詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(24)

2013-08-19 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(24)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「隙間風」は男女の間のちょっとした気まずさを書いている。

あのひとがふっと口をつぐんだ
昨夜のあの気まずい間
わたしが小さく笑ってしまって
よけい沈黙が長引いた

 「わたし」を私は男(谷川)ではなく女と読んだ。それはほとんど無意識に、である。どうしてかなあ。「あの人」といういい方が女っぽい? そうだとしても、何のためらもなく「わたし」を女と読んでしまうとしたら、私の日本語の肉体の中にはずいぶん「男女の区別(男女差別?)というものが組み込まれていることになるなあ。谷川はどうなのかな? 自然に男女によってことばをつかいわけているのかな?

最後の連でも、「わたし」に、私は女を感じた。

水気なくした大根のように
煮すぎた豆腐のように
心のスが入ってしまった
今朝のわたし

 料理に関することばが出てくるので私はしらずに「わたし」を女だと思うのだが、これは冷静に考えるとおかしい。男が料理をしてもいいし、料理から「比喩」を引っ張り出してもいいはずだ。暮らしの細部をていねいに生きていたら、そういうことは難しくはないはずである。
 でも、もしこの詩の「わたし」が男だとしたら、という問題を考えると難しくなる。ことばを読むとき、私はまず自分の無意識を点検しなくてはならない。これはできないなあ。無意識なので、どこに気をつけていいのかわからない。

 谷川は、詩を書くときどうしてるんだろう。「わたし」を女と決めて、女の視点で「比喩」の材料を集めたのかな? そのとき、その「比喩」を女のものと判断したのは谷川自身の感覚? それとも「流通概念」がその「比喩」を女のものと判断していると知っているから?
 こういう問題はフィクションを前提としている小説では起きないね。「女の感覚がきちんと描かれている、女をよく見ている」と好意的に受け止められるだろうと思う。
 詩も、同じ基準で読んでいいと思うけれど、そういう習慣はまだまだ確立されていない。これは逆にいうと、男の詩人が女になって、女の詩を書くということが確立されていない、一般的な方法と詩って認知されていないということになるが・・・
 谷川は、そういう一般的な認知の問題を軽々と越えてしまっているように思える。不思議だなあ。
 (もし岡井隆や鈴木志郎康が「隙間風」を書いたら、びっくりするでしょ? 谷川だとなぜびっくりしないのだろう。)

写真
谷川 俊太郎
晶文社
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山下修子「蝶の浴衣」

2013-08-19 10:52:53 | 詩(雑誌・同人誌)
山下修子「蝶の浴衣」(「飛脚」3、2013年08月01日発行)

 「自前の思想」というのは、とても面倒くさい。個人的なことがらがどこまで積み上げれば普遍になるのか誰にもわからない。普遍を蹴飛ばして個人的なことがらにへばりつく、そのしつこさのなかにしか「自前」はない。
 そして。
 現代は、軽さ、スピード、明確さが要求される時代。「自前」はとっても不利である。軽くない、のろのろしている、不明確である。
 そういうことを承知で、不明確さの中にこそ、本能の正直が生きていると考え、「自前」にへばりついている詩人のひとりが石毛拓郎。でも、きょうの感想は石毛の詩ではなく、石毛の出している個人誌に掲載されている山下修子「蝶の浴衣」。

 「きっと、部屋の内にいると思うよ」

 親切そうな人が、そう絵あたしに話しかけたのは、つい先程のことだった。理由は柴犬を木陰に繋いであるからだ、と言う。

 「私(山下)」は旧友「弘ちゃん」の消息を尋ねて震災被災者住宅へたどり着く。けれど、「弘ちゃん」は呼んでも答えない。そのときのことを書いている。引用は、書き出し。
近所のひとは、山下に、弘ちゃんは家の中にいる、居留守をつかっている、という。――その理由が、犬がいること。
あ、粘っこいね。近所の人は、弘ちゃんが外出するときは必ず犬を連れてゆくことを知っている。犬は震災ではぐれた犬だ。飼い主とはぐれる寂しさを、弘ちゃんは二度と犬に味わわせたくない。その「理由は」弘ちゃんが「はぐれる(はなればなれになる)」さびしさを知り尽くしているからだ。
ということを、山下は説明せずに、犬の移動した距離、弘ちゃんの移動した距離を書くことで、自分に引き寄せている。(長くなるので、引用は省略。)
で、このときの「理由」というものが、実は「自前の思想」である。ひとはだれでも「自前の思想」を持っている。それはフランス現代哲学のように「流通思想」とはならないが、生きるときに譲れない「こと/もの」である。「肉体」になってしまっている。それを「思想」というとおおげさだから「理由」というのである。そしてその「理由」も一般的には「理由」と明確に語られることはないだろう。
冒頭の「理由」も、近所の人が言ったことばそのままではないだろう。「柴犬が木陰に繋いであるから」と「・・・だから」と言っただけだろう。そのことばを、山下は無意識に「理由は」ということばで整えている。この、無意識のことばの整え方が思想(肉体)であり、そのとき動くことばがそのひとの「キーワード」である。

