詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョエル・ホプキンス監督「新しい人生のはじめかた」(★★)

2010-02-24 12:00:00 | 映画

監督 ジョエル・ホプキンス 出演 ダスティン・ホフマン、エマ・トンプソン

 退屈な映画である。何がいけないのか。配役がマズイ。ミスキャストである。
 ダスティン・ホフマン。彼はジャズピアニストをこころざしたこともある男である。ジャズピアニストになれず、コマーシャルソングを作曲している。--あ、でもねえ、ダスティン・ホフマンはミュージシャンには見えません。「音楽」特有の「軽さ」がない。ノリのよさがない。ピアノを弾いてみせるシーンがある。1曲目は、まあ、自分で弾いているんだろうなあ。勉強家というか、努力家なのはわかるけれど、指がうつっていないピアノ越しのシーンなんか、とても重たい。暗い。ミュージシャンなら、もっとノーテンキでないと……(と、書くと、私の偏見?)。
 まあ、落ちぶれたというか、人から相手にされないという感じはよくでているんだけれど。
 でも、それって、人を引きつける要素じゃないよなあ。
 エマ・トンプソンはなぜダスティン・ホフマンに惹かれ、恋する? その理由が、私にはまったくわからない。同情から恋がはじまっていけないわけではないけれど、ちょっとなあ。
 一方のエマ・トンプソン。あ、あ、あ、あ。引き込まれていきますねえ。うまい。ともかく演技がうまい。ブラインドデートのいよいよ佳境という時に、男の方の友達がやってきて、男と男の周囲はもあがる。エマ・トンプソンだけが浮いてしまって、ぽつんとしている。まるで「事実」みたい。
 ダスティン・ホフマンとのやりとりでも、ダスティン・ホフマンがエマ・トンプソンに惹かれる理由はわかる。イギリス人特有のとりすました感じがなく、アメリカ人のようにオープンである。しかも、皮肉屋というか、相手に譲らない頑固なイギリス人の要素もしっかり具現化している。ダスティン・ホフマンがそれまでアメリカで出会った女とは違う雰囲気がある。それに惹かれていく。それに、ダスティン・ホフマンから見れば、十分に若い。
 うーん。
 なぜ、エマ・トンプソンが年もずいぶん離れたダスティン・ホフマンに惹かれていくのか。さっぱりわからないねえ。
 だから、チラシにもっている(ポスターもそうかな)シーン、エマ・トンプソンが身長差をごまかすために膝をまげて、身を乗り出すようにして、ダスティン・ホフマンに軽いキスをするシーン--のような、不自然なシーンが気になる。「映画映え(?)」を気にして、ダスティン・ホフマンとエマ・トンプソンの身長差をごまかすようなことをして、どうするんだあああ。ほんとうに男に惹かれたんだったら、身長差なんか、関係ないだろう。そのほかのシーンでも、わざと猫背をさせるなど、むりな演技をさせるなら、キャスティングをかえたらいいのに……。
 最後の、エマ・トンプソンがハイヒールを脱いで、裸足になって、猫背をやめて、しゃんと背筋を伸ばして歩く二人のシーンが、泣かせます。はい。エマ・トンプソンが、かわいそう。 



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北川透「「海馬島伝」異文」(2)

2010-02-24 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「「海馬島伝」異文」(2)(「詩論へ」2、2010年01月31日発行)

 詩の感想を書いているうちに、その対象(テキスト)からどんどんと離れて行ってしまうことがある。ある行が、その作品のなかでどういう位置を占めていて、どういう「意味」をになっているか……ということなんかは関係なく、そこに書かれていることばに刺激されて、私自身のなかでことばがかってに動いていく。
 これはいいことか、悪いことか--というようなことは、誰にとって、何にとってということが問題になるし、「いい」「悪い」の定義もからんでくるから、まあ、私は気にしないで、ことばが動くままにそれを追いかけている。
 たかが、日記なのだし。
 あるとき、あるひとのある作品について感想を書いた。そうすると、感想にコメントの投稿があった。その後、そのコメントには「個人情報」が書かれているので削除してほしいという依頼が来た。依頼にそって削除はしたけれど、あ、この私の「日記」、そんなに読んでいるひとはいませんよ。城戸朱理が、あるところで「ブログのビジターが1万人を超えたのでやめられなくなった」、松下育男が「ビジターが大型観光バス何台にものっいてやってきた」と書いていたけれ。私はこの日記を2005年からはじめているけれど、私の日記のビジターは1年の日数、365 人にも満たない。とりあげた詩集(詩人)について、「ブログに感想を書きました」と連絡しても「ブログ、読んでいません(読めません)」という返事がわざわざ返ってくるくらいだから、何が書いてあるかなんて、あまり気にしないでね。私としては、悪口を書き放題なのに、ぜんぜん悪口が広がらないのが悔しくてたまらない、という気持ちはあるのだけれど。
 気がむいたら、「谷内がブログでこんな悪口を言っていた」と陰口を広めてくださいね。ツィッターなんて便利なものもあるし。

 あ、余分なことを書いてしまった。私は、話していても余分なことを口にしてしまうが、書いているともっと余分なことを書いてしまう。

 実は、いま書いたこの2行が、きょうの「テーマ」です。はい。

 詩の感想を書いているうちに、その対象(テキスト)からどんどんと離れて行ってしまうことがある--と、私はきょうの「日記」を書きはじめたが、「書いているうち」が問題。「話しているうち」と「書いているうち」はまったく違う。話しているときは聞き手がいて、話の腰を折る。(けしかけるときもあるかもしれないけれど。)ところが、書いているとき、書いていることばを止めるものがない。
 文字は、書いている私の手から離れて、勝手に動いていく。「声」と違って消えてしまわないので、その勝手気ままさが「目」に見え、そのことがさらに勝手気ままさに拍車をかける。
 これは私だけに起きることではない、と思っている。
 「いっしょにしないでくれ」と怒られるかもしれないが、たとえば、北川透「「海馬島伝」異文」を読むと、これは「書かれた詩」だから、こんなふうなのだ、と思ってしまうのだ。(北川透は「朗読」もするようだけれど、あくまで「書いた詩」を「声」にしているのだと思う。最初から「声」にだして詩を作っているのではないと思う。)
 「交換」という詩の、1ページ目の途中くらい。

すべてがあらゆる点でいかがわしい。それは今語っているわたしが何者であるかを、わたし自身が語れないことと通じている。さらに疑わしいのは、島ではことばが文字としてだけ存在することだ。

 「いかがわしい」と「疑わしい」にどれくらいの「差異」があるのかよくわからないのだけれど、「さらに疑わしいのは、島ではことばが文字としてだけ存在することだ。」こんなむちゃくちゃなことば、「書きことば」以外では成り立ちえない。このことばを引き継いで、ことばが「暴走」すると、そのことはもっと明確になる。

人と人、人と物、物同士、動物と植物など、どんな関係のコミュニケーションにも、ことばが介在しているのに、それは文字として表象されいるばかりで、音声化されない。音声としては、まったく意味不明瞭な、ただのノイズとしてしか響いてこない。

 で、さあ、それじゃあ聞くけど、というか、こんな質問が成り立つのかどうかもわからないのだけれど、「文字」を何で書いているの? 何に書いているの? 先にそれを教えてよ。
 --あ、私って、意地悪でしょ? こんな質問を差し挟むなんて。
 「話しことば」の世界では、私はすぐにそういうことをやってしまう。(私は小学校時代「窓際のトットちゃん」状態でした。先生の言っていることを聞いていられない。すぐに質問してしまう。そして、授業をめちゃくちゃにしてしまう。)
 「書きことば」は、すごいなあ。
 私がこんなふうに「質問」をはさんでみても、平気。そんな質問などなかったかのように、どんどん動いていく。

