岡井隆『ヘイ龍カム・ヒアといふ声がする(まっ暗だぜつていふ声が添うふ)』(思潮社、2013年07月20日発行)
岡井隆『ヘイ龍カム・ヒアといふ声がする(まっ暗だぜつていふ声が添うふ)』は詩歌集--というけれど、詩と短歌のほかにも対談、エッセイも含まれている。私は短歌は詠む習慣がないせいか、なかなか読み進められない。
で、前半の詩の感想を、まず書いてみる。
いま、私は思い立って、谷川俊太郎『こころ』の感想を、批評になる前の感じでだらだらと書き流しているのだが、私の印象では、岡井と谷川はまったく違う。そのことを書いてみる。--前書きの追加の前書きみたいになってしまうなあ。
以前、谷川に初めてあったとき、私は、一篇の詩を選ぶなら「父の死」だけれど、一冊の詩集を選ぶなら『注解する者』かな、というようなことを話した。そのとき谷川の詩は美しい平屋の一軒家みたいだけれど、岡井の詩は地下が何十階もありそうなビルという感じ、という印象を話した。(初対面なのに、かなり乱暴で、無礼な話し方だね。私は、ひとと会うことが少ないので、誰に対しても乱暴な発言になってしまうなあ--と、いまごろ反省しても遅いのだけれど。)
で、そのときの岡井の詩の感想のつづきのようなものを書こうと思う。
岡井のことばを「建築物」にたとえると、やっぱり巨大なビル。それも地上よりも地階の方が多いという感じ。そのうえ、そんなに地階が深いなら、上の方は軽く繊細に造ってもいいと思うのだが、なんといえばいいのか--機能美(?)を無視して突然どっ太い柱がフロアのある部分を突き破って最上階まで貫いたり、梁(?)がこれまた信じられないくらい頑丈なものが天井を走ったりという感じがする。で、それは一種の異様な感じ(見かけを破壊する感じ、スマートからは遠い感じ、現代的ではないという感じ)がするのだけれど、なぜか、その部分に引きつけられる。異様なのに、そこに必然的な美がどっしりと居すわっている感じがする。
これは一体なんなのだろうなあ。
谷川との比較をここで始めるのは、またしても乱暴なのだけれど、私の感覚の意見で書いてしまうと、谷川のことばに比べると岡井のことばのなかには「万葉集」と「歴史的仮名遣い」があって、それが違うなあ、という感じ。
谷川も「万葉集」は読んでいるだろうけれど、「肉体」にしみこんでいるという点では岡井の方がしみこんでいるだろうなあ。なんといっても短歌を日常的につくっているし。で、万葉のことばの強い音楽性が、どこかで岡井のことばを律してる。
「歴史的仮名遣い」という点では、谷川も使いこなせるかもしれないけれど、日常的にはつかっていないね。岡井は日常的に歴史的仮名遣いでことばを動かしている。それを私たちは日常的に読んでいる。
万葉の音と歴史的仮名遣いというのは、日本人にとっては(日本語にとっては)、「肉体」でいうと「体幹筋肉」のようなものなのだと思う。それがしっかりしていると体全体がぶれない。動きが安定する。何か変な運動をしても、それを基本姿勢にぐいとひきもどして、そこから次の動きを動かすときの土台になる--そういう感じ。
岡井の詩を読んで、突然出てくる異様なものにびっくりするけれど、その異様な力が全体をきちんとささえる巨大な柱、梁という感じで、私には迫ってくる。谷川の詩の場合は、そういう異様さはない。谷川のことばはスマートだね。
谷川のことばの場合は「体幹筋肉」というよりも頭で合理的に整えられたそれぞれの筋肉という感じ。見かけ(?)は谷川の方が美しく、合理的で、わかりやすい印象がある。岡井のことばは不合理でわかりにくいが、あ、こんなふうに動かすかぎり体は動くんだなあということを、「肉体」で感じる。
