詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(18)

2013-08-13 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(18)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

「悔い」という作品。作品のなかを動いている時間がかなり複雑である。

何度繰り返せば気がすむのだろう
心は 悔いを
わざとかさぶたをはがして
滲んだ血を陽にさらして
それを償いと思いこもうとして

時間がゆっくり進んでいる。一瞬を凝視して、その一瞬のなかで動いているこころを描いている。かさぶたと血のにじむ感じなど、きっと誰もがやってみたことがあると思う。それは直接「悔い(後悔)」とは関係ないのだけれど、うーん、悔いと言うのは比喩にするとこんな感じか、と納得する。一瞬の「時間」のなかに、感情と肉体が入り混じる。
ここから、ひとつの「哲学」を抽象し、批評のことばをつづけることができるが、今回はしない。そういう面倒なことは、こんかいは書かないと決めているので。
で。
2連目。1連目のように、じっくりと肉体とこころに迫ってくる、考えさせる、というのではないのだが・・・

子犬の頭を撫でなら
遠い山なみを眺めながら
口元に盃を運びながら

この3行に私は1連目以上に驚いた。
1連目の「かさぶた」を中心とした「比喩」は、抒情詩が得意な詩人なら書けるかもしれない。
2連目の3行も、1行ずつなら、多くの詩人は書けるかもしれない。けれど3行並列で書くことは難しい。
時間の進み方が1連目と2連目では違うのだ。
1連目はゆっくりしている。かさぶたをはがす。そうすると血がにじんでくる。ここまでに時間がかかる。にじむというのはゆっくりした動きだ。それを陽にさらす。血がかたまろ、またかさぶたになるのがわかる。ここでも時間はゆっくり流れている。そしてその時間を体験しているのは「ひとり」である。「私」である。
2連目はどうだろう。
子犬の頭をなでたのも、遠い山なみを眺めたのも、盃をなめたのも、「私」かもしれないが、それぞれに違う主語を考えることができる。少年は子犬の頭をなで、若い女は山なみをながめ、老いた男が盃をなめたのかもしれない。若い女ではなく若い男が山なみをながめたと書き直すと、そこには少年、青年、老人という三つの時間がある。若い女が山なみを眺めたなら、そこには男と女がいる。「複数」の人間、「複数の時間」があることになる。
ただし、複数の時間と言っても、そこには「共通性」がある。複数の時間は、過去から未来へ流れているのではなく、何年、何月何日という日付を無視して「悔い」という瞬間として、共通している。複数なのだけれど、ひとつ。
 同じように複数の人も「悔いる」という「ひとつ」のことをしているので、複数なのだけれど「ひとり」。

ふつう、詩は「個人の感情」を書いていると受け止められている。1連目は確かに「ひとり」の思いかもしれない。そして一瞬の時間かもしれない。けれど2連目は違う。複数の時間、複数のひとがいる。
これが谷川の詩の特徴だと思う。「複数」と「単数」が重なる。
複数の時間、複数の人が「ひとり」を装って登場する。読者はそのうちの「ひとり」を選んで、その詩の中へ入ってゆく。そして、その「ひとり」を自分だと思う。そういう世界へ、谷川のことばは誘ってくれる。
で、
私はひとりではない、と私をつつんでくれる。


すき好きノート
谷川 俊太郎
アリス館
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建畠晢『死語のレッスン』

2013-08-13 09:53:03 | 詩集
建畠あきら『死語のレッスン』(思潮社、2013年07月25日)

 私はいま右ひじを骨折している。いままでつかっていた親指シフトのキーボードが使えない。左手1本だとアルファベット入力でも、uoiの母音を含むことばが書きにくい。fに人差し指を置いたままでは指が届かない。手のひらごと右へ移動しないといけない。その移動の間に、私は書きたいことを忘れてしまう――という状態で書いている。まあ、感想と言うより簡便なメモだ。文字も出てこないものがあり、そこでもつまずく。建畠あきらの「あきら」は「哲」の口が「日」(曰かな?)である。
 で、引用しやすい作品、「葉桜の町」。

畳屋の二階で、鳥が殺されました
その時、窓の外では葉桜が我関せずと春風に揺れ
緩やかにカーブする道では
何も知らない家族のワゴン車が行き交っていました

 この詩のキーワードは「我関せず」である。葉桜(自然)に「我」というものはない。関与しようにも関与できない。論理的にいいなおすと、「我関せず」は流通する「意味」の上からは余分なもの、あるいは間違いである。しかし建畠は書かずにいられなかった。無意識に書いてしまった。
 「我関せず」は、終わりから3行目に、

大小の陶器もまた我関せずと木漏れ日の市に並び

 という形で繰り返されているが、その行だけではなく、あらゆる行に「我関せず」を補っても世界は変わらない。もともと余剰であり、しかもそれは「無意味」の透明さ、無意識の透明さと一緒にあるからだ。
 この「我関せず」の透明さを建畠は「何も知らない」ということばで言い直している。
 2行目と、終わりから3行目は、

その時、窓の外では葉桜が「何も知らない」春風に揺れ
大小の陶器もまた「何も知らない」木漏れ日の市に並び

 4行目は

「我関せずと」家族のワゴン車が行き交っていました

 なのである。
 で、この作品では、建畠は「我関せず」「何も知らない」ということを書いているのである。建畠自身、畳屋の二階で鳥が殺されたととの対して「我関せず」なのである。その事実を書いているけれど「何も知らない」のである。
 「我関せず」「何も知らない」ときも、世界は存在する。

 しかし、建畠は、そう突き放せない。

大小の陶器もまた我関せずと木漏れ日の市に並び
葉桜は柔らかな風に揺れ
ああその時、畳屋の二階では、鳥が殺されたのです

 1行目を繰り返し、繰り返すことで「額縁(枠)」を作る。世界を構造的に作り上げる。「我関せず」なのに、そこに描かれた葉桜、家族、ワゴン車、陶器などを、世界の構成要素にしてしまうのである。
 で、このときのポイントは、繰り返し。1行目と最後の「畳屋の二階では、鳥が殺された」という繰り返し。重要なのは、畳屋でも、鳥でも、殺しでもなく、繰り返すこと。繰り返すと、そこに枠ができ、枠の「内部」が生まれるということ。内部は「我関せず」どうしの集まりだけれど、どんな「我」であってもそれぞれの「来歴(過去)」というものがあるので、それが影響しながら内部を濃密にしてゆく。
 という言い方は、抽象的すぎるか・・・
 言い直すと、葉桜、春風、カーブする道、陶器・・・なんでもいいが、そういうことばは「読者の覚えている」葉桜、春風と結びつき、ひとつの世界を存在させてしまうのである。読者の、たとえば葉桜の記憶に建畠は「我関せず」なのだが、何の関係もないのに出会ってしまう。出会うことで、ことばの記憶を繰り返してしまう。繰り返すと、そこに「意味」や「情緒」が生まれてしまう。
 ――この詩集は、そういうことと向き合いながらことばが動いている。

 (私は目が悪く40分以上は書くのがつらい。左手だけで書いているので、いつもは右手で動かしていることばが半分消えてしまったかもしれない。)


死語のレッスン
建畠晢
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする