「修辞学」という詩がある。「修辞学」とは何か--を定義しているのだろうか。たしかに、そんなふうに読むことはできる。その書き出しが、私は好きである。ここに西脇の「修辞学」に関する「哲学」が書かれていると思う。
足のヒョロ長い動物でないのである。
詩を定義して、かけ離れたものの突然の出会い、ということがある。西脇のこの1行は、その定義をそのまま生かしている。
西脇の場合の、「かけ離れたもの」は「ない」と「ある」。「ない」と「ある」はまったく別の概念である。それがこの1行において出会っている。「足のヒョロ長い動物」は重要ではない。それは「もの」ですらないかもしれない。西脇にとっては「もの」とは「概念」である。この詩では「概念」を「もの」として扱っているのである。「ない」と「ある」が出会ったとき、どうなるのか。「ない」ということが「ある」ということは、どういうことなのか。
考えると、ややこしい。面倒くさい。
このややこしく、面倒くさいことが書かれている1行が、しかし、ほんとうにややこしく面倒くさいかといえば、そうでもない。そんなことを感じ、考えるよりも、何か別なのもに突き動かされる。
「であいのである」。「でない/のである」というのが、たぶん学校教科書の文法分析になると思うけれど、私には「でない/の/である」という具合に見える。「の」が「である」と「でない」を固く結びつけている。
「の」は不思議な粘着力を持っている。なんでも結びつけることができる。かけ離れたものを突然結びつけたものが詩ならば、その結びつけを可能にする「の」、その粘着力こそ詩だということになる。
あ、でも、何かが違うなあ。
私が感じるのは、そんなややこしいこと、面倒くさいことではない。
足のヒョロ長い動物でないのである。
この書き出しの1行を読んだとき、私は「ではないのである」の真ん中にある「の」に「肉体」が反応してしまう。この「の」がおもしろい、と感じてしまう。そしてそれは、先に書いたような、かけ離れたものの出会い、結合、その力--ということとは、あまり関係がない。
この「の」は、それより先に「足の長い動物」ということばのなかにも登場している。それが響きあっている。その響きあいがおもしろいと感じるのだ。
この「の」は隠れた部分で「長い」にも影響している。この1行が「足の短い動物でないのである」ではおもしろくない。音が響きあわない。「足のヒョロりと細い動物でないのである」もだめ。「ヒョロ長い」(ながい)の「な行」の存在が、この1行をすばやく読ませている。(ついでながら、「ながい」は鼻濁音で読むとさらにスピード感が増す。
この1行には、ほかの「音」も響きあっている。そして「音楽」をつくっている。「動物(どうぶつ)」「で」「で」という「だ行」。「ヒョロ長い」というだらりとのびた音の響き、リズムが「でないのである」の「ひょろながい」音楽にそのままつながっている。
ことばは「意味」を伝達するけれど、「意味」にはならない「音楽」もつたえる。あるいは、生み出すといえばいいのだろうか。
西脇はこの詩で、かけはなれたものをいろいろ結びつけ、概念に刺戟を与えているが、その「意味」だけではなく、西脇は、緩急自在に「音楽」を生み出していく。1行目の音楽は、すぐに別の「音」そのものをひっぱりだす導入部にもなっている。
乾酪の中から肩を裸に出している一つの貴婦人はアランポエポエネエポエとす。
翻訳調のごつごつした文章。特に「肩を裸に出している」「一つの貴婦人」が荒っぽい。「ひとつの」は不定冠詞をわざわざ日本語にしたものだけれど、そういうときだって、ふつうは「ひとりの」と書くべきところを、西脇は、わざと「一つの」と書いている。ことばを、わざとそんなふうに荒々しくさせておいて、
アランポエポエネエポエ
この音は「エドガー・ランポー」を思い起こさせるが、そういう「意識」をかきまぜながら、「アランポエポエネエポエ」と「無意味」な音にしてしまう。西脇は、「意味」ではなく、最初から「音楽」を書こうとしているだけなのだ。
--こう書いてしまうと、私が最初に書いた「西脇は概念をものとしてあつかっている」ということからずれてしまった印象を与えるかもしれない。
いや、印象だけではなく、じっさいにずれてしまっているのかもしれないけれど。
「概念」を「もの」としてあつかうことで、「概念」を「無意味」にする。さらに、その運動を「意味」で固定するのではなく、「音楽」でどこかへ逃がしてやる--そういうことを西脇はしているのではないだろうか。
そう思った。
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