抽象的なことを書きすぎたかな……。(実は、私はいま右手をけがしていて、手のひらを下に向けると、肘がとても痛い。キーボードを叩くと手首にも違和感がある。右手と左手ではキーボードを叩くスピードが違って、ことばが、とってもぎくしゃくして動く。私は「頭」ではなく、手でことばを動かしているのかもしれないなあ--と、言い訳にならない言い訳を書いておく。右手と左手のバランスが違ったからといって、書いていることが抽象的になるとはかぎらないよね。論理が乱れ、飛躍する理由にはならないよね。でも、たぶん、けがをしているから、右手が痛いからこんな書き方になっているのだと思う。どこかをかばい、省略しているのだ、私は。無意識の内に。)
「帰宅困難者の帰路探し/万葉集入門」を読んでみる。原文はルビつきなのだが省略する。東日本大震災の日のことを書いている。
これは詩の書き出し。「玉剋春……」というのは、空で引用したのか、出典にあたりながら書いたのかわからないけれど、何か、ひとを驚かすものがある。少なくとも私はびっくりする。なぜ、こんな未加工な(?)鉄筋むき出しみたいな日本語の土台がここに出てくるのかわからないのだけれど、それが「たまきはる……」と書き直される過程で、わけがわからないけれど、そうか、何かがわかるようになるためには、こういう「手順」のようなものが必要なのだなあ、と納得できる。
あの日の地震は「玉剋春……」のようにわけがわからない。それがさまざまな情報で「大地震」という具合に整理されて、理解できるものになる--と書くと、これはこれで、嘘になってしまうが。
頭では説明できない「うねり」を「体幹」で受け止めながら整えていく感じがするのである。
「古今集」ではだめなのである。
最初の「日本語」の力にかえって、そこから「いま/ここ」をつかみなおそうとする無意識が岡井に働き、「白文万葉集」「万葉集」というものを思い出させ、さらには斎藤茂吉の「万葉秀歌」を思い出させた。岡井は、そこに「日本語の体幹筋肉」のあり方をみているのだろう。無意識に、その「体幹」に合わせているのだろう。
で、そういうものに触れて、「体幹」からことばを動かしているので、岡井のことばは読点「、」なしの長い文章なのに一気に読むことができる。その途中には「これはまあ」「やはりそこは」というような口語の口癖のようなものも入っているのだが、それがなぜか、すっと私の「肉体」に近づいてくる。とてもなじみやすく、その口語のリズムと音の具合が、岡井の長い文を支えていると感じるのだ。
いま引用した部分からは「歴史的仮名遣い」の力というものについて語ることはできないのだが(私には具体的な例をあげることができないのだが)、歴史的仮名遣いのいちばんの魅力は、動詞と名詞が溶け合うことである。動詞派生の名詞が歴史的仮名遣いだと、動詞のなかにすーっと一体化して溶け込む。
「思ふ(う)」は、四段活用の動詞だが、「思い」と「思惑(思わく)」は現代仮名遣いでは「おもい」「おもわく」と何かことばが分離してしまうが、歴史的仮名遣いでは「おもひ」「おもはく」と「は行」の活用のなかでつながる。この「つながり」が、たぶん、ことばの「体幹」のようなものだと思うのである。「体幹」がしっかりてしいると、ことばが次々に「派生」して変化できる。変化しながら、基が何であるか感じることができる。
私は万葉集を読むわけでもないし、歴史的仮名遣いでことばを動かすわけでもないのだが、岡井のことばの動きに触れると、そこには私の身につけてこなかった日本語の「体幹筋肉」が躍動していると感じ、それに引きつけられるのである。
あ、これでは感想にもなっていないか。思いつきのメモだね。
岡井隆『ヘイ龍カム・ヒアといふ声がする(まっ暗だぜつていふ声が添うふ)』は詩歌集--というけれど、詩と短歌のほかにも対談、エッセイも含まれている。私は短歌は詠む習慣がないせいか、なかなか読み進められない。
