんとうは速くて見えない。だから、ゆっくり再現しなおして、それを見えるようにする。ゆっくりであればあるほど、それは速さの証明なのだ。「ワイルドバンチ」は、速さを認識させるためにスローモーションをつかっていたわけではない。
 また、カットの切り替えにしても、ペキンパーは、いまから思えばカットが少ない。アップのつかい方が、ペキンパーの場合は、あるシーンをはっきり見せるためにつかう。けれど、いまは、そのシーンを見せるということよりも、そのシーンに視覚を集中させることで他の部分を強烈に印象づけたり、逆に省略するという方に力点が置かれているように思う。「ボーンアルティメイタム」のアップ、カットの切り替えは、映し出しているものを見せるというより、それを「見ている」視線の主体、ありかを強く感じさせ、画面を映し出されているカットより広い空間に広げていく。アップの瞬間こそ、「もの」が映し出されるのではなく、その「もの」が存在する空間の複雑性が浮かび上がるように作られている。
 逆の言い方をしよう。たとえば、ウィリアム・ホールデンとアーネスト・ボーグナインは銃弾を浴びて血まみれである。そのアップは、あくまで「肉体」のアップである。けれど、「ボーン・アルティメイタム」のさまざまなアップは、その「肉体」を見るというよりも、その「肉体」がある空間の複雑性を印象づける。あるときは見え、あるときは見えない駅の雑踏。その空間をくっきりと浮かび上がらせる。ウィリアム・ホールデンとアーネスト・ボーグナインの血まみれを見ても、戦いの現場の広さ、地形のあれこれは見えて来ない。
 映像のつかい方がまったく違ってきているのだ。


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富山直子『マンモスの窓』

2010-02-28 00:00:00 | 詩集
富山直子『マンモスの窓』(水仁社、2010年02月13日発行)

 富山直子『マンモスの窓』は、見えそうで見えない風景、見えないようで見えてしまう風景をすばやくスケッチしている。
 たとえば「散歩売り」。

街角にリンゴ飴の露店が出ている
その後ろからコツコツと歩いて来る人がいる
彼は散歩売りだ
広場にはあまり人けはない
男はブランコに三回だけ乗って
一つ一つの広場に抜けていく
散歩を売りに来た合図だ
広場から広場へ隈無く歩く
桜の咲く広場やいちょうが散る広場
雪の中を歩く次は蝉時雨の中にいる
けん玉とニンテンドーDSを携えているが
本当は子供たちと相撲を取りたいと思っているいらい
めまぐるしく変化する年齢の中にいる
結局子供たちと一言も話せずに夕方が来て
自分の散歩を売ってしまった
自分の夢さえ売ってしまいたかった
それが散歩売りだ
そして男がいなくなると
リンゴ飴の露店のリンゴ飴一つが
消えていた

 ただ歩いている人。その人は何をしているのか。散歩しているのか。富山は、その人を「散歩売り」と名づけてみた。「散歩を売る」とはどういうことだろう。何もわからないけれど、ふと、そう思ったので、そう書いて、そのあとことばがどう動くかをおいかけてみた。
 富山は「あとがき」に「この詩集は物語を意識してつくりました。」と書いている。
 ストーリー。ことばの運動にしたがって、何かが起きる。そして、登場人物がかわっていく--それが「物語」だろうか。
 富山が「物語」をどんなふうにとらえているのか、よくわからないが、富山のことばには「何かが起きる」というほどのことは起きていない。
 この作品では、男が「子供たちと相撲を取りたい」と思いながら歩いているが、何が起きたか。「リンゴ飴が一つ/消えていた」ということが起きるだけである。男が、どんなふうに変わったのかも、明確には語られていない。
 それでも、それが「物語」だとすると……。
 何かが「起きる」、そしてその結果、登場人物が「かわる」(成長する)というのが「物語」なのではなく、ただ「もの」を「語る」ということが、「物語」かもしれない。なんでもいい。なにかを語る。それも「ほんとうのこと」ではなく、ことばでしか語りえないことを「語る」。
 「語る」はしたがって「騙る」でもある。「嘘」をつく。「散歩売り」というものは存在しない。けれども、存在する、と嘘をつく。嘘の世界へ人を誘う。
 そのとき、何が起きるだろう。読んでいる人間にとって、何が起きるだろう。
 「嘘」とわかっているけれど、その「嘘」を追いかけたいという気持ちが起きる。「いま」「ここ」にあるものではないものが、ことばのなかではありうる。人は、「いま」「ここ」とは関係ないことを、ことばで追いかけることができる。
 富山は「あとがき」で、「基本的には、日常がその(物語の)窓口になっています。」とも書いている。「嘘」は最初から全部「嘘」なのではない。「日常」の「ほんとう」を含んでいる。「日常」から出発する。「事実」から入って、「嘘」をつみかさねることが人間にはできる。
 なぜ、そんなことをするのだろう。人間は、なぜ不必要なことをするのだろう。
 もしかすると、それは不必要なことではなく、必要なことなのではないだろうか。「いま」「ここ」から出発して、「ほんとう」ではなく、「嘘」をつく。それは人間にとって欠かせないことではないのだろうか。
 「嘘」は「いま」「ここ」の否定である。「いま」「ここ」にないことをいう。それは「いま」「ここ」を認識していないとできない。「いま」「ここ」を認識して、なおかつ、その「いま」「ここ」とは違うことを言う。
 それは、批判、ということと似通っている。
 「語る」が「騙る」と同じ音のなかに同居するが、「嘘」と「批判」は「いま」「ここ」への批判という内容のなかで同居する。そしてそれは、ともにことばである。
 こんなことを書いていくと、ちょっと富山の書いていることと違ってきてしまうのだが、「物語る」ということのなかには、なにかしら「いま」「ここ」では実現されていない「真実」をことばで先取りするというような「本能」が生きている。「物語」のなかで、富山は、そういう人間の「本能」(欲望)を取り戻そうとしているのかもしれない。
 実際、その「嘘」からは、とても美しい「本能」が噴出して来ることがある。人間の、いのちが、「物語」突き破って、現れて来ることがある。
 「噴水」。その全行。

噴水の近くに座って
マンガを読む少年
登場人物はつらいシーンで
涙をこらえている
少年の方は一足早く泣いている
三十ページ位ひと息で読んだ
太陽に目を向けた
頬に細やかな水しぶきが当たっている
コインを一枚、置いていこう

 マンガの登場人物は涙をこらえている。けれど、それを読む少年は、彼がマンガの主人公ではないのに泣きはじめている。「嘘」に誘われて、少年の「本能」が泣いている。つらいときには泣く、いや、つらくても泣かないのが人間だ--考えて我慢している主人公の気持ちがわかって、代わりに泣いてしまう。
 他人に共感するということは、他人のあとを追いかけることではなく、他人に先回りして、自分が他人になってしまうことだ。
 自分が他人になってしまうなんて、そんなことはありえない、そんなことは「嘘」だ。そうなのだ。「嘘」なのだ。そして「嘘」だからこそ、真実なのだ。この矛盾。それはことばでしかつたえることのできない真実という名の矛盾だ。

 さりげないけれど、美しい。富山は、大事なことを書いているのだが、大事なことを書いていると声高に言わない。書くという行為に溺れてしまわない。余裕をもって、ことばとつきあっている。
 本気で「嘘」をつくのではなく、「これは嘘なんだから」と先に言っておいて、でも、「こういうふうに嘘を語れるって、楽しいでしょ。こういう嘘って楽しいでしょ」とささやく。
 たしかにそれは楽しい。そして、とても美しい。

みたわたす
富山 直子
詩学社

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