詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆『ヘイ龍カム・ヒアといふ声がする(まっ暗だぜつていふ声が添うふ)』(2)

2013-08-06 23:59:59 | 詩集
岡井隆『ヘイ龍カム・ヒアといふ声がする(まっ暗だぜつていふ声が添うふ)』(2)(思潮社、2013年07月20日発行)

 岡井隆『ヘイ龍カム・ヒアといふ声がする(まっ暗だぜつていふ声が添うふ)』の感想のつづき。
 東日本大震災の日、岡井は歩いて帰宅しようかな、いや、それはまるで万葉集を白文で読むようなもの、とあきらめ、地下鉄で帰ろうとする。でも地下鉄が動かない。ではJRは? JRはシャッターを下ろしてひとを拒んでいる。しかたがない、初心にかえって歩こうとする。その途中で「臨時避難所」で一夜を明かし、

結論だけいふと「小草壮丁と小草助壮丁と潮舟の並べてみれば小草
勝ちめり」(『万葉集の鑑賞及び其批評』)の赤彦へ還へつたわたしは
東歌の示唆するままに素直に小草をえらんであかつきの潮舟すなは
ちタクシーを拾い五日市街道沿ひに一気に帰還した ただし帰宅と
いつたつて<家>だらうか 東国は武蔵の野の中に建つマンション
の一室に待つ妻といふ家のもとへ帰つたのだつた

 とういうことになる。
 簡単に言いなおすと、東日本大震災の日、岡井は家になかなか帰り着けなかった。地下鉄は動かない、JRも動かない。無理とはわかっていても歩いて帰るしかない。その帰路の途中で避難所で一夜を明かし、ようやつくかまえたタクシーで帰った。--何人かが体験したのと同じことが書かれている。結論としては。
 で、詩は、その結論にはない。
 詩は、結論とは無関係に逸脱していく部分にある。
 私が引用した最後の部分に、島木赤彦の「万葉集」の歌に対する「読みくだし(? でいいのかな)」が引用されているが、詩の途中途中に万葉集が出てくる。そしてそれは、必ずしも作品の「意味」そのものと状況がパラレルに重なる(?)わけではない。つまり、東日本大震災のときの岡井の苦労を万葉集が代弁するわけではない。それなのに万葉集が顔を出す。この逸脱(?)の仕方が、なんとも楽しい。苦労して帰宅した岡井には申し訳ないが、楽しい。

 詩を逆戻りして、JRにも閉め出されているとわかったとき、

そこで迷いが来た 初心にかへれつて声がした「それならば、先づ
第一に、どんな歌集に親しめばよいかといふことになります。それ
には、私は躊躇するところなく、万葉集を挙げます」(島木赤彦)
のその万葉の「あしびきの山川の瀬の鳴るなべに弓月が嶽に雲立ち
わたる」のつよいリズムはそのとき雲が出た空のやうにかき消され
てゐてわたしは迷つた挙句歩き出してゐた(白文でよむのは止めた
筈ぢやないの?)
  
 万葉集を読む。それが歌人の初心。それには岡井も同意しているんだね。でも、その万葉から「あしびきの……」が引用されているのはなぜ? たまたま、そのとき岡井は月が雲にかくれてという状況にいて、そこからふと思い出したのだろう。でも、それは岡井が書いているように「強いリズム」そのものが岡井に作用して、岡井を歩かせたというわけではないね。逆だね。万葉の歌は強いリズムをもっているが、そのリズムがそのまま岡井を肉体を動かすのではなく、逆に、迷わせている。
 この逸脱が楽しいというか、不思議というか、いや、納得がゆくというか。ひとはいつでも、その状況にぴったりの何かに頼るわけではない。反対のものを思い浮かべたりする。そういう揺れ動きが、なぜかおもしろい。
 たぶん。
 私は、そういう状況のとき万葉なんか思い浮かべない。島木赤彦なんて思い浮かべない。いいかえると、そこには私とはまったく違った人間が生きて動いている、ということを発見するのである。あ、こんなときに、こんなことを考える? それが、おかしく、おもしろい。
 岡井の「肉体」のなかには、私とは無関係な時間が流れていて(あたりまえだけれど)、それがこんなふうにして噴出してくるのだ。そして、その噴出は、岡井の「日本語」がどんな具合に成り立っているかを少しずつ見せる。岡井の「肉体」の表層(たとえば、白髪だとか、顔のしわとか)ではなく、「体幹筋肉」を浮かび上がらせる。まるでナントカメソッドの筋肉解剖図みたい。
 で、私はそれを正確に読みとることはできないのだが、うーん、そうか。これは美しいなあ、と思うのである。岡井の「体幹筋肉」のつき方が日本語にとって最適なものであるかどうかはわからないが、いやあ、体幹筋肉というのは衰えないんだ。逆に年とともに鍛えられていくんだ--とも思う。
 その一方で、

