谷川俊太郎「こころ」再読(10)
きのう「頭」について少し書いたせいか、「アタマ」ということばの詩があらわれた--というのは、変な言い方だが。つまり、私が「頭」について書こうが書くまいが、詩集には関係がない。だいたい詩集の成立が先にあって、それに対して私が感想を書いているだけ。「水のたとえ」「曇天」という詩の順序は変わらない--というのが客観的事実なのだけれど、人間の感想というのは客観的事実とは無関係に動く。
私が「頭」を批判したから、詩集がひそかに順序を変えたのだ。私の読んでいる詩集では「水のたとえ」「曇天」とつづいているが、別のひとの読んでいる詩集では、その順序は違うかもしれない。
と、私は「非常識」なことを考えるのである。感想だから。
で、その「曇天」
「アタマ」と「ココロ」はどういう関係にあるのだろう。悪魔も天使も(つまり正反対のものが)、同じように「アタマ」と「ココロ」の合作であるのなら、どうして正反対のものができたのかな? わからないけれど、わかるね。そういうものなのだ。世の中は、そういう天の邪鬼なものなのだ。ココロとアタマのどっちが天の邪鬼かわからないけれど、してはいけないということをしたくなる、したくないことだってしてしまうからおもしろい。--どんな動き(運動)も、それが動くとき「反作用」のようなものがあって、それは外部に対して働くだけではなく、自分自身の内部にもわからない形で蓄積し、あるとき噴出するものなのかもしれない。
なんてことはどうでもいいけれど。
2連目の「ココロに向ってアタマはつぶやく」以下は、とってもおもしろい。
あ、どうでもいいことではなく、きっと大切なことなんだね。
ほんとうはもっと考えないといけないことなんだろうけれど、「意味」にならないようにするのが、今回の「日記」の目的。
なんて、思っていたら。
3連目。これが、また不思議。
「無心」って、何?
この詩を読むかぎり「ココロ」がないということではなく、「アタマ」がない、ということだね。
「アタマ」の苦情を置き去りにして、ココロは海と空を飲み込んでいる。でも、それって「飲み込む」でいいのかな? 飲み込まれるという感じもする。きっと「飲み込む」ことが「飲み込まれる」こと。だって、海と空を飲み込んでしまったら、ココロには「ただよう」場所(空間?)がない。場所がないから「無心」なのかもしれないけれど、そうすると「無心」とは「無場」のこと。言いなおすと、場にとらわれないこと?
実際に、詩人は曇天の空と海に向き合っているのだから、場にとらわれないとは、場を超越すること? 無心とは場の超越? 時間の超越?
もっと簡単に言いなおすと、場とか時間とかいうものはアタマで考えるものだから、無心とはアタマの超越?
それなら、なぜ「無頭」ではなくて、「無心」なんだろう。
あ、だんだん、めんどくさくなるぞ。
おおい、いま動いているのは、アタマなのかい? ココロなのかい? アタマとココロは「いっしょになって」「力を合わせて」、どんなことばの迷路を創っているんだい?
私は私のココロとアタマに向って叫んでみるが、それ以上ことばを動かすとめんどうになるからやめておけ、という声が聞こえた。
だから方向転換。
1連目。曇天をみつめる。「楽譜のように目がそれをたどっていると」の「楽譜」がおもしろい。びっくりする。灰色の変化が谷川には楽譜に見えるのか。目で何かを見ると、そこから音が始まるのか。その音は「音楽」になっていく。育っていく。
2連目は逆だね。「目をつぶる」。そうすると音が聞こえる(音が始まる)のだけれど、それは音楽には育たない。……ではなく、音が「意味」を消していく。「形容詞」「名詞」「動詞」という「意識」を消していく。声になろうとする声を消していく。
どうやら谷川にとっては、「音楽(ハミングできるもの)」と「意味(ことばの文法/分類)」は反対のものらしい。
音楽のなかに意味はなく、意味のなかに音楽はない。
そして、そんなようなことを考えた瞬間に、「アタマ」があらわれる。
目と耳とアタマ(声)の、谷川独自の「一体」の動きがここにある。
この1連、2連だけでは断言はできないけれど、谷川の「肉体(思想)」の根幹のようなものがむき出しになっている。
きのう「頭」について少し書いたせいか、「アタマ」ということばの詩があらわれた--というのは、変な言い方だが。つまり、私が「頭」について書こうが書くまいが、詩集には関係がない。だいたい詩集の成立が先にあって、それに対して私が感想を書いているだけ。「水のたとえ」「曇天」という詩の順序は変わらない--というのが客観的事実なのだけれど、人間の感想というのは客観的事実とは無関係に動く。
