詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(34)

2013-08-29 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(34)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「丘の音楽」には、わからないところがある。

私を見つめながら
あなたは私を見ていない
見ているのは丘
登ればあの世が見える
なだらかな丘の幻
そこでは私はただの点景

 「登ればあの世が見える」の「あの世」というのは、「死後の世界」ということだろうか。でも、その丘は「丘の幻」、幻であって、実在しない。なぜ「あの世」ということばがここにあるのか、わからない。
 しかし、そういうものを見つめる「あなた」にとっては、「私はただの点景」であるのは、わかる。「私」の見ることのできないものに夢中になっている「あなた」には「私」は見えないだろうと思う。

音楽が止んで
あなたは私に帰ってくる
終わりのない物語の
見知らぬ登場人物のように
私のこころが迷子になる
あなたの愛を探しあぐねて

 「丘」は音楽が聞こえているときだけ存在したのか。音楽のなかにある丘なのか。そうだとすれば、「あの世」もまた音楽といっしょに、音楽が存在するときだけ存在しているのだろうか。
 「あの世」は「永遠」ではないね。
 音楽が鳴っているときは「あの世」を見ていて、音楽が鳴り止むと「この世」に帰ってくる「あなた」。その「あなた」に戸惑っている。

 これは、ほんとうに「愛」のことを書いているのかな? ひとへの愛のことをかいてるのかな? 「あなた」への愛を探しあぐねている「私」のことを書いているのかな?
 それとも谷川の音楽への愛について書いているのだろうか。
 音楽を聞くとき、谷川は「あの世」を見ているのだろうか。
 そして、そのときの音楽とは、具体的にはどんな音楽なのだろうか。どの音楽でも「あの世」が見えるのかな?
 わからないけれど、音楽を聴くとき「あの世」に谷川がいるのなら、うーん、谷川を愛するひとは、かなり戸惑うね。「迷子」にならざるを得ない。
 「あの世」が「現実」ではなく、「没我の世界」の比喩だとしても。
夜のミッキー・マウス
谷川俊太郎
新潮社
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片野晃司「筋肉賛歌」ほか

2013-08-29 10:15:49 | 詩(雑誌・同人誌)
片野晃司「筋肉賛歌」ほか(「hotel第2章」32、2013年07月15日発行)

 片野晃司「筋肉賛歌」はタイトル通り、筋肉のことをほめたたえている。

ぎゅんぎゅんと花々の茎と茎の間を抜けて、背丈よりも低い峠をいくつも越えて、あのランナーはわたし。ふくらはぎ縮み、ふともも縮み、南風燃え上がり、握りこぶしほどの小さな山をいくつも踏んで、森の奥のか細いせせらぎをせき留めればあふれ出す、崖から飛び出して向かい風なら旋回する。筋肉から、骨格から、関節から、神経から、わたしをつくる言葉のすべてがこの地勢に逐一符合して、あの海沿いの道のカーブ、あのトンネル、あの崖の褶曲、朝は昼、夜は星々、球体のみどり、球体のあお、脳はどこまでも膨張し拡張し、

 筋肉そのものの描写は「ふくらはぎ縮み、ふともも縮み、」くらいしかないのだが、書き出しの「ぎゅんぎゅん」といういきおいのいいことばが筋肉を思わせる。それだけではなくて、

わたしをつくる言葉のすべてがこの地勢に逐一符合して

 この一文が代弁するように、ことばでとらえられた地勢そのものが、実はことばではなく「筋肉」のように見えてくる。

わたしをつくる「筋肉」のすべてがこの地勢に逐一符合して

 という感じ。「言葉=筋肉」なのだ。
 「背丈より低い」というのは地勢の描写ではなく、筋肉が感じる地勢の実際なのである。峠の場合、まだ「背丈より低い」だが、走っている間に筋肉が鍛えられるのか、山になると「握りこぶしほどの小さな山」になってしまう。筋肉が山を「握りこぶしほど」に感じさせるのである。
 これはいいなあ。
 ランナーなのだけれど、も「わたし」は走っていない。土地そのものになる。海沿いの道のカーブ、トンネルも、みんな「わたし」の筋肉であり、それは走る場所ではなく、筋肉の内部になってしまう。
 「脳=言葉」が膨張する、拡散するのではない。筋肉が膨張し、土地そのものになる。で、そこに突然「球体のみどり」「球体のあお」というような、わけのわからないものも登場するのだが、これは筋肉が「ハイ」になってつかみとってしまう真実なのだ。
 筋肉はさらにさらに躍動する。

筋肉はぎゅんぎゅん収縮、はじけ、ひきつれ、ひねくれ、こねくりまわし、握り潰した指のすきまをすいすい泳いでいくメダカたち、その一尾のメダカはわたし。何度も叩きつける靴底の迷路できらきらとひらめくユスリカたち、その一羽のユスリカはわたし。

 「ひきつれ」「ひねくれ」というような負のイメージがあることばさえ、筋肉は飲み込んでゆく。そんなのもを気にしない。土地になるだけではなく、ある瞬間に見たもの、メダカや、靴底で潰されるユスリカにさえなって、この世界全体に広がっていく。
 筋肉で走るのではなく、走る筋肉が、すべての「もの」を筋肉にかえる。このリズム、明るさ、スピードはとても気持ちがいい。読んでいて、肉体が若返る感じがする。うれしくなる。



 福田拓也「古代都市の記憶が木々の葉の一枚一枚に線刻され……」は句読点のない詩を書いている。

古代都市の記憶が木々の葉の一枚一枚に線刻され光を透かして浮き
上がる文字群はモザイク状に空を覆い空は字画となって崩壊するそ
の向こうには何もない風の吹かない土地の表面の罅割れはその運命
を模倣する読み取る視線のないところでかつて眼球のはまっていた
であろう眼窩の窪地で渦巻く眼窩のその奥に何も見えて来ない何も
帰らない

 句読点がないと、文章の区切りがあいまいになるけれど、そのあいまいさは逆に意識そのものの連続の強さを浮かび上がらせる。
 はずなのだけれど。
 いや、実際そういうことばの運動のなかにおもしろいものがあるのだけれど、特にタイトルになっていることばのように、木の葉の葉脈がまるで古代都市の路地というか迷路というか、そういうものをひきつれて動く感じはおもしろいのだけれど。
 うーん。
 書き出してすぐあらわれる「その」が、ちょっと、ねえ。
 「その」というのは指示詞、先行することばを指し示す。「その」によって、ことばの運動がいったん先行する部分にもどる。そうすると、せっかく句読点なしで、前へ前へと動いてきた運動が反復することになり、どうしても意識のなかに句読点を持ち込んでしまう。
 句読点をなしにしてしまった以上、文章は引き返してはいけない。突っ走らないといけない。わけがわからなくならない、おもしろくない。わけがわからないