谷川俊太郎『こころ』(18)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)
「悔い」という作品。作品のなかを動いている時間がかなり複雑である。
時間がゆっくり進んでいる。一瞬を凝視して、その一瞬のなかで動いているこころを描いている。かさぶたと血のにじむ感じなど、きっと誰もがやってみたことがあると思う。それは直接「悔い(後悔)」とは関係ないのだけれど、うーん、悔いと言うのは比喩にするとこんな感じか、と納得する。一瞬の「時間」のなかに、感情と肉体が入り混じる。
ここから、ひとつの「哲学」を抽象し、批評のことばをつづけることができるが、今回はしない。そういう面倒なことは、こんかいは書かないと決めているので。
で。
2連目。1連目のように、じっくりと肉体とこころに迫ってくる、考えさせる、というのではないのだが・・・
この3行に私は1連目以上に驚いた。
1連目の「かさぶた」を中心とした「比喩」は、抒情詩が得意な詩人なら書けるかもしれない。
2連目の3行も、1行ずつなら、多くの詩人は書けるかもしれない。けれど3行並列で書くことは難しい。
時間の進み方が1連目と2連目では違うのだ。
1連目はゆっくりしている。かさぶたをはがす。そうすると血がにじんでくる。ここまでに時間がかかる。にじむというのはゆっくりした動きだ。それを陽にさらす。血がかたまろ、またかさぶたになるのがわかる。ここでも時間はゆっくり流れている。そしてその時間を体験しているのは「ひとり」である。「私」である。
2連目はどうだろう。
子犬の頭をなでたのも、遠い山なみを眺めたのも、盃をなめたのも、「私」かもしれないが、それぞれに違う主語を考えることができる。少年は子犬の頭をなで、若い女は山なみをながめ、老いた男が盃をなめたのかもしれない。若い女ではなく若い男が山なみをながめたと書き直すと、そこには少年、青年、老人という三つの時間がある。若い女が山なみを眺めたなら、そこには男と女がいる。「複数」の人間、「複数の時間」があることになる。
ただし、複数の時間と言っても、そこには「共通性」がある。複数の時間は、過去から未来へ流れているのではなく、何年、何月何日という日付を無視して「悔い」という瞬間として、共通している。複数なのだけれど、ひとつ。
同じように複数の人も「悔いる」という「ひとつ」のことをしているので、複数なのだけれど「ひとり」。
ふつう、詩は「個人の感情」を書いていると受け止められている。1連目は確かに「ひとり」の思いかもしれない。そして一瞬の時間かもしれない。けれど2連目は違う。複数の時間、複数のひとがいる。
これが谷川の詩の特徴だと思う。「複数」と「単数」が重なる。
複数の時間、複数の人が「ひとり」を装って登場する。読者はそのうちの「ひとり」を選んで、その詩の中へ入ってゆく。そして、その「ひとり」を自分だと思う。そういう世界へ、谷川のことばは誘ってくれる。
で、
私はひとりではない、と私をつつんでくれる。
「悔い」という作品。作品のなかを動いている時間がかなり複雑である。
何度繰り返せば気がすむのだろう
心は 悔いを
わざとかさぶたをはがして
滲んだ血を陽にさらして
それを償いと思いこもうとして
時間がゆっくり進んでいる。一瞬を凝視して、その一瞬のなかで動いているこころを描いている。かさぶたと血のにじむ感じなど、きっと誰もがやってみたことがあると思う。それは直接「悔い(後悔)」とは関係ないのだけれど、うーん、悔いと言うのは比喩にするとこんな感じか、と納得する。一瞬の「時間」のなかに、感情と肉体が入り混じる。
ここから、ひとつの「哲学」を抽象し、批評のことばをつづけることができるが、今回はしない。そういう面倒なことは、こんかいは書かないと決めているので。
で。
2連目。1連目のように、じっくりと肉体とこころに迫ってくる、考えさせる、というのではないのだが・・・
子犬の頭を撫でなら
遠い山なみを眺めながら
口元に盃を運びながら
この3行に私は1連目以上に驚いた。
1連目の「かさぶた」を中心とした「比喩」は、抒情詩が得意な詩人なら書けるかもしれない。
2連目の3行も、1行ずつなら、多くの詩人は書けるかもしれない。けれど3行並列で書くことは難しい。
時間の進み方が1連目と2連目では違うのだ。
1連目はゆっくりしている。かさぶたをはがす。そうすると血がにじんでくる。ここまでに時間がかかる。にじむというのはゆっくりした動きだ。それを陽にさらす。血がかたまろ、またかさぶたになるのがわかる。ここでも時間はゆっくり流れている。そしてその時間を体験しているのは「ひとり」である。「私」である。
2連目はどうだろう。
子犬の頭をなでたのも、遠い山なみを眺めたのも、盃をなめたのも、「私」かもしれないが、それぞれに違う主語を考えることができる。少年は子犬の頭をなで、若い女は山なみをながめ、老いた男が盃をなめたのかもしれない。若い女ではなく若い男が山なみをながめたと書き直すと、そこには少年、青年、老人という三つの時間がある。若い女が山なみを眺めたなら、そこには男と女がいる。「複数」の人間、「複数の時間」があることになる。
ただし、複数の時間と言っても、そこには「共通性」がある。複数の時間は、過去から未来へ流れているのではなく、何年、何月何日という日付を無視して「悔い」という瞬間として、共通している。複数なのだけれど、ひとつ。
同じように複数の人も「悔いる」という「ひとつ」のことをしているので、複数なのだけれど「ひとり」。
ふつう、詩は「個人の感情」を書いていると受け止められている。1連目は確かに「ひとり」の思いかもしれない。そして一瞬の時間かもしれない。けれど2連目は違う。複数の時間、複数のひとがいる。
これが谷川の詩の特徴だと思う。「複数」と「単数」が重なる。
複数の時間、複数の人が「ひとり」を装って登場する。読者はそのうちの「ひとり」を選んで、その詩の中へ入ってゆく。そして、その「ひとり」を自分だと思う。そういう世界へ、谷川のことばは誘ってくれる。
で、
私はひとりではない、と私をつつんでくれる。
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