私が「頭」を批判したから、詩集がひそかに順序を変えたのだ。私の読んでいる詩集では「水のたとえ」「曇天」とつづいているが、別のひとの読んでいる詩集では、その順序は違うかもしれない。
と、私は「非常識」なことを考えるのである。感想だから。
で、その「曇天」
重苦しい曇り空だが単調じゃない
灰色にもいろんな表情があって
楽譜のように目がそれをたどっていると
ココロが声にならない声でハミングし始める
昨日あんなつらいことがあったのに
目をつぶると今度は北国の波音が
形容詞を消し名前を消し動詞と疑問符を消す
「おれにはおまえが分からんよ」
ココロに向ってアタマはつぶやく
「おれたちはいっしょになって悪魔を創(つく)った
力を合わせて天使も創った
それなのにおまえはおれを置き去りにして
どこかへふらふら行ってしまう」
空と海を呑(の)みこんで
ココロはひととき
「無心」にただよっている
「アタマ」と「ココロ」はどういう関係にあるのだろう。悪魔も天使も(つまり正反対のものが)、同じように「アタマ」と「ココロ」の合作であるのなら、どうして正反対のものができたのかな? わからないけれど、わかるね。そういうものなのだ。世の中は、そういう天の邪鬼なものなのだ。ココロとアタマのどっちが天の邪鬼かわからないけれど、してはいけないということをしたくなる、したくないことだってしてしまうからおもしろい。--どんな動き(運動)も、それが動くとき「反作用」のようなものがあって、それは外部に対して働くだけではなく、自分自身の内部にもわからない形で蓄積し、あるとき噴出するものなのかもしれない。
なんてことはどうでもいいけれど。
2連目の「ココロに向ってアタマはつぶやく」以下は、とってもおもしろい。
あ、どうでもいいことではなく、きっと大切なことなんだね。
ほんとうはもっと考えないといけないことなんだろうけれど、「意味」にならないようにするのが、今回の「日記」の目的。
なんて、思っていたら。
3連目。これが、また不思議。
「無心」って、何?
この詩を読むかぎり「ココロ」がないということではなく、「アタマ」がない、ということだね。
「アタマ」の苦情を置き去りにして、ココロは海と空を飲み込んでいる。でも、それって「飲み込む」でいいのかな? 飲み込まれるという感じもする。きっと「飲み込む」ことが「飲み込まれる」こと。だって、海と空を飲み込んでしまったら、ココロには「ただよう」場所(空間?)がない。場所がないから「無心」なのかもしれないけれど、そうすると「無心」とは「無場」のこと。言いなおすと、場にとらわれないこと?
実際に、詩人は曇天の空と海に向き合っているのだから、場にとらわれないとは、場を超越すること? 無心とは場の超越? 時間の超越?
もっと簡単に言いなおすと、場とか時間とかいうものはアタマで考えるものだから、無心とはアタマの超越?
それなら、なぜ「無頭」ではなくて、「無心」なんだろう。
あ、だんだん、めんどくさくなるぞ。
おおい、いま動いているのは、アタマなのかい? ココロなのかい? アタマとココロは「いっしょになって」「力を合わせて」、どんなことばの迷路を創っているんだい?
私は私のココロとアタマに向って叫んでみるが、それ以上ことばを動かすとめんどうになるからやめておけ、という声が聞こえた。
だから方向転換。
1連目。曇天をみつめる。「楽譜のように目がそれをたどっていると」の「楽譜」がおもしろい。びっくりする。灰色の変化が谷川には楽譜に見えるのか。目で何かを見ると、そこから音が始まるのか。その音は「音楽」になっていく。育っていく。
2連目は逆だね。「目をつぶる」。そうすると音が聞こえる(音が始まる)のだけれど、それは音楽には育たない。……ではなく、音が「意味」を消していく。「形容詞」「名詞」「動詞」という「意識」を消していく。声になろうとする声を消していく。
どうやら谷川にとっては、「音楽(ハミングできるもの)」と「意味(ことばの文法/分類)」は反対のものらしい。
音楽のなかに意味はなく、意味のなかに音楽はない。
そして、そんなようなことを考えた瞬間に、「アタマ」があらわれる。
目と耳とアタマ(声)の、谷川独自の「一体」の動きがここにある。
この1連、2連だけでは断言はできないけれど、谷川の「肉体(思想)」の根幹のようなものがむき出しになっている。
自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫) | |
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