詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(23)

2013-08-18 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(23)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「旋律」の第1連。

わずか四小節の
その旋律にさらわれて
私は子どもに戻ってしまい
行ったことのない夏の海辺にいる

 さっと読んでしまうけれど不思議。旋律が「私」を過去に引き戻す。けれどその過去は知らない過去。知らなくても、それは私の過去? そういえる根拠は? 私の肉体の連続性。でも、子どもと私はほんとうに連続した「ひとり」か。
 2連目にも、少し似た表現がある。

パラソルをさした母親は
どこか遠くをみつめている

 どこか、とはわからないという意味。知らない(行ったことのない)に似ている。知らない、わからない――ということのなかにも、何かわかること、知っていることがある。
 そして、それは教えられたからではない。肉体が覚えていることなのだ。おぼえていることがよみがえる。
 遠くを見つめる母の気持ち――それは、「いま」わかるだけではなく、子どものときにもわかったのだ。遠くの意味も。ただし、「どこか」はわからない。わからないのに「どこか」であることもわかる。「ここではない」ということが・・・
 3連目。

前世の記憶のかけらかもしれない
そこでも私は私だったのか

 あ、むずかしいなあ。私ではないかもしれない。母親だったかもしれない。
 だれであったにしろ、「いのち」だった。「肉体」につながる「いのち」だった。



じぶんだけのいろ―いろいろさがしたカメレオンのはなし
レオ・レオニ
好学社
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ジュリー・デルピー監督「ニューヨーク、恋人たちの2日間」(★★★)

2013-08-18 19:56:35 | 映画
監督 ジュリー・デルピー 出演 ジュリー・デルピー、クリス・ロック、アルベール・デルピー、アレクシア・ランドー 


 フランス人の個人主義は自己主張の個人主義である。自己主張できる人間だけがまともな人間である、という個人主義である。自己主張の内容はどうでもいい。個人というのはもともと別人。自己主張の内容が共通していたら、それは「個人」ではない。違っていてこそ個人なのだから、でたらめな自己主張の方が「確立された個人(独立した個人)」として尊敬される――と書くと極論になるが、ま、私の理解はそういうところにある。
 で、この映画。何から何までフランス人である。出てくるフランス人が、フランス人を演じている。主役(監督)のジュリー・デルピーが新しい恋人と出会うのさえ、別れた恋人への愚痴がきっかけである。「私をわかって」「私をまるごと受け止めて」という自己主張がきっかけである。
 そのジュリーのところへ、父親、妹、妹の恋人(ジュリーの元彼)が押しかけて・・・というのが映画のストーリーだから、もう、フランス人の大暴れ。ニューヨークの、アメリカの個人主義は、自己主張というよりも、一対一の関係の確立。あなたが個人なら私も個人、余分なものを持ち込まずに一対一を押し広げようという感じ、いいかえると一対一の関係にない人なんか知らない基本。知らない人と接するにはルールがある、がアメリカの個人主義。これはどうしたって、フランスに引っ掻き回されるね。人数のうえでもアメリカ人は一人、フランス人は4人なんだから決定的に不利。
 ジュリーの妹は、泊まっている家が姉の恋人の家であることを無視して、裸で歩き回る、Tシャツは着てもパンティーを履かない。シャワールームで大声を出して恋人とセックスする、セックスするとき、そこにある電動歯ブラシを使うとやりたい放題。何もアメリカ人にあわせる必要はない。「参加して」とも言っていない、つまり「巻き込んではいない」というのがフランス人の主張。「私は裸でいるのが好きだから裸。あなたに裸になれとも、裸を見てくれとも頼んでいない」。確かにその通りなんだけどね。でも、わがままだよね――と感じるのは私が日本の個人主義を生きているから。自分の生きている個人主義のあり方は自分には見えないから、他人の個人主義をあれこれ言うだけなんだけれどね。
 あ、映画からどんどん離れてゆく。
 映像のことをいうと。フランス人一家(?)がニューヨークを歩く。駒落としで、ちょっとだけなのだけれど、マンハッタンが違って見える。アメリカ人が撮る合理的、無機質な表情は消えて、へんな匂いが漂う。構図が落ち着いていなくて、てきとうに揺れる。美しい映像ではなくて、整理前の、肉体でそのままさまよった感じ。その揺れ具合が、チーズの匂いというか、ワインのにおいというか、柔らかくて、ちょっとひきつけられるね。「地下鉄のサジ」がおとなになって、現代のマンハッタンを駆け抜けてゆく感じ(におい)が結構、おもしろい。
 人が出てきて、何かやれば、ストーリーなんて自然にできる、というフランス人の「個人」への自身みたいなものも感じられ、私はこういうフランス人は好きではないが、映画は好きだなあ。私が直接困るわけではないから。演技する(ストーリーを展開する)というより、一瞬一瞬を遊んでいるのを見るのは楽しいね。
(2013年08月15日、KBCシネマ2)


