建畠晢『死語のレッスン』(2)(思潮社、2013年07月25日発行)
建畠晢『死語のレッスン』の特徴は、ことばが「物語」のなかで動くということだ。きのう読んだ「葉桜の町」には「物語」というより「事件」があったといった方がいいのかもしれない。「事件」と呼ぶにしろ「物語」と呼ぶにしろ、私にはそんなに変わりがないのだけれど。無責任な言い方になるが、それは「日常」とは違う。「日常」はそういうことを体験しない。
建畠のことばは、どこか「日常」以外のものを求めている。で、「浮気(偶然のセックス)」のような「日常」も事件(物語)にしないことには気が済まないということが起きる。「新規の移動」。
どちらにしてもサイレント映画の筋書きのようなものだが
新規の移動をする私とスカートの娘に
今なお敷地からのジェラシーの風は配分されているのだ
「筋書き」、しかもそれは「サイレント映画の」と特徴づけられていることからわかるように、すでに存在するものである。いま、新しく起きる事柄ではなく、いわば繰り返される筋書き。繰り返されることで、明瞭になる「物語」。
「死語」ということばが建畠を動かしているように装われているが、私には「死語」とは「ことば」である前に「物語」(筋書き)であり、それは繰り返され続けるものの総称、反復されるものの総称のように感じられる。ことばは筋書きのなかで死んでゆき、筋書きだけが昔の儘残る。
――抽象的になってしまうが、これが私の左手日記の癖である。右手が使えないと、ことばを省略してしまう。具体的に書いている時間がない。書いている途中で考えは変わるが、その変化に指の運動がついてゆかないので、こうなってしまう。
脱線した。もとに戻ろうか。
反復した瞬間、「いま」が死ぬ。「いま」を語るすべてのことばが古い筋書き、存在する筋書きに従属しながら死んでゆく。
過去が今に引き継がれ、よみがえるのではない。そんなことは建畠のことばでは起きない。過去がよみがえり、新しい意味が動き出すということは起きない。
かわりに、「いま」にしか存在しない「いま」が死に、いまを語ることばがみんな死んでしまうのだ。すべてが「筋書き」を装飾するなにかになるだけなのだ。
その先に話があるわけではない
私は背後から撃たれることもなく、池にうつぶせで浮かぶこともなかった
そういうことを体験しないのに、そういうことがあるということを知っている。語ることができるのは、それが「物語」として存在してしまっているからだ。意識が知っている物語を反復することで、すべての事件は過去の物語のなかだけで起きる。
こういうとき、この「筋書き」のなかで、ことばはどう動くことができるか。何もできない。死んでゆくだけである。死ぬことだけが、逸脱なのだ。
感覚の意見になってしまうが――この静かな死語の行進は、たとえば岡井隆の詩の反対側を動いている。
建畠は死語を書くことで、論理というものが「物語」と大差のないものであると証明しているのかもしれない。あ、逆か。物語というものが「論理」と大差のないものであると証明しているのかもしれない。それは、ただ繰り返すことによって、繰り返すことを持続することによって、ことばを「意味」にしてしまう罠である。「意味」にならない繰り返しはない。
「轟云々、下駄云々」という作品では、
轟云々、下駄云々
轟云々、下駄云々
という「無意味」にみえる音が繰り返されるが、それさえも繰り返しの中で、
ああ、日ごとに繰り返される
遅い朝の外出
を「意味」するようになってしまう。「論理」といえばいいのか、「答え」といえばいいのか。――なんと呼んでもいいのだが、建畠は、論理の中で死んでゆくことばにそうように殉死することで、「詩語」になろうとしていると読むことができそうだ。
(やはり左手だけで書くのは難しい。けががなおったら、きっと違うことを書くだろうと思う。)