                        ただし帰宅と
いつたつて<家>だらうか 東国は武蔵の野の中に建つマンション
の一室に待つ妻といふ家のもとへ帰つたのだつた

 という卑俗な(?)視点のサービスも忘れない。「一室に待つ妻」。あ、ちゃんと待ってるんだ。(あたりまえかもしれないけれど)。「待つ」ているから「妻」なんだ。「妻といふ家」か。そうか、家は建物ではなく、妻の存在によって決定づけられるのか……とか、これって、万葉からかわらない感情(意識?)かどうかわからないが、万葉が読めなくてもわかる感情(というより、暮らし方、だな)が、ぱっと広がってくる。

 岡井の作品には複数の声がある。そして、それは複数なのだけれど、どこかで基本的な日本語の「体幹筋肉」とつながっている。時代が変われば暮らしの中にある調度も変わってくるから、同じ筋肉をつかって生きるわけにはいかない、ということがそこに反映しているといえるかもしれない。
 むき出しになる「筋肉」を、現在という皮膚でしなやかにつつんで人間を浮かび上がらせる、とっつきやすくさせている。おもしろいね。どこを読んでも、飽きるところがない。

ヘイ龍(ドラゴン)カム・ヒアといふ声がする(まつ暗だぜつていふ声が添ふ)―岡井隆詩歌集2009‐2012
岡井 隆
思潮社
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谷川俊太郎『こころ』(11)

2013-08-06 11:59:40 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(11)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 07月30日に右腕を負傷。思いのほか重傷で、昨日からギプスで固定。親指シフトのキーボードが使えない。詩は引用せずに、感想だけをメモする。
 「建前」(26ページ)。
 しばしば語られる本音と建前の関係を書いている。3連目の

建前にヒビが入っている
そこから本音が滲み出ている
決壊前のダムさながら

 というのは、ちょっと「流通概念」っぽいかな。だれでもダムを壊してみたい。本音をぶちまけてみたい――というのは、しかし、ある意味では「建前」かもしれない。「本音」の「流通定義」という気がしないでもない。いいかえると、3連目だけを読むと(結論だけを読むと)、谷川独自の「ことば」がみあたらない。私にはそう感じられる。
 でも2連目は違う。

建前よ
おまえは本音を狂わせる

 建前は本音を隠す。押し込める。押し込められるのはいやだ。暴れて本音は狂う。
 これも「流通定義」を短く言い直したものかもしれないが、

高い塀で囲いこんで
守っているつもりの本音が
いつか暴動を起こしたらどうするんだ

 本音を閉じ込める、ではなく「守る」。本音を守りたいから、本音はほんとうの自分だから「守る」。本音は、実現されないと、意味はないのに、囲いこむ形で「守る」。
 でも、囲いコムは「守る」ではなく「閉じ込める」かもしれない。本音にとっては「閉じ込められる」になるかもしれない。
 「囲いこむ」は立場が違えば「意味」が違う。矛盾したものになる。
 あれっ、これって、建前と本音みたい。建前と本音は立場が違えば意味が違う。相手次第で、建前が本音、本音がかわる。――この「矛盾」を谷川は2連目に、軽快なスピードで書いている。



やっぱり片手では書けないなあ。





こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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