詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(110 )

2010-02-18 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「修辞学」という詩がある。「修辞学」とは何か--を定義しているのだろうか。たしかに、そんなふうに読むことはできる。その書き出しが、私は好きである。ここに西脇の「修辞学」に関する「哲学」が書かれていると思う。

足のヒョロ長い動物でないのである。

 詩を定義して、かけ離れたものの突然の出会い、ということがある。西脇のこの1行は、その定義をそのまま生かしている。
 西脇の場合の、「かけ離れたもの」は「ない」と「ある」。「ない」と「ある」はまったく別の概念である。それがこの1行において出会っている。「足のヒョロ長い動物」は重要ではない。それは「もの」ですらないかもしれない。西脇にとっては「もの」とは「概念」である。この詩では「概念」を「もの」として扱っているのである。「ない」と「ある」が出会ったとき、どうなるのか。「ない」ということが「ある」ということは、どういうことなのか。
 考えると、ややこしい。面倒くさい。
 このややこしく、面倒くさいことが書かれている1行が、しかし、ほんとうにややこしく面倒くさいかといえば、そうでもない。そんなことを感じ、考えるよりも、何か別なのもに突き動かされる。
 「であいのである」。「でない/のである」というのが、たぶん学校教科書の文法分析になると思うけれど、私には「でない/の/である」という具合に見える。「の」が「である」と「でない」を固く結びつけている。
 「の」は不思議な粘着力を持っている。なんでも結びつけることができる。かけ離れたものを突然結びつけたものが詩ならば、その結びつけを可能にする「の」、その粘着力こそ詩だということになる。
 あ、でも、何かが違うなあ。
 私が感じるのは、そんなややこしいこと、面倒くさいことではない。

足のヒョロ長い動物でないのである。

 この書き出しの1行を読んだとき、私は「ではないのである」の真ん中にある「の」に「肉体」が反応してしまう。この「の」がおもしろい、と感じてしまう。そしてそれは、先に書いたような、かけ離れたものの出会い、結合、その力--ということとは、あまり関係がない。
 この「の」は、それより先に「足の長い動物」ということばのなかにも登場している。それが響きあっている。その響きあいがおもしろいと感じるのだ。
 この「の」は隠れた部分で「長い」にも影響している。この1行が「足の短い動物でないのである」ではおもしろくない。音が響きあわない。「足のヒョロりと細い動物でないのである」もだめ。「ヒョロ長い」(ながい)の「な行」の存在が、この1行をすばやく読ませている。(ついでながら、「ながい」は鼻濁音で読むとさらにスピード感が増す。
 この1行には、ほかの「音」も響きあっている。そして「音楽」をつくっている。「動物(どうぶつ)」「で」「で」という「だ行」。「ヒョロ長い」というだらりとのびた音の響き、リズムが「でないのである」の「ひょろながい」音楽にそのままつながっている。

 ことばは「意味」を伝達するけれど、「意味」にはならない「音楽」もつたえる。あるいは、生み出すといえばいいのだろうか。
 西脇はこの詩で、かけはなれたものをいろいろ結びつけ、概念に刺戟を与えているが、その「意味」だけではなく、西脇は、緩急自在に「音楽」を生み出していく。1行目の音楽は、すぐに別の「音」そのものをひっぱりだす導入部にもなっている。

乾酪の中から肩を裸に出している一つの貴婦人はアランポエポエネエポエとす。

 翻訳調のごつごつした文章。特に「肩を裸に出している」「一つの貴婦人」が荒っぽい。「ひとつの」は不定冠詞をわざわざ日本語にしたものだけれど、そういうときだって、ふつうは「ひとりの」と書くべきところを、西脇は、わざと「一つの」と書いている。ことばを、わざとそんなふうに荒々しくさせておいて、

アランポエポエネエポエ

 この音は「エドガー・ランポー」を思い起こさせるが、そういう「意識」をかきまぜながら、「アランポエポエネエポエ」と「無意味」な音にしてしまう。西脇は、「意味」ではなく、最初から「音楽」を書こうとしているだけなのだ。

 --こう書いてしまうと、私が最初に書いた「西脇は概念をものとしてあつかっている」ということからずれてしまった印象を与えるかもしれない。
 いや、印象だけではなく、じっさいにずれてしまっているのかもしれないけれど。
 「概念」を「もの」としてあつかうことで、「概念」を「無意味」にする。さらに、その運動を「意味」で固定するのではなく、「音楽」でどこかへ逃がしてやる--そういうことを西脇はしているのではないだろうか。
 そう思った。



西脇順三郎全詩引喩集成
新倉 俊一
筑摩書房

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松川紀代『異文化の夜』

2010-02-18 00:00:00 | 詩集
松川紀代『異文化の夜』(書肆山田、2010年01月30日発行)

 松川紀代『異文化の夜』に「深更」という詩がある。松川紀代という詩人を私は知らないが(たぶん、はじめて読むのだと思うが)、突然、この詩人が好きになってしまった。短い詩なので、全行引用する。

具合がわるくなって
私は自分の部屋で眠っていた

時間がたって
部屋は真っ暗(のつもり)

