丁海玉「融解」(「space」111 、2013年08月20日発行)
知らないこと、体験したことがないことでも「わかる」というのは、どういうことだろう。きっと「肉体」が、その「わからないこと」と重なり合う何か(何かのこと)を覚えていて、それが「肉体」を揺さぶるのだと思う。--だから、どんなときでも「動詞(述語)」が大事、動詞のなかへ「肉体」を投げ込むと、そこにある「肉体(筆者の肉体)」とセックスしたような感じになり、セックスがそうであるように、やってしまう(?)となんとなくこころまで通じたような錯覚に陥る。これを「誤読」と私は呼んでいるのだが、そういう「誤読」をすることが、私の趣味。大好きなこと。
ときには、「ヘンタイ! ばかやろう、あっちへ行け」と叱られることもあるのだけれど、まあ、気にしない。とういより、私はヘンタイだから、怒るひとを見て、「あ、怒った、怒った」と楽しくなる方。
で、きょうの「肉体」は丁海玉「融解」。丁海玉は私の記憶では法廷で通訳の仕事をしている。そのことを書いている。その法廷も、通訳も私の知らないこと(体験をしたことがないこと)なのだが、これがなぜか、「わかる」のです。「誤読」できるのです。
ことばを訳しながら私は男にかぶさる
男は私を持てあます
ゆるゆると音と音の境目が溶ける
男のこめかみに
青い筋が膨らんで
つたう汗が顎に向かってしずくになった
外国語を訳す--というだけではなく、ことばに触れる。そのことばを自分のことばで言いなおすというのは、それを言ったひと(書いたひと)に、そのまま自分が「かぶさる」ことだね。「かぶさる」は「一体になる」「ひとつになる」ということ。これを私はセックスと呼んでいるのだが、これがなかなかむずかしい。
「一体になる」つもりでも、どこか、あわない。何かが違う。ぴったりしない。そこで「持てあます」ということも出てくる。「持てあます」だけならいいけれど、そのぴったりこないところ、「境目」の「ずれ」みたいなものに、いらだつくこともある。そうすると、その「いらいら」が怒りになって、こめかみには青筋が立って、汗も滲んできて--というのは、もうセックスではなくなっているけれど、そういう「肉体」の動き、「肉体の内部で動き、こころが「肉体」の表面にまで出てきてしまう。--そういうことを私の「肉体」は「覚えている」ので、ここに書かれていることを、私が体験したことでもないのに、まるで体験したことを思い出すように、目の前に見てしまう。見えてしまう。
こういう一瞬が、いいなあ、と思う。セックスの快感とは違うのだけれど、私が私の外へ出てしまって(エクスタシー)、私ではなくなってしまう。丁海玉になってしまって、そこにいる。これを「一体になっている」と言いなおすと、またセックスになるけれど。
と書いてしまうとセックスにこだわりすぎた脱線になってしまうかもしれないけれど、私がことばを読んで感じるのは、そういうことである。
で、この詩のおもしろいのは、法廷なのだから、そこで展開される「論理(ことばが描き出す事実)」がいちばん重要なのだけれど、人間は「肉体」をもっているので、そういう抽象的な「論理」だけを相手にするわけではないということ。現実には、省エネ(節電のため?)、法廷も室温が28度におさえられていて、暑い。汗が出てくる。でも、汗をふくハンカチがないという、という問題に直面する。
で、
ここには窓がない
空調のボタンもない
体温調節は各自で行わなければならない
しずくが落ちて床に染みないように
それぞれが
拭き取るものを持参することになっている
「体温調節」云々の4行は法律(決まり?)で定められているわけではないだろうけれど、まあ、気持ちとしてそうなんだろうね。
「体温調節は各自で行わなければならない」というのは、「状況」の説明なのだけれど、なんとも不思議。汗が出てきて困る、という「肉体」が「覚えていること」を刺戟する。「体温調節」なんて、しようと思ってもできないよ、と「肉体」が反論している声が「肉体」の内部から聞こえる。自分でできないからこそ「空調」があるんだろう、といらだっている声が聞こえる。
そういう声を丁海玉は書いているわけではない。でも、そういうことばを読んでしまう。聞いてしまう。つまり「誤読」してしまう。で、その「誤読」のなかで私は勝手に丁海玉と「一体になる(セックスをする)」。
そして、
(ハンカチを忘れてきた
このことばを、自分の「肉体」の「覚えている声」そのものとして、いっしょに 「声」に出す。その「声」には、男の「声(肉体の内部の声)」も重なる。
男は手にした借り物のタオルを
使おうとしない
代わりにめがねを外し
かっと眼をひらいて部屋をみまわした
もうすぐだ
塩をふくんだしずくが床へ落ちる
法廷で争われている「事実」と「肉体」は「一体」にはならないが、そこにいる男と、そして男のことばを通訳する丁海玉の「肉体」は「一体」になり、その「一体」に私もかぶさっていく。暑さにいらだつ「肉体」、その「覚えていること」を思い出しながら。
「肉体」が「覚えていること」を思い出させる力が「動詞」にはある。「動詞」を中心にことばを読むと、いつでもことばのセックスが始まる。ことばの肉体がセックスをしはじめる。
*
中上哲夫「アメリカはいつも雨だった」は、「動詞」ではなく、「ことばの言い回し」が直接「ことばの肉体」にセックスしようよ、と秋波を送ってくる。
東京国際空港で飛行機に搭乗したときからぽとぽと
落ちてきた
シカゴ国際空港でローカル線に乗り換えて
草ボーボーの飛行場に降り立ったときには
犬や猫がふってきた
雨具の準備もないままに
雨季に入ってしまったのだ
土地のひとたちは傘もささずに歩いていたのに
ひとり鼠のように濡れて歩いていたのだ
わたしが夢想したのは
朝
目覚めたときに雨がやんでいることだった
中上は「雨男」だね。--ということは、おいておいて。
「ぽとぽと」という雨の降る様子。「ボーボー」という草の繁る様子。それは何気なく口にしているけれど、実際に「ぽとぽと」という音や「ボーボー」という音が聞こえるわけではない。「日本語の肉体」になってしまっていることば、無意識(意識がない/意識ではない)、つまり「肉体」だね。そういうものが、私の「ことばの肉体」に接近してくる。「色目」をつかって、迫ってくる。中上がどういう「意味」でつかったかわからないけれど、私の「肉体」が覚えている何かが、そのとき呼び出され、中上の「肉体」と向き合うことになる。「そのことば、私を誘っているでしょう(その目つき、いま、誘ったでしょう)」ということになる。
「犬や猫がふってきた」と「土砂降り」をあらわすときの英語の表現が日本語に翻訳されている。そういう「ことばの肉体(慣用になってしまって、意味を考えない)」が私に近づいてくる。「鼠のように濡れていた」も「濡れ鼠」という「日本語の慣用句」とし私に近づいてくる。なぜ、犬? なぜ、猫? なぜ、鼠? そういうとは考えない。考えるということを放棄して、「肉体」が近づいてくる。その「動き」が見える。
その近づいてきた「ことばの肉体」と交わり、あ、中上はこういうことばをつかうのか、と思うところから「ことばの肉体のセックス」が始まる。こんなセックスは技巧的で燃えない、と思うか、あ、この軽い感じが欲望丸出しではなくていいなあ、と思うかは、そのひと次第だね。
比較対象の範囲内で言えば、私は、中上のことばよりも丁海玉のことばの肉体の方にひかれるね。
*
草野早苗「訪問」はかなり交通の便の悪いところを訪問する詩だが、
川の向こうにも凝灰岩の壁がそそり立つ
白みを帯びた岩壁は頑なで
ところどころ墨汁のような汗が流れている
「墨汁のような」という比喩が「本物(草野の肉体が覚えていること)」を感じさせる。
(ギプスがとれて、親指シフトのキーボードがつかえようなると、急に「肉体」ということばが暴れ出した。私は考えながらキーボードを打つわけではなく、ブラインドタッチで指を動かし、それがことばになっているので、自然にそういう変化が出てしまったのだが、うーん、肉体とことばは、私がうすうす感じていること以上に密接かもしれないと思うのだった。)