谷川俊太郎『こころ』(24)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)
「隙間風」は男女の間のちょっとした気まずさを書いている。
「わたし」を私は男(谷川)ではなく女と読んだ。それはほとんど無意識に、である。どうしてかなあ。「あの人」といういい方が女っぽい? そうだとしても、何のためらもなく「わたし」を女と読んでしまうとしたら、私の日本語の肉体の中にはずいぶん「男女の区別(男女差別?)というものが組み込まれていることになるなあ。谷川はどうなのかな? 自然に男女によってことばをつかいわけているのかな?
最後の連でも、「わたし」に、私は女を感じた。
料理に関することばが出てくるので私はしらずに「わたし」を女だと思うのだが、これは冷静に考えるとおかしい。男が料理をしてもいいし、料理から「比喩」を引っ張り出してもいいはずだ。暮らしの細部をていねいに生きていたら、そういうことは難しくはないはずである。
でも、もしこの詩の「わたし」が男だとしたら、という問題を考えると難しくなる。ことばを読むとき、私はまず自分の無意識を点検しなくてはならない。これはできないなあ。無意識なので、どこに気をつけていいのかわからない。
谷川は、詩を書くときどうしてるんだろう。「わたし」を女と決めて、女の視点で「比喩」の材料を集めたのかな? そのとき、その「比喩」を女のものと判断したのは谷川自身の感覚? それとも「流通概念」がその「比喩」を女のものと判断していると知っているから?
こういう問題はフィクションを前提としている小説では起きないね。「女の感覚がきちんと描かれている、女をよく見ている」と好意的に受け止められるだろうと思う。
詩も、同じ基準で読んでいいと思うけれど、そういう習慣はまだまだ確立されていない。これは逆にいうと、男の詩人が女になって、女の詩を書くということが確立されていない、一般的な方法と詩って認知されていないということになるが・・・
谷川は、そういう一般的な認知の問題を軽々と越えてしまっているように思える。不思議だなあ。
(もし岡井隆や鈴木志郎康が「隙間風」を書いたら、びっくりするでしょ? 谷川だとなぜびっくりしないのだろう。)
「隙間風」は男女の間のちょっとした気まずさを書いている。
あのひとがふっと口をつぐんだ
昨夜のあの気まずい間
わたしが小さく笑ってしまって
よけい沈黙が長引いた
「わたし」を私は男(谷川)ではなく女と読んだ。それはほとんど無意識に、である。どうしてかなあ。「あの人」といういい方が女っぽい? そうだとしても、何のためらもなく「わたし」を女と読んでしまうとしたら、私の日本語の肉体の中にはずいぶん「男女の区別(男女差別?)というものが組み込まれていることになるなあ。谷川はどうなのかな? 自然に男女によってことばをつかいわけているのかな?
最後の連でも、「わたし」に、私は女を感じた。
水気なくした大根のように
煮すぎた豆腐のように
心のスが入ってしまった
今朝のわたし
料理に関することばが出てくるので私はしらずに「わたし」を女だと思うのだが、これは冷静に考えるとおかしい。男が料理をしてもいいし、料理から「比喩」を引っ張り出してもいいはずだ。暮らしの細部をていねいに生きていたら、そういうことは難しくはないはずである。
でも、もしこの詩の「わたし」が男だとしたら、という問題を考えると難しくなる。ことばを読むとき、私はまず自分の無意識を点検しなくてはならない。これはできないなあ。無意識なので、どこに気をつけていいのかわからない。
谷川は、詩を書くときどうしてるんだろう。「わたし」を女と決めて、女の視点で「比喩」の材料を集めたのかな? そのとき、その「比喩」を女のものと判断したのは谷川自身の感覚? それとも「流通概念」がその「比喩」を女のものと判断していると知っているから?
こういう問題はフィクションを前提としている小説では起きないね。「女の感覚がきちんと描かれている、女をよく見ている」と好意的に受け止められるだろうと思う。
詩も、同じ基準で読んでいいと思うけれど、そういう習慣はまだまだ確立されていない。これは逆にいうと、男の詩人が女になって、女の詩を書くということが確立されていない、一般的な方法と詩って認知されていないということになるが・・・
谷川は、そういう一般的な認知の問題を軽々と越えてしまっているように思える。不思議だなあ。
(もし岡井隆や鈴木志郎康が「隙間風」を書いたら、びっくりするでしょ? 谷川だとなぜびっくりしないのだろう。)
写真 | |
谷川 俊太郎 | |
晶文社 |