この、なにごとかを整える「理由」のようなものは、人によって違う。山下は「理由」ということばで何事かを整えるということをしたが、弘ちゃんはどうだろう。
わからない。わからないが、何かがそこにあるはずだ。
会うことをあきらめて引き返すとき。

不意に、振り返ると、坂の上の仮設住宅の屋根の一部が・・・・。
山間の地である。地形のせいか、うっすらと朝靄がかかっていた。
ちょうどそれは、キツネが出没する「相沢の崖」を駆け上って、生家の庭先までたちこめてくる、あの靄に似ていた。

この季節に太平洋で発生し、まるで生きもののような勢いで、潮の臭いと湿気を運んでくる。いま、弘ちゃんが暮らすこの地が、浜通り地方といささかの共通項を持つことに、私は、少しほっとした。彼女の胸に刺さった釘は、抜きようがないとしても、記憶に生きるあの町の佇いは、理屈なしに懐かしいからだ。

山下は弘ちゃんが仮設住宅にいる「理由」を、そんなふうに見出している。それが正しいかどうかはわからないが、「理由」を見つけ出すということが大切なのだ。「理由」が「誤読」だとしても、「理由」のなかで山下は弘ちゃんと再会するのだ

ところで。
いま引用した部分には「思想(肉体)」の問題を考えるときの「つまずきの石」がある。特に「理由」を「思想」の根本に据えるとき、はた、と困ることばがある。

理屈なしに懐かしいからだ。

「理屈なし」と「理由(・・・からだ)」は矛盾する。「理屈」は「理由」にとても似ている。一種の「論理」。それが「ない」のに、それが「理由」に「なる」。
「ない」のに「ある」は矛盾だが、「ない」のに「なる」は、矛盾を超える。矛盾を超えて「なってしまう」のかもしれない。
既成のことば、「流通言語(流通思想)」ではつかみきれないものがある。
だからこそ、山下は「自前」を生きる。

私が娘を出産し、五ケ月がたった頃、弘ちゃんは<蝶の模様のかわいい絵柄の浴衣>を持って、「戸田」の倉庫の二階に住んでいた私を訪ねてきたことがあった。
和裁を習っていて、<自分で縫った>と、言っていた。

以来、四十数年。
お互いの顔を、直に見たことはない。

「お互いの顔を、直に見たことはない。」にも「理由」がある。もちろんそれは、祭場暗夜何かでいうような「理由(動機)」ではない。「犬が木陰に繋いであるから」というような、暮らしそのものの理由(思想)である。
それが詩のあちこちに見えるので、私は山下にも弘ちゃんも会ったことはないのだが、なんだか「直に顔を見た」気持ちになった。新しい旧友に会ったような不思議な気持ちになった。
「自前」を生きる詩人は美しい。


おだいりさまとおひなさまからの手紙
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J・J・エイブラムス監督「スター・トレック イントゥ・ダークネス」(★★)

2013-08-19 09:01:24 | 映画
監督 J・J・エイブラムス 出演 クリス・パイン、ベネディクト・カンバーバッチ、ザッカリー・クイント


 きのう感想を書いたジュリー・デルピー監督「ニューヨーク、恋人たちの2日間」(★★★)のつづきでいうと、この映画はアメリカ個人主義+アメリカ民主主義+アメリカ帝国主義の「教科書」みたいな映画。アメリカというのは一対一の関係を拡大したチームのようなもの。この映画でいうと、ジム(船長)とスポックは親友だけれど、スポックは必ずしも他のクルーと親友ではない。船長を中心にチームを作り、それぞれが自分の「持ち場」で力を発揮し、チームとして「総合的」に難局を乗り切る。あ、アメリカの理想主義も、ここに入っているね。
 ストーリーも、それぞれが活躍して、統合されて成り立つ。演技は個人の魅力をあふれさせてはだめだし、遊んだりすると、映画にならない。監督が特権で全体を統合してゆく。アメリカの軍隊の宣伝にはなるかもしれないが、おもしろいとは言えないなあ。
 宣伝で監督が「登場人物のキャラクターがすごい」といっていたが、おもしろいのは悪役のベネディクト・カンバーバッチくらい。彼がなぜおもしろいかといえば、彼だけがチームに属さず、「個人主義」を生きているからだ。フランス人風に「俺はこれがしたい」と自己流に逸脱してゆくからだ。映画のストーリーは、ベネディクト・カンバーバッチの逸脱、暴走を制御するという具合に展開するので、彼が完全に魅力を発揮できるわけではない。つまり、悪役なので、やっつけられておしまい、ということになるのだが。
 で、こういうストーリー至上主義、役者に遊ぶ余裕を与えない映画というのは、見せ所がどうしても「装置」になってしまう。そして、それはおおがかりになればなほど、とんでもない嘘になる。映画だから嘘でもかまわないといえば、ま、そうなんだけれど。巨大な宇宙船がニューヨークに落ちたら9.11どころじゃないだろう。原子炉の内部へ防護服もつけずに入って作業して、それでも生きている。いやあな嘘が大手を振るようになる。
 アメリカ(人)の思考形態の研究には最適の映画ではあるね。
       (2013年08月18日、天神東宝5)
    
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