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クリエーター情報なし
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北川透「ハルハリ島徒然抄」

2013-08-18 10:20:11 | 詩(雑誌・同人誌)


北川透「ハルハリ島徒然抄」(「KYO峡」創刊号、2013年09月01日発行)

 きのう水島英己の「音」について書いた。抽象的すぎて、だれにもわからないかもしれない。書かれたことばの音が読者の肉体の中でどう響き、何を刺戟するか。客観的に表現する方法を私は知らないが、音の続きを書いてみよう。私がどんな音に反応するのか、を書いてみる。
 北川透「ハルハリ島徒然抄」の「* ウェーキッピー」。

その小さな島では鳴き声が
すべての生き物の名前と化している
ハルハリ ハルハリという鳴き声がすれば、
磯辺に棲息するハリハリがそこにいる
ヒチヒチブリーズ ヒトヒトブリーズという
囀りが聞こえるので空を見上げれば
嘴の鋭い怪鳥が大きな翼を広げて 獲物を狙っている

「ハルハリ」って何? 小鳥? 蟹みたいなもの? 魚? それとも蛇か亀?聞いたことはないが亀は俳句の世界では鳴くらしい。「ヒトヒトブリーズ」は鳥らしいが、どんな鳥か知らない。
知らない生き物が出てくるので、この詩に書かれていることがわからない。「意味」がわからない――のに、書いてあることがわかる。
というのは矛盾だけれど。
何かわからないけれど、北川は「ハルハリ島」について書こうとしていることがわかる。そして、それがわかるのは、そこに書かれている「音」がすべて私の聞いたことがある音だからである。
と書いてしまうと嘘になる。「ハルハリ」「ヒトヒトブリーズ」なんて聞いたことがない。そんな生き物なんて知らない。それなのに、私にはそれが音として聞こえた。私はカタカナ難読症(カタカナが読めない)のに、それが読めた。カタカナが読めたということは、私にとっては、その音を聞いたことがあるということである。聞いて、耳で覚えているカタカナなら私にも読めるのである。
個人的なことを書きすぎたが・・・
なぜ北川のカタカナが私に読むことができたかというと、「ハルハリ」とか「ヒトヒトブリーズ」という音の感じ、知らないものを聞こえる音で名前にしてしまう方法が私にはなじみがあるからだ。それは日本語の肉体になっているからだ。
今は夏でセミが鳴いている。それが正式な名前かどうか考えもせずに「カナカナ」が鳴いている、あれは「ツクツクボーシ」だね、と声に出したりする。犬を「ワンワン」と呼んだり(とりあえずの名前にしたり)、牛を「モーモー」というのは、日本語の習慣なのだ。日本語は、なぜかはわからないが、音を繰り返す。カナカナ、ツクツクボーシ、ワンワン・・・北川も繰り返しを利用している。
北川の勝手につけた生き物の名前には、北川が意識したかどうかは別にして、日本語の歴史、日本語の肉体が動いている。私は、その北側の肉体に触れる。知らないうちにセックスしてしまう。で、なにもわからないはずなのに、すべてがわかった気持ちになる。セックスは怖いね。あ、ここが感じるとおもったら、それが生理的な現象にすぎなくても(肉体のかってな反応にすぎなくても)、好きだと思ってしまう。
脱線したかな?

よくわからない。

で、こういう「日本語の肉体」は、音の動きは、名前の付け方というようなところにとどまらない。

ハルハリ ハルハリという鳴き声がすれば、
磯辺に棲息するハリハリがそこにいる

この2行の、「・・・とすれば・・・がいる」という仮定と結論の構造。それは文法の問題なのだけれど、その文法構造を繰り返し口にしていれば、それは音の問題にもなる。耳が自然に結論の音を求め、違うことばがそこに入り込むと、あれっ、変だなあと思う。「意味」を考えて変だなあと思うのではなく、肉体が混乱するのである。肉体が混乱するから、これはどこかおかしいぞ、と私は考え始める。そういうこと、音の動きから肉体の違和感を感じるということが北川の詩の場合は起きない。音の動きに肉体が納得してしまうので、そこに書かれている意味が分からくても、ことばをどんどん読み進むことができる。肉体をことばに預けることができる。いまわからなくても、やがていろんなセックスを経験すれば、その快感の頂点に達することができると信じてしまう。

ということと逆のことが、私より若い世代の詩を読むとときどき起きる。(だんだん北川の詩から離れていくが、ま、しようがない。)
逆というのは。
「意味」はわかるが「音」が聞こえない、ということである。混乱が起きないから「正しい」はずなのだけれど、その音は「快感」となって肉体に入り込んでこない。出会っているはずなのに、遠い。つまり、セックスしている感じがしない。何をやってるの、という感じ。自分でセックスするのではなく、他人がセックスするのを、他人が声を出さずに絶頂に達するのをマジックミラー越しに見ている感じ。
こんなことを書くと、北川から、音とセックスを結びつけるのは女性的、男性は視覚とセックスを結びつける、視覚でセックスするのが男性的、と言われてしまうのだが・・・。
先日見たフランスの女性が監督した「ニューヨーク、恋人たちの2日間」。二人がベッドでセックスしようとすると、別の二人が浴室でセックスを始める。浴室のセックスは壁越しの音だけ。でも、何をしているかがわかってしまう。電動歯ブラシをつかっていることがわかる。見えないのに、そんなことなどしたことがないのに、肉体にはそれが「わかる」。音に合わせて、聞いている肉体が動き、見えないもの(わからないもの)を作り上げてゆく。その、捏造という理解、創造という誤読――そのなかに、私は人間の根源的なものがあると思う。
不正確さのなかにある本能の強い正確さ。それと音はセックスしていると、私は思う。

だんだん北川から遠くなる。
面倒くさくなるので、「結論」をでっちあげてしまおう。

北川の詩を読むと「ハルハリ」ではなく「パルリパリリ」という生き物を書いてみたい、と一瞬、思う。島ではなく、都会のど真ん中に。これは肉体が刺戟されて動きたがっている証拠。――そういうことが起きる詩が好きだなあ。



「KYO峡」は北川の個人誌。北川がこういう形で本をつくりはじめたのはとてもうれしい。私は「あんかるわ」の定期的な読者ではなかった。だいたいが立ち読み(小倉金栄堂、豊橋精文館)だった。それでも、廃刊になったときはがっかりした。自立して、表現の場を維持する姿勢は、私にとっての理想である。吉本隆明について、北川は、今号で書いている。吉本も北川も、私にとっては「自立(自前)」の指針だ。いつでも「自前」でありたい。自分に言い聞かせた。
海の古文書
北川 透
思潮社
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