詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(22)

2013-08-17 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(22)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「夕景」。簡単に夕暮れの街をスケッチし、そのあと。

見慣れたここが
知らないどこかになる
知らないのに懐かしいどこか
美しく物悲しいそこ
そこがここ
いま心が何を感じているのか
心にもわからない

 ここがどこかわからないように、いまの気持ちがわからない。この「わからない」は、後者の「いま心が何を感じているのか/心にもわからない」は、わからないというより、言い表すことばがみつからない、ということ。そしてそれは夕暮れの街にも通じる。ここがどこであるかは知っている。でも、その名前で呼んでいた時とは違って感じるので、知っている名前で呼んでいいかどうかわからない。知っている、と結びつけると何かが違う。
 それは「覚えている」といっしょに生きている。覚えているから懐かしい。
 この矛盾の切なさ。いいなあ。

 ふつう、詩は、ここで終わる。抒情で終わる。でも、谷川は、その矛盾の定型、「流通抒情」から逸脱してゆく。

やがて街はセピアに色あせ
正邪美醜愛憎虚実を
闇がおおらかにかきまぜる

 うーーーーーーん。
 抒情を、「意味」がこわしてゆく。抒情にひたろうとするこころを、「正邪美醜愛憎虚実」という観念的なことばが壊してゆく。夕暮れは消えて、闇が現れ、闇の本質が突然語られる。
 すごい力技だなあ。
 夕暮れは、闇にかえる前の一瞬のことであると言いたいのかもしれないが、闇の魅力、魔力について語りたいのかもしれないが、そうなら、タイトルはなぜ「夕景」?
 たった14行の詩に、ふたつのことを書かなくてもいいのでは? と思うのは、私が古い詩にとらわれているためだね。
 詩の、激しい未来が、谷川のことばのなかにある。「激しい未来」というのは奇妙な、日本語ではないことばだけれど、そう呼びたい。


こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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水島英己『小さなものの眠り』(2)

2013-08-17 09:09:06 | 詩集
水島英己『小さなものの眠り』(2)(思潮社、2013年07月25日発行)

詩を読むとき、その「入り口」はどこだろう。私は、リズムである。このリズムについて語るのはとても難しい。私の肉体に合うか合わないかしか言えない。
水島英己『小さなものの眠り』についていえば、その大半が私のリズムではない。音が聞こえてこない。
唯一、とても気持ちがよかった詩がある。「Tangled up in Tongue」。「ロリータ」の引用から始まる。

「・・・・舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩目にそっと歯をたたく」
そこから物語ははじまる
姉は弟の舌に
父は娘の舌に
女神は
「私の舌をぬらした」
「した した した。耳に伝ふやうに来るのは 水の垂れる音か。」
「蝸牛螺旋巻(まいまいねじまき)、マ、ミ、ム、メ、モ。
梅の実落ちても見もしまい。」
「雷鳥は寒かろ、ラ、リ、ル、レ、ロ。
蓮花が咲いたら、瑠璃の鳥。」

 引用が説明抜きに結び付けられている。意味は飛躍し、ことばの道筋(ストーリー)は見当がつかないのに、一行一行の音が魅力的である。読んでみたい、と耳が騒ぐ。
白秋だと思うのだが「まいまいねじまき、マ、ミ、ム、メ、モ。」なんて、早口ことばみたいで、口蓋、舌、のどがぴくぴく動く。1行のなかにある音が意味をはなれて音楽になる。それがうれしい。
私は音痴だし、歌謡曲(いまは、もうこんな言い方はしないようだが)はピンクレディと山口百恵とサザンオールスターズの初期以後は知らないのだが、知りたくない理由が、音が聞こえないということにある。声が聞こえない。ことばは、文字を読めば追うことができるが、声を音として追いかけることができない。「現代詩」もだんだんそうなってきて、つらいなあ。
脱線したが、脱線ついでに、引用した作品の前のページには「坂」という詩の後半がある。

引き綱のような長い糸が紫色の空を背景にして
音もなく降りてくる
船や仏や家や豚、一切合財がその糸に織り込まれている

これ、読めます?
私は「音もなく降りてくる」は耳で読むことができるが、前後の2行はむりだ。音が多すぎて、響き合わない。肉体の中で、寸前に発した音がよみがえり、後押しするようにすすむ感じがしない。音が、肉体の中からあらわれてくる快感がない。
比較していいのかどうかわからないが、「まいまいねじまき、マ、ミ、ム、メ、モ。」は意味はわからないが、音を誘うでしょ? 真似して言ってみたくなるでしょ?
ことばは「言ってしまえば」それでいいのだ。いみなんて、あとからでっちあげたものにすぎない。つまり嘘に決まっている。わたしのこの文章にも、論理や意味があるように見えるかも知れないけれど、それは何度か同じことばが繰り返されるから、そんなふうに感じるだけのことだ。繰り返されると、何かが少しずつ、繰り返しの奥にあるものを思い出させる。それだけのことである。
そして、それだけのことなのだが、たぶんそのそれだけのことが大事。ことばには音があり、その音はかけ離れた音を引き寄せる。音に引き寄せられて動く官能がある。それが意味を遠いところで揺さぶり、ことばを解放する――そういう錯覚を引き起こすことばを、私は、感じない。

舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩目にそっと歯をたたく

「が」という濁音のくりかえし。「さんぽ」の繰り返し。「が」を鼻濁音で発音すれば「さんぽ」が「sampo」の「m」と響き合うこともわかる。つまり、「三歩」は単に舌の位置の表現だけではないことがわかる。
原文の英語では、どの音が響き合うのか、私の知ったことではないが。――と書くと、それは変だ、つじつまが合わない。非論理的だという声が聞こえてきそうだが。
どうして?
と、私は開き直る。
私は水島のことばを日本語として読み、日本語の音のことを言っている。ナボコフの原文の音など、私には関係がない。

どんどんずれていってしまうが、これが、今日私が感じたこと。
水島の作品に強引に戻って、思いつくことを言いなおせば、水島のことばの運動には「同伴者」がいるのだが、たいていの場合、その同伴者は「意味」として同伴する。そのため、そこには音(音楽)が入り込みにくく、ことばは軽さを欠いている。
これは、水島にかぎらず、私が最近の詩で感じていることでもある。


今帰仁(なきじん)で泣く
水島 英己
思潮社
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