谷川俊太郎『こころ』(20)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)
「あの日」は亡くなった人との最後の会話を思い出そうとする詩。何を話したのか、そのことばがどうしても思い出せない。
微笑みは目にやきついているのだが
話したことはきっと
あの人が持っていてしまったのだ
ここではないどこかへ
この連だけで、じゅうぶんに悲しみが伝わる。思い出せないことが、思い出に深い輪郭を与える。
これをしかし谷川は3連目で言い換える。
いやもしかすると
私がしまいこんでしまったのか
心のいちばん深いところへ
取り返しのつかない哀しみとともに
そうか。取り返しのつかない哀しみか。思い出すと、哀しくて、自分が自分でいられなくなる。だから、そっと隠した…哀しみがゆっくりと伝わってくる。思い出すと哀しい、でも思い出さずにいられない、という矛盾が「思い出せないことば」となって「あの日」を結晶させる。
――そういう作品だと思うけれど、私は「いやもしかすると
」の「いや」ということばに、何かそれ以上のものを感じた。哀しみ、抒情というには強すぎる「響き(音楽)」を感じた。感情、抒情を否定する「論理構造」を動かす力を感じた。
そして実際にそこで動くことばは論理であり、意味なのだが…論理、意味を追い、それをつかむことによって谷川の悲しみが伝わってくるのだけれど。
でも、論理、意味で哀しみがわかるというのは、変だよね。
何か、論理、意味じゃないものがここにあるはず。それは何だろう。
対話である。
谷川は自問する形で、亡くなった人と対話している。「いやもしかすると」以下は谷川のことばだけれど、もしかすると亡くなった人が言っているのかもしれない。谷川と亡くなった人は「ひとつのこと」を違う角度からいうとどうなるだろうというような対話を無意識のうちに繰り返し、友情を深めてきた。そういう対話が、いま、ここに、「あの日」のようによみがえっている。
「あの日」のことばは思い出せなくても、いつでも対話を繰り返すことができる――といっても、それで哀しみが消えるわけではないが・・・
「あの日」は亡くなった人との最後の会話を思い出そうとする詩。何を話したのか、そのことばがどうしても思い出せない。
微笑みは目にやきついているのだが
話したことはきっと
あの人が持っていてしまったのだ
ここではないどこかへ
この連だけで、じゅうぶんに悲しみが伝わる。思い出せないことが、思い出に深い輪郭を与える。
これをしかし谷川は3連目で言い換える。
いやもしかすると
私がしまいこんでしまったのか
心のいちばん深いところへ
取り返しのつかない哀しみとともに
そうか。取り返しのつかない哀しみか。思い出すと、哀しくて、自分が自分でいられなくなる。だから、そっと隠した…哀しみがゆっくりと伝わってくる。思い出すと哀しい、でも思い出さずにいられない、という矛盾が「思い出せないことば」となって「あの日」を結晶させる。
――そういう作品だと思うけれど、私は「いやもしかすると
」の「いや」ということばに、何かそれ以上のものを感じた。哀しみ、抒情というには強すぎる「響き(音楽)」を感じた。感情、抒情を否定する「論理構造」を動かす力を感じた。
そして実際にそこで動くことばは論理であり、意味なのだが…論理、意味を追い、それをつかむことによって谷川の悲しみが伝わってくるのだけれど。
でも、論理、意味で哀しみがわかるというのは、変だよね。
何か、論理、意味じゃないものがここにあるはず。それは何だろう。
対話である。
谷川は自問する形で、亡くなった人と対話している。「いやもしかすると」以下は谷川のことばだけれど、もしかすると亡くなった人が言っているのかもしれない。谷川と亡くなった人は「ひとつのこと」を違う角度からいうとどうなるだろうというような対話を無意識のうちに繰り返し、友情を深めてきた。そういう対話が、いま、ここに、「あの日」のようによみがえっている。
「あの日」のことばは思い出せなくても、いつでも対話を繰り返すことができる――といっても、それで哀しみが消えるわけではないが・・・
![]() | ミライノコドモ |
谷川 俊太郎 | |
岩波書店 |