詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(31)

2013-08-26 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(31)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 詩の話者はだれか。「午前四時」という作品。

枕もとの携帯が鳴った
「もしもし」と言ったが
息遣いが聞こえるだけ
誰なのかは分かっているから
切れない

無言は恐ろしい
私の心はフリーズする

 谷川自身とも読むことができる。ところが、私は、谷川自身よりも、谷川ではないだれか、若い女性を思い浮かべてしまう。若いといってもティーンエイジャーではない。18歳くらいから20代の後半くらいまでの女性を思い浮かべてしまう。
 さらに電話をかけてきた相手は男で、彼とは恋愛関係にあったのだが、いまは関係がややこしくなっている、というようなことまで思い浮かべてしまう。
 そして、そういう状況にある若い女性が、こころを凍らせているところを想像する。
 なぜだろう。
 最近(といっても、数か月というよりは、ここ 2- 3年)、ストーカーなどが話題になっているからだろうか。「無言電話」がいやがらせとして社会的に「認知」されているからだろうか。
 そうだとして。
 どうして谷川は若い女性を「話者(主人公)」にして詩を書くことにしたのだろうか。いや、どうして私は谷川が若い女性を「話者」にしていると感じたのだろうか。
 どこかで、私は若い女性を「枠」にはめてとらえているのだろうか。

 この疑問は疑問として、そのまま保留して。
 次の展開に私は驚く。

言葉までの道のりの途中で
迷子になった二つの心を
宇宙へと散乱する無音の電波が
かろうじてむすんでいる

朝の光は心の闇を晴らすだろうか

 これが、若い女性のことばとは思えない。--というのは、私が若い女性をある一定の「枠」でとらえているという証拠であり、谷川は、「流通女性像」にとらわれず、自在にことばを動かすことで、そこに新しい女性を産み出していることになる。
 「宇宙へと散乱する無音の電波が」の「宇宙」は、私には「谷川語」に見える。その「谷川語」をかかえたまま、谷川は若い女性になっていく。若い女性と「ひとつ」になる。この「融合」の仕方が、なんともすごい。
 自在とは、こういうことをいう。谷川以外に、こういうことばの展開はできないと思う。「私の心はフリーズする」というようなことばをつかったあとでは、どうしたって「やばくない?/やばいっすね」というような、「若者ことば」を動かすことで「話者」を浮かび上がらせがちだが、そういう「読者」の想像力(流通想像力)を谷川は、すばやく裏切って、詩をさらに別次元へと切り開いていく。







こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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ピーター・ウェーバー監督「終戦のエンペラー」(★)

2013-08-26 10:08:03 | 映画


監督 ピーター・ウェーバー 出演 マシュー・フォックス、トミー・リー・ジョーンズ、夏八木勲

 トミー・リー・ジョーンズがどんなふうに天皇を裁くのか、天皇と向き合うのか--それを楽しみに見たのだが。
 期待外れ。
 映画は、マッカーサーが主役ではない。マッカーサーの部下の日本通の兵士が主役。マシュー・フォックスが開戦、終戦に天皇がどう動いたかを調べる過程を追う。天皇の側近や軍部の幹部と面会しながら事実を探る。
 それだけならおもしろくなったかもしれない。そこに恋愛が絡んでくる。日本の女性がマシュー・フォックスの恋人で、マシュー・フォックスは天皇の戦争責任を調べると同時に恋人の消息も探している。
 若い男にとって恋人の消息と、天皇の戦争責任の追及は「同じもの」なのかもしれないけれど、これは、ちょっとねえ。あまりにも戦争責任というものをあまく見ていない? 同時並行で調べるのにはむりがない?
 ここに描かれている天皇の姿が「真実」かどうか知らないが、これでは、ご都合主義のフィクションに見えてしまう。ほんとうに、そうだったの? 逆に疑問がわいてくるね。いま、なぜ、こんな映画?

 映画のなかでは、唯一、夏八木勲が天皇を信じきって演技していて、彼が登場するシーンだけ不思議な充実感があった。
                        (2013年07月39日、天神東宝3)


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林嗣夫「明るい余震」

2013-08-26 09:12:10 | 詩集
林嗣夫「明るい余震」(「兆」159 、2013年08月01日発行)

 林嗣夫「明るい余震」を読んでいて、一瞬タイトルを忘れた。

近くの畑に枝豆の種を植えて
庭の蛇口で手足を洗って
立ち上がったとき
そばの これから咲こうとするアジサイの花房で
日光浴をしていたトカゲが
ぴょーんと
下に向かってダイビングした
宇宙遊泳するように

いや
わたしが立ち上がったからトカゲが驚いたのか
トカゲが光ったからわたしが立ったのか
それとも何か
例えば
先ほど植えた枝豆のせいだったのか
アジサイの小枝が揺れた

 「アジサイの小枝が揺れた」から「地震(余震)」を思い浮かべればいいのかもしれないけれど、地面が揺れる感じがしない。トカゲがダイビングする感じがいいなあ、宇宙遊泳か、とこころが別な方向に動いて行ってしまう。
 で、最後の連。

トカゲはダイビングして
どこの木の下闇に潜ったのだろう
わたしは屋根の下に隠れたのだが
しばらく
明るい宇宙の
余震がつづいた

 あ、「宇宙の余震」か。
 林が立ち上がり、トカゲがアジサイから飛び下りる。そこにどんな繋がりがあるか。わからないけれど、それは「宇宙」で起きたことがらなのだ。宇宙は、そのことに驚いて、まだ揺れている。
 宇宙はどこからでも揺れるのだね。

 (きょうから右手もつかってみる。恐る恐る、である。ことばがなかなか動かない。ことばは、やっぱり頭だけで動かすものではない、ということを実感する日々。--ということで、短い感想。)
 

風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス
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