で、前半の詩の感想を、まず書いてみる。
いま、私は思い立って、谷川俊太郎『こころ』の感想を、批評になる前の感じでだらだらと書き流しているのだが、私の印象では、岡井と谷川はまったく違う。そのことを書いてみる。--前書きの追加の前書きみたいになってしまうなあ。
以前、谷川に初めてあったとき、私は、一篇の詩を選ぶなら「父の死」だけれど、一冊の詩集を選ぶなら『注解する者』かな、というようなことを話した。そのとき谷川の詩は美しい平屋の一軒家みたいだけれど、岡井の詩は地下が何十階もありそうなビルという感じ、という印象を話した。(初対面なのに、かなり乱暴で、無礼な話し方だね。私は、ひとと会うことが少ないので、誰に対しても乱暴な発言になってしまうなあ--と、いまごろ反省しても遅いのだけれど。)
で、そのときの岡井の詩の感想のつづきのようなものを書こうと思う。
岡井のことばを「建築物」にたとえると、やっぱり巨大なビル。それも地上よりも地階の方が多いという感じ。そのうえ、そんなに地階が深いなら、上の方は軽く繊細に造ってもいいと思うのだが、なんといえばいいのか--機能美(?)を無視して突然どっ太い柱がフロアのある部分を突き破って最上階まで貫いたり、梁(?)がこれまた信じられないくらい頑丈なものが天井を走ったりという感じがする。で、それは一種の異様な感じ(見かけを破壊する感じ、スマートからは遠い感じ、現代的ではないという感じ)がするのだけれど、なぜか、その部分に引きつけられる。異様なのに、そこに必然的な美がどっしりと居すわっている感じがする。
これは一体なんなのだろうなあ。
谷川との比較をここで始めるのは、またしても乱暴なのだけれど、私の感覚の意見で書いてしまうと、谷川のことばに比べると岡井のことばのなかには「万葉集」と「歴史的仮名遣い」があって、それが違うなあ、という感じ。
谷川も「万葉集」は読んでいるだろうけれど、「肉体」にしみこんでいるという点では岡井の方がしみこんでいるだろうなあ。なんといっても短歌を日常的につくっているし。で、万葉のことばの強い音楽性が、どこかで岡井のことばを律してる。
「歴史的仮名遣い」という点では、谷川も使いこなせるかもしれないけれど、日常的にはつかっていないね。岡井は日常的に歴史的仮名遣いでことばを動かしている。それを私たちは日常的に読んでいる。
万葉の音と歴史的仮名遣いというのは、日本人にとっては(日本語にとっては)、「肉体」でいうと「体幹筋肉」のようなものなのだと思う。それがしっかりしていると体全体がぶれない。動きが安定する。何か変な運動をしても、それを基本姿勢にぐいとひきもどして、そこから次の動きを動かすときの土台になる--そういう感じ。
岡井の詩を読んで、突然出てくる異様なものにびっくりするけれど、その異様な力が全体をきちんとささえる巨大な柱、梁という感じで、私には迫ってくる。谷川の詩の場合は、そういう異様さはない。谷川のことばはスマートだね。
谷川のことばの場合は「体幹筋肉」というよりも頭で合理的に整えられたそれぞれの筋肉という感じ。見かけ(?)は谷川の方が美しく、合理的で、わかりやすい印象がある。岡井のことばは不合理でわかりにくいが、あ、こんなふうに動かすかぎり体は動くんだなあということを、「肉体」で感じる。
抽象的なことを書きすぎたかな……。(実は、私はいま右手をけがしていて、手のひらを下に向けると、肘がとても痛い。キーボードを叩くと手首にも違和感がある。右手と左手ではキーボードを叩くスピードが違って、ことばが、とってもぎくしゃくして動く。私は「頭」ではなく、手でことばを動かしているのかもしれないなあ--と、言い訳にならない言い訳を書いておく。右手と左手のバランスが違ったからといって、書いていることが抽象的になるとはかぎらないよね。論理が乱れ、飛躍する理由にはならないよね。でも、たぶん、けがをしているから、右手が痛いからこんな書き方になっているのだと思う。どこかをかばい、省略しているのだ、私は。無意識の内に。)