それでいて人にも植物や動物にも、口や口に似た発声器官があり、ノイズ、雑音に似た音の響きは、絶えず飛び交っているし、何よりも文字が光の粒子のように空中に舞っているので、いちおうは相互に了解し合っているように見える。

 「書きことば」を止めることができるものなど何もないのだ。筆者にだって、それは止められない。「話しことば」と違って、「書きことば」は「文字」として、いつまでもそこに存在し「過去」をつくる。「過去」があれば、「過去」は「いま」の空白を見つけて文字を侵略させ、領土を拡大し、「未来」の空白を侵略しはじめる。空白が足りないなら、紙を買って来るということさえ、人間に強いるかもしれない。
 北川は、あることばになにかの「意味」をこめて書いたかもしれない。けれど書かれてしまったことばは、きっと北川の書こうとした「意味」を振り捨てて「暴走」する。
 「それでいて」ということばが象徴的だ。この「それでいて」は、そこに書かれていることはそこに書かれたという状態までのことにして、というのと同じである。そのことばで書こうとした「意味」は「意味」としておいておいて、新たに何かを「書く」のである。「書きことば」を動かしはじめるのである。いや、「書きことば」が勝手に動いていくのである。
 「それでいて」に似たことばに「そうは言っても」というのもある。これもまた、それまでに書かれた文字の「意味」は意味としておいておいて、別な動きを動きはじめる。

そうは言っても、二つのことばや文字、物の表象、アイデア、観念の交換は島外の視点で見ると、かなりいいかげんというか辻褄が合わないものが多いことは確かである。むろん、交換にあたっては、見かけの上での等価性に、最大の注意が払われている。

 いいなあ。この無節操な(?)暴走。文字にし、書いてしまうと、どんなことばも粘着力を持って、緊密にくっつく。(というのは、実は、嘘--こういうことができるのは、北川が「書きことば」の文法を北川なりに確立してきた空のこと。)どんなむちゃくちゃを書いても、ことばはくっつくく。だから、その粘着力をふりきるために、さらにことばは暴走し、その「暴走することば--暴走する書きことば」を北川は筆記具(ワープロ?)でただ追いかける。

 こんなことはいくら書いてもきりがないので、途中を省略して……。

わたしがひそかに作成した島国の地下洞窟群の測量地図が、一夜にしてコピーされ、剽窃された、という文脈が、おまえはそんな可愛い顔をしながら、産まれてくる花瓶やら、マッコウクジラやら、草履の天婦羅やらを絞め殺したという文脈と、どうしてこの島内ではやすやすと交換可能になるのか。

 「書かれているから」。「書きことばだから」。私は、そう答えよう。「書かれている」(書きことばである、文字である)からこそ、私たちは、それを並べて比較し、かけ離れた場所にあろうと、それを近くに引き寄せ、また逆にあるものを遠くにやるという空間操作をおこないながら、「等価」のシートバランスをつくってしまうのだ。書き上げてしまうのだ。
 「書かれている」からこそ、コピーが簡単であり、剽窃も簡単であり、「切り貼り」(交換)も簡単であり、「交換」(切り貼り)だけでても暴走はできてしまう。

 この簡単さと戦い、さらにことばを暴走させるにはどうすればいいか。この、一種の不可能な「場」において、北川は、さらに戦いつづけている。
 --北川は、この詩において「書きことば」について書きたかったのかどうかわからないが、そしてそうだとしても私が書いたようなことを書きたかったのかどうかわからないが、私は「書きことば」について考えてしまった。
 「書く」ということ、「書きことば」というのものは、ほんとうに、その出発の「テキスト」とは無関係になってしまう。そういう不思議な「自由」をもっている、と、北川の書いている詩を読むと、強く感じてしまう。




溶ける、目覚まし時計
北川 透
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