詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(20)

2013-08-15 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(20)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

「あの日」は亡くなった人との最後の会話を思い出そうとする詩。何を話したのか、そのことばがどうしても思い出せない。

微笑みは目にやきついているのだが
話したことはきっと
あの人が持っていてしまったのだ
ここではないどこかへ

この連だけで、じゅうぶんに悲しみが伝わる。思い出せないことが、思い出に深い輪郭を与える。
これをしかし谷川は3連目で言い換える。

いやもしかすると
私がしまいこんでしまったのか
心のいちばん深いところへ
取り返しのつかない哀しみとともに

そうか。取り返しのつかない哀しみか。思い出すと、哀しくて、自分が自分でいられなくなる。だから、そっと隠した…哀しみがゆっくりと伝わってくる。思い出すと哀しい、でも思い出さずにいられない、という矛盾が「思い出せないことば」となって「あの日」を結晶させる。
――そういう作品だと思うけれど、私は「いやもしかすると
」の「いや」ということばに、何かそれ以上のものを感じた。哀しみ、抒情というには強すぎる「響き(音楽)」を感じた。感情、抒情を否定する「論理構造」を動かす力を感じた。
そして実際にそこで動くことばは論理であり、意味なのだが…論理、意味を追い、それをつかむことによって谷川の悲しみが伝わってくるのだけれど。
でも、論理、意味で哀しみがわかるというのは、変だよね。
何か、論理、意味じゃないものがここにあるはず。それは何だろう。
対話である。
谷川は自問する形で、亡くなった人と対話している。「いやもしかすると」以下は谷川のことばだけれど、もしかすると亡くなった人が言っているのかもしれない。谷川と亡くなった人は「ひとつのこと」を違う角度からいうとどうなるだろうというような対話を無意識のうちに繰り返し、友情を深めてきた。そういう対話が、いま、ここに、「あの日」のようによみがえっている。
「あの日」のことばは思い出せなくても、いつでも対話を繰り返すことができる――といっても、それで哀しみが消えるわけではないが・・・

ミライノコドモ
谷川 俊太郎
岩波書店
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藤野可織「爪と目」

2013-08-15 09:03:09 | その他(音楽、小説etc)
藤野可織「爪と目」(「文芸春秋」2013年09月号)

藤野可織「爪と目」は芥川賞の受賞作。
とてもいやな感じが残る文体である。途上人物は3人+1人、じゃなかった、女2人に男2人――でもないなあ。女2人。父親の愛人(後妻)と父の連れ子の3歳の少女、と言った方がいいのかな? 厳密にいうと死んだ母親も出てくるから女3人?
こういう単純なところからややこしくなるくらいに、いやあな感じなのだ。それは一番いい部分の文章を見るともっとはっきりする。

水分を失った眼球は、型くずれしはじめていた。ほんとうならただ丸く膨らんでいるはずのまぶたは、膨らみの最頂部でぽこんと小さく凹んでいた。それが、死んだわたしの母のまぶただ。           (428ページ)

しおり紐が「し」のかたちではさまっていた。まだ一度も使われていないしおり紐だった。その薄紫色のしおり紐をつまみあげると、ページの表面が同じ形にくぼんでいた。                  (431ページ)

「もの」のへこみが描写されている。へこみの原因は違うのだが、対象を長く見つめてきた人間だけが気づく小さな対象の変化である。これが「ひとり」の登場人物の視点なら、それはそのひとの個性になる。ところがこの小説では、前者は3歳の少女、後者は父の愛人である。年齢も立場も違う人間が、同じようにもののへこみに目をこらし、それを丁寧に描く。これは奇妙である。
ふたりの人間には共通項がある――ということを暗示しているととらえることもできるが、そうではなくて作者が最初からふたりをふたりとして描き分けることを放棄している。「わたし」と「あなた」を区別していないのだ。
だから気持ちが悪い。
 人間の感性は通い合い、そこには「わたし」と「あなた」の区別がないという哲学を書きたいのなら、へこみというものを共通させるのはなく、違ったものをぶつけて、そこに、いままで存在しなかった新しい「存在の形式」を登場させなければ、昇華にならない。弁証法にならない。私は弁証法を信じるわけではないのだが、こんな奇妙な「合致」はきもちがわるくてやりきれない。

小説のストーリーは書きつくされ、文体の特異性でしか作家は個性を発揮できないということか。特異な文体なら「現代詩」にあふれている。「感覚」をことばに定着させる競争なら「現代詩」のあちこちでおこなわれている。
変な文体の前に、人間の手触り、抵抗感を書いてもらいたいと思う。人間を読みたい。



爪と目
藤野 可織
新潮社
コメント (2)
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