扉という扉が全開で
二階の踊り場も こうこうとしていた

同じ階下で 誰かがジャズを聞いていた
食器の音 椅子をずらす音

なんだか知らないけれど
マリアが窓を開けた

娘や息子も 真昼のように談笑している
横向いて こころ空っぽにして 薬包をさがす

 2連目の(のつもり)がいいなあ。部屋は真っ暗ではない。けれど、そのつもりになってみる。そして、「真っ暗」ということばの方へことばを動かしていこうとする。すると、逆に、ことばは「真っ暗」ではなく、「明るい光」を集めてきてしまう。
 ことばと「現実」が「ずれ」てしまって、そこに不思議な「肉体」があらわれてくる。

扉という扉が全開で
二階の踊り場も こうこうとしていた

同じ階下で 誰かがジャズを聞いていた
食器の音 椅子をずらす音

 これは、「私」が「部屋」のベッド(たぶん)にいて、めざめて、それから想像した「世界」の風景である。想像したといっても、「空想」ではなく、「いま」「ここ」と触れ合う「肉体」が集めてきたものが、こういうことばになっているのだ。
 実際に「二階の踊り場」を見てきたわけではない。けれど、部屋のなかに入ってくる光から、そう「想像」している。階下から聞こえてくる音を聞き、「想像」する。その「想像」がことばになって動いていく。
 この、ことばの動き、それが描き出すもの--それは、やはり(のつもり)というものに含まれてしまう。
 「部屋が真っ暗」というのが「のつもり」なら、「扉という扉が全開で/二階の踊り場も こうこうとしていた」というのも「のつもり」であってもいいのだ。「のつもり」ということばが、松川と世界をつないでいく。「のつもり」のなかに松川がいる。
 いいなあ、この正直さ。
 あらゆることは、ことばにすることで、はっきりと存在しはじめる。けれど、その「はっきり」が実はほんとうではなく、ことばで描いただけの「のつもり」だとしたら?

 実際、わかっていることなど、なにもない。何があって、何がないか、もし何かがあるとして、それはなぜあるのか、どのようにして「ある」という状態をたもっているのか--なにもわからない。すべて「のつもり」でいるだけなのである。
 と、いってしまうこともできるかもしれない。

 もし、そうであるなら、そのとき、「私」の「のつもり」のほかに、「他人」の「のつもり」がからみあったら? 何が起きる? 何が「ある」ということになる?

なんだか知らないけれど
マリアが窓を開けた

 ほら、「なんだか知らないもの」が、ふいにあらわれてくる。それも、もしかしたら「のつもり」かも……。
 こういうとき、自分の「肉体」が深々としてくる。わけのわからないものが「肉体」の奥に沈んでいることがわかる。--これ、なんというのだろう。きっと「悟り」とか「覚醒」とかとはまったく逆の状態だな。すべてが未分化、未分節。こんとん。そこから、なにかがあらわれてくるのを待つしかない。
 「私」は、いま、「未生」の状態。(のつもり)

 これは、ちょっとことばにならない。(のつもり)ということぐらいしかできない。そのことばにならないものを、ことばにならないまま、(のつもり)の状態で書き記すことのできる「正直さ」--これが、私は好きだ。

 「深い亀裂」という作品も大好きだ。病院へ祖母を見舞いに行く。幼い息子が病院の階段をどこまでもどこまでものぼっていく……。

幼い息子はどんどんかけのぼっていった
止まりなさい
子供は走っていって
向こう側で ポカンとしていた
追いついて愕然とした!
息子の一歩手前 幅五十センチほどもある溝で
二階分はありそうな深い亀裂が下へ
夫にも 祖母にも
そのことを私は黙っていた
どうしゃべったらいいのか
無難な言葉にはできなくて

 「どうしゃべったらいいのか」わからない。そして「黙っていた」。でも、……書いてしまう。ことばは、黙っていても、「書く」ことができる。そして、その「書く」ということ、あるいは「書かれたことば」は、ほらほら、動いていこうとしている。どこへ? 知ってるくせに。
 知っているから、ちょっとこわくて、(のつもり)とはぐらかす。はぐらかした、の、つもり。

 ことば--書きことばが「暴走」を待っている。詩が始まるのを待っている。それをしっかりみつめて、(のつもり)という。いや、書く。「暴走したらダメよ」と言い聞かせて、「暴走」を促しているのだ。ほら、誰だって「ダメ」といわれたら、「ダメ」といわれたことをしたくなるでしょ?

 いいなあ、この感じ。

 「深い亀裂」で、ほんとうに見たのは何? 松川は、それを読者の「誤読」にまかせている。あ、そうなのだ。ことばが暴走するとき、そこには作者の思いではなく、読者の思いが噴出してくるのだ。
 「話しことば」では、こうはいかない。「書きことば」だから、それは作者の手を離れ、ただ「暴走」するのだ。
 いや、「暴走」する(つもり)。「暴走」した(つもり)

 いいなあ、ほんとうにいいなあ、いいなあとしかいえない、この感じ。




やわらかい一日―詩集
松川 紀代
ミッドナイト・プレス

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