詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(30)

2013-08-25 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(30)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 谷川はときどき少女(女性)を「話者」にして詩を書く。私はその詩がとても好きだ。「絵」も、その一篇。

女の子は心の中の地平線を
クレヨンで画用紙の上に移動させた
手前には好きな男の子と自分の後姿(うしろすがた)
地平に向かって手をつないでいる

 地平線を画用紙の上に移動させたのは、地平線によってできる野原(?)にふたりの姿を描きたかったからだ。頭が地平線の上にあるのではなく、あくまで地平線の下。地平線は遠く、その向こうは見えないのだけれど、そこにあるものを一緒に信じて歩いてゆくふたり。

何十年も後になって彼女は不意に
むかし描いたその絵を思い出す
そのときの自分の気持ちも
男の子の汗くささといっしょに

わけも分からず涙があふれた
夫に背を向けて眠る彼女の目から

 3連目が、突然世界を変える。「夫」は「男の子」と同じ人物だろうか。違う人物だろうか。同じ人物だとしても、むかしとは「雰囲気」が違ってしまったのだろう。「手をつないで」ではなく「背をむけて」という具合に。
 で、その突然の変化が、分裂になるのではなく「ひとつ」になる。「起承転結」の「転結」が一気におしよせた感じで、最初の「絵」を切なく浮かび上がらせる。楽しい、ほほえましい絵が、一気にせつなくなる。
 うーーん、短編小説のようだ。

 そう思うと同時に、あ、このこころの急激な変化は女そのものだ。男はこういう急展開の変化をしないなあ、とも思う。女が、くっきり、見える。
 ジョイスの「ダブリン市民」のなかの「死者たち」のラストのようでもある。
 すごい変化なのに、女はかわらないんだなあ、とも思う。かわらないから「せつない(かなしい)」ということも起きる。
 こういうことを10行で書いてしまうのはすごいなあ。


すこやかにおだやかにしなやかに
谷川 俊太郎
佼成出版社
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金井雄二「足音」、八木幹夫「翻車魚」

2013-08-25 10:19:56 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「足音」、八木幹夫「翻車魚」(「交野が原」75、2013年09月01日発行)

 金井雄二「足音」の前半。

レイ・ブラッドベリの短編小説を読んでいて
ふと気がついた
この小説は
以前読んだことがあると
犬が死者を連れて
やってくるという話
ぼくの頭の中に
かすかに
残っているのだよ
でも
ちょっと待ってくれ
この古い文庫本は
棚にずっと置き去りにされたまま
一度も開かれてなかったはずだ
いつか読もうと思って
そのままだったはずだ
だからこそ
今、ここで読んだのに
こんなに短い小説だけれど
多くの人たちの
冷たい
足音を聞いたようで
苦しい

 デジャヴ(でよかったかな?)感覚。さらりと書いているのだが、さらりの奥に「工夫」がある。ここには文体がふたつある。
 ひとつは書き出しの1行のように、長くて散文的なもの。もうひとつは、引用の最後の部分の「冷たい」「苦しい」という短いもの。それが呼応(?)する。長い部分は「いま(現実)」であり短い部分は感覚のなかの記憶(デジャヴ)。存在しないものが、「いま」を突き破って、過去から未来(まだ存在しない時間)へ噴出してゆく。この対比はおもしろい。
 さらに言うと。「レイ・ブラッドベリの短編小説を読んでいて」という固有名詞を含んだ長い1行のあと、

ふと気がついた
この小説は
以前読んだことがあると

という倒置法。これが、くせもの、というか、うーん、うまい。「以前読んだことがある」ではなく、「以前読んだことがあると」と「と」がある。「と」はあってもなくても「意味」としてはかわらない。「と」がない方がことばにスピードが出る。これは「以前」も同じ。あってもなくても「意味」はかわらず、ある分だけことばのスピードが鈍る。倒置法自体も、ことばのスピードを鈍らせる。読んだ後、一瞬引き返さないといけないからね。
で、こういう遅延(遅滞かな?)というのは、私はあまり好きではないのだが、この詩では、そういう遅滞があるために、短い行が鮮烈に輝く。
「ちょっと待ってくれ」からの6行も、散文的なのだが、その行があるから短い行の短さ、スピードが生きる。スピードがあるのに、ずん、と重く落ちてくる。長い「過去」を突き破ってきた感じがする。
金井は、こんなに技巧的な詩人だったんだ。



八木幹夫「翻車魚」は変身する詩。「真夜中に目を覚ました」とじつに散文的に、そっけなく始まるのだが、

たくさんの別れの
涙を流しすぎたので
目が水の中にある
身体も浮力がついて
軽い

あれっ、何かが逆転したね。どんなに涙がたくさん流れても、目が水(涙)の中にある、というのはちょっと違う。涙が角膜を覆うので、目が水の下(水の中)という感覚は分かるけれど、それはあくまで感覚的な事実。客観とは違う。
でも、詩だから、客観なんてどうでもいい。感覚を主体にして、現実(事実?)を突き破ってゆく。目が水の浮力の影響を受けるなら、身体全体も浮力の影響を受ける、
だけでなく、
も身体は人間の身体ではなく、水中を生きる魚になってしまう。

真夜中に目をさました
涙を流しすぎたので
わたしは
マンボウという
魚に
なってしまたようだ
トイレに行くのに
しきりに
背びれを立て
胸びれを翻している

この素早い変化、スピードが「感覚」特有のもの。頭で「論理」を積み重ねると、魚になり切れない。躓いて、とんでもないものになる。
で、そうしてみると(?)、頭なんていうものは、私が「あれっ、何かが逆転したね。」と書いたように、いちゃもんをつけて間違いの中に溺れてゆくことしかできないものであることがわかる。感覚(肉体)の方が、早く、真実をつかみとる。その把握が早すぎて、頭が戸惑う――というおかしみに、詩がある、ということになるのかな。

 最近、八木幹夫の歌集を読み、面白くなかった――と感想を書いたが、実際詩と比較すると、八木は短歌の人ではなく、詩向きなのだ。


青き返信―歌集
八木幹夫
砂子屋書房
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