「帰宅困難者の帰路探し/万葉集入門」を読んでみる。原文はルビつきなのだが省略する。東日本大震災の日のことを書いている。
あの日大揺れのあと都心のビルの七階にゐて余震を恐れながら都内
全交通網の麻痺と再起時期不明をきかされた時最初に思つたのは家
までの約二十粁を歩くといふ選択だつたがこれはまあ『白文万葉
集』を辞書抜きで読まうといつた無謀さで「玉剋春内乃大野尓馬数
而朝布麻須等六其草深野」を「たまきはる宇智の大野に馬並めて朝
踏ますらむその草深野」と読めるわけはなくやはりそこは斎藤茂吉
のロングセラー『万葉秀歌』の路線にたよつて帰路探しに入つた方
が安全
これは詩の書き出し。「玉剋春……」というのは、空で引用したのか、出典にあたりながら書いたのかわからないけれど、何か、ひとを驚かすものがある。少なくとも私はびっくりする。なぜ、こんな未加工な(?)鉄筋むき出しみたいな日本語の土台がここに出てくるのかわからないのだけれど、それが「たまきはる……」と書き直される過程で、わけがわからないけれど、そうか、何かがわかるようになるためには、こういう「手順」のようなものが必要なのだなあ、と納得できる。
あの日の地震は「玉剋春……」のようにわけがわからない。それがさまざまな情報で「大地震」という具合に整理されて、理解できるものになる--と書くと、これはこれで、嘘になってしまうが。
頭では説明できない「うねり」を「体幹」で受け止めながら整えていく感じがするのである。
「古今集」ではだめなのである。
最初の「日本語」の力にかえって、そこから「いま/ここ」をつかみなおそうとする無意識が岡井に働き、「白文万葉集」「万葉集」というものを思い出させ、さらには斎藤茂吉の「万葉秀歌」を思い出させた。岡井は、そこに「日本語の体幹筋肉」のあり方をみているのだろう。無意識に、その「体幹」に合わせているのだろう。
で、そういうものに触れて、「体幹」からことばを動かしているので、岡井のことばは読点「、」なしの長い文章なのに一気に読むことができる。その途中には「これはまあ」「やはりそこは」というような口語の口癖のようなものも入っているのだが、それがなぜか、すっと私の「肉体」に近づいてくる。とてもなじみやすく、その口語のリズムと音の具合が、岡井の長い文を支えていると感じるのだ。
いま引用した部分からは「歴史的仮名遣い」の力というものについて語ることはできないのだが(私には具体的な例をあげることができないのだが)、歴史的仮名遣いのいちばんの魅力は、動詞と名詞が溶け合うことである。動詞派生の名詞が歴史的仮名遣いだと、動詞のなかにすーっと一体化して溶け込む。
「思ふ(う)」は、四段活用の動詞だが、「思い」と「思惑(思わく)」は現代仮名遣いでは「おもい」「おもわく」と何かことばが分離してしまうが、歴史的仮名遣いでは「おもひ」「おもはく」と「は行」の活用のなかでつながる。この「つながり」が、たぶん、ことばの「体幹」のようなものだと思うのである。「体幹」がしっかりてしいると、ことばが次々に「派生」して変化できる。変化しながら、基が何であるか感じることができる。
私は万葉集を読むわけでもないし、歴史的仮名遣いでことばを動かすわけでもないのだが、岡井のことばの動きに触れると、そこには私の身につけてこなかった日本語の「体幹筋肉」が躍動していると感じ、それに引きつけられるのである。
あ、これでは感想にもなっていないか。思いつきのメモだね。
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