詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(33)

2013-08-28 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(33)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「手と心」を読みながら、すけべっていいなあ、と思う。年齢に差がない。そして国籍にも差がない。人間のすることは同じだ。その「同じ」が全部を引き寄せる。

手を手に重ねる
手を膝に置く
手を肩にまわす
手で頬に触れる
手が背を撫でる
手と心は仲がいい

 「手と心は仲がいい」かどうかわからないけれど、手はこころのいうことを聞いて動いてくれる。いや、それとも手の動きに合わせてこころが動くのかな?
 で、ここまでは、すけべもそんなにたいしたこと(?)はないのだが、2連目はどうかな? 「こころ」は朝日新聞の夕刊に連載された。そのページは子供も読むページだったと思うけれど(私は子ども向けのページだと思って読んでいたけれど)、うーん、

手がまさぐる
手は焦る
手が間違える
手は迷走しはじめる
手ひどく叩かれる
手はときには早すぎる
心よりも

 これって、すけべな手が、「だめ」と叱られて、手をたたかれるってことだよね。こういうことって、若いときにも、中年のときにも、谷川のような老人になっても起きることなんだね。
 これを、子供にも、平気で、ことばとして差し出す。ここが、不思議。
 人間って、いったいいくつからすけべなんだろう。
 ここに書いてあることば、それが肉体の動きとして「見える」のは何歳からだろう。わからないけれど、きっと、このことばを読むことができる年齢の人間なら、そのまますぐわかるし、ことばが読めなくても、そういう肉体の動きを見たことがあれば、きっとすぐわかる。

 最後の2行が、まあ、「意味」なんだろうけれど。鑑賞のポイント(分かれ道)なんだろうけれど、私は「意味」から離れて、つまり「文学」に背を向けて、もっと切実な問題として(すけべになって)、考えてみたい。

手はときには早すぎる
心よりも

 この手は、女の体をまさぐった手? それとも間違えたふりをして微妙なところへのびてくる手をたたいた手? どっちのことを言っているのだろう。相手のこころに気を配るよりも、まず自分の欲望で動いてしまう手(肉体)を「早すぎる」と言っているのか。それとも、そんなふうに動いてくる手を拒んでしまった手に対して、「だめ」と叩いたりしなければよかったと思っているのか。
 つまり、というか、なんというか……。
 で、すけべは、それからどうなるの?
 いたずらな手は叩かれておしまい? 叩いておしまい?
 そうじゃないかもしれない。それが刺戟になって、「早すぎる」展開が、さらに加速することもあるよね。
 というところまで妄想すると、うーん、これは子供の妄想を通り越しているかな?



女に
谷川 俊太郎
集英社
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ローランド・エメリッヒ監督「ホワイトハウス・ダウン」(★★★)

2013-08-28 23:02:44 | 映画
監督 ローランド・エメリッヒ 出演 チャニング・テイタム、ジェイミー・フォックス


 アメリカ映画は最近、家族愛が譲れぬテーマのようである。世界を救うのは大義名分ではなく家族愛。愛する家族を守るために闘う--その結果が国を救うということになる。世界を救うということになる。
 帝国主義をカムフラージュするための方便かな……。
 ということは、あまり話題にする必要もないのかもしれない。
 この映画がおもしろいのは、一方に核兵器という巨大な兵器があり、他方にペンではなくてユーチューブという庶民の兵器があるということだね。綿密に仕組んだ計画も、瞬間的に盗られた映像の公開には負けてしまう。チャンスさえあれば誰でも情報を公開し、世論を味方にすることができる。
 まあ、いいことではあるんだけれどね。
 さらに。
 だれもがスマートフォンをもつ時代(私はもっていないけれどね)、それを逆手につかってポケットベルを活用して情報を伝達する。だれも、そんなものをつかうと思っていないから、チェックしない。そういう情報網の「盲点」をつく。--これは、おもしろかったなあ。
 やったね、という感じ。
 で、そういう「小業」をていねいに描いて、一方で大仕掛けの銃撃戦、だけではなく戦闘機や戦車まで出てくる。視線のひきつけどころが、とても変化に富んでいる。情報量が多くて、それが、ひとつひとつ光っている。
 カーチェイス(?)がホワイトハウスの敷地内に限定されているなんて、笑っちゃうよね。マリリン・モンローとケネディ大統領の密会のための秘密の廊下、なんてくすぐりもきちんと折り込んで、伏線もしっかりしている。
 これは、まあ、脚本の勝利だね。
                        (2013年08月28日、天神東宝5)
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本多寿編「みえのふみあき『枝』」

2013-08-28 10:45:06 | 詩集
本多寿編「みえのふみあき『枝』」(本多企画、2013年08月01日発行)

 この詩集はみえのふみあきの詩集ではない。みえのが「乾河」という同人誌に発表した「Occurence 」というシリーズを中心に編集しているふりをしているが、みえのの作品が一冊になっているわけではない。
 「Occurence 」は、私は「乾河」で全部読んでいる。しかし、この本にあつめられている作品は、どれもこれもみえのの書いたものとは違う。私は、このうちの、どの作品も読んだことはない。手元に「乾河」がないので比較できないが、こんな詩ではなかったはずだ。一篇、「窓辺」だけは、もしかしたら、これだけはみえのの作品かもしれない、と思ったが……。
 で、いらいらするような違和感を覚えながら、本多寿の書いた「あとがき」を読んで、びっくりした。

 彼が生きていたら、おそらく改稿したであろう個所は私が手直しするわけにもいかないので、生前に指摘していた明らかな間違いだけを改稿した。また発表時、すべてのタイトルについていた「にて」については、少々気になるので削除した。(96ページ)

 「明らかな間違い」は「誤植」のことだろうか。「生前に指摘していた」とは誰が指摘していたのか。みえのが語ったのか。「誤植」には単純なミスもあるかもしれないが、あえて「誤植(誤字)」をつかうこたともある。造語もある。(あとで引用する作品には「過ぎり」という奇妙なことば--私の知らないことばが出てくる。意味の見当はつくが……。)それはきちんと確認したのだろうか。
 こういう疑問をもつのは、

また発表時、すべてのタイトルについていた「にて」については、少々気になるので削除した。

 とあるからだ。「少々気になる」とはどういうことだろうか。みえのは、必要があって「……にて」というタイトルにしている。それを「気になる」としたら、それは本多がみえのの作品を理解していないからである。
 こんな改悪をしておいて、

みえのの秀れた詩を埋もれたままにしておくのが忍びなかった

 とは冗談にもほどがある。みえののことを思ってつくられた詩集ではなく、本多が本多自身と本多企画を宣伝するためにみえのを利用しただけである。友人を名のり、売名行為をしているとしか思えない。
 虫酸が走る。
 ほんとうにみえのの作品をすばらしいと思うなら、この詩集は廃棄して、タイトルを発表時に戻し、「誤植」を直した場合は補註として明記すべきだろう。詩集をつくり直すべきだろう。



 一篇、「窓辺」(正確には「窓辺にて」というタイトル)がみえのを思い起こさせるのは、この詩のなかにみえののキーワードがあるからである。そして、そのキーワードは「……にて」の「にて」と深い繋がりがある。

窓を隔てて
雨滴が流れ
窓を隔てて
猫が過ぎり
窓を隔てて
枯葉が舞い
窓を隔てて
古紙収集車の呼声が通りすぎる

 「窓を隔てて」という行が繰り返される。この行の中の「隔てて」がみえのの詩のキーワードである。少なくとも「Occurence 」のキーワードである。
 「ぼく」(詩の後半でつかっている「主語」)は、世界認識の仕方が独特である。対象と一体化しない。「ぼく」は「ぼく」のなかにとどまり、「ぼく」から隔たったところに「ぼく以外の世界」が存在する--それを見つめている。あるいは聞いている。「感覚」を動かして把握している。
 「ぼくの内部」にあることは、「ぼく」自身の決定で変更ができるが、「ぼくの外部」については変更はしない。「ぼく」は「外部」と交渉し、外部をつくりかえる形での一体化はしないのだ。それは、みえのの「つつしみ」のようなものである。「ぼく」が「外部」に積極的に働きかけ一体化するということは、「外部」が「ぼく」によって変更してしまうということである。「ぼく」がいないときの「外部」は、「ぼく」と一体化させられてしまうと、それまでの「外部」のままではいられない。--そのこと、そのときにおきる変化が、みえのには「重荷」のように感じられるのだろう。働きかけを暴力的だと思うのかもしれない。
 だから、切り離すのだ。
 「世界」がある。その「世界」に、みえのはやって来る。やって来はするのだが、あくまでそれは「接近」の一種である。どんなに「内部」に入ろうとも、そこに小さな「部屋」のようなものをつくり、「窓を隔てて」外部の「世界」を見る。何か問題があれば、すぐにその場を離れる準備をしている。直接交渉ではなく、間接交渉。常に「隔たり」がある。
 それが「……にて」の「にて」なのである。

 「窓辺にて」、みえのは「世界」と自分の関係を見つめている。それは「窓辺」のことを描いているのではない。「窓辺に/いて」(窓辺までやって来て)、「世界」と「自分」が隔たっているということを自覚して、自分がいなくても動いている世界(完結している世界)というものを見つめている。
 その「世界」で起きていることは、自分の内部でも起きたこと(記憶/過去)であり、これから起きること(未来)でもある。「外部の世界」と「ぼく(の内部の世界)」は、その「起きたこと/起きること/起きうること」の「こと」のなかで重なるが、
 この「こと」というのも「もの」ではない。
 「こと」というのは「認識」である。「こと」は「もの」を借りて浮かび上がるが、その「こと」自体は、「ぼく」が「ことば」をとおして定義し直したものである。ことばを借りて定義し直したものである。
 で、このことばを借りて定義し直した「もの」、「もの」としてのことば--それが詩であり、それが「こと」なのだ。
 「Occurence 」ということばを私は知らない。聞いたことがないし、つかったことがない。だからみえのの詩のなかだけで判断するのだが、それは私の知っている日本語にすれば「こと」である。「こと」は基本的に、個人の内部で生起する。もちろん「外部」でも何事かは起きるが、それを自分なりに把握しないかぎり、それは「こと」としては迫ってこない。
 津波が襲ってきても、原子力発電所が爆発しても、それは「津波の襲来」「原発の事故」である。「こと」ではない。それが「大変なこと」になるのは、自分の内部にとりこみ、自分のことばで、自分を組み立て直すときである。津波に対してどうしていいかわからない。原発事故に対してどうしていいかわからない。逃げる、と簡単に言うけれど、どこへ、どこまで? わからないから「大変なこと」なのである。「大変なこと」としか言いようがないのである。
 だから。
 たとえば「窓辺にて」、窓を隔てて、自分の外にある世界で起きている「こと」を、自分のことばでとらえ直し、同時にそうすることで自分を作り直し、自分のなかでおきている「こと」を整えるのだ。
 津波がくるとわかったら、それを「見ること」をするのではなく、「逃げること」をするのだ。そういう準備を自分の内部でするのだ。
 ときには、自分の内部で起きている「こと」を代弁してくれる外部の「こと」を探すのだ。「そっちじゃない、右の方、山の方へ逃げて」と祈ったりするのだ。
 室内に閉じこもりながら、外を歩き回る猫に自由や、あるいは孤独なこころを遊ばせ、自分を解き放つのである。

 「窓辺にて」の後半を読むと、その関係がわかる。私の、まだるっこしい「こと」の繰り返しの説明はいらないはずだ。
 だったら、それを引用すればいいではないか--という声が聞こえてきそうだが、私は、しない。
 本多寿への抗議として。
 みえのふみあきは病気で死んだ。病気がみえののいのちを奪った。そして、それに追い打ちをかけるように、本多寿がみえのふみあきのことばから詩を奪った。みえのふみあきのことばを殺したのだ。

方法―みえのふみあき詩集 (1982年) (レアリテ叢書〈10〉)
みえの ふみあき
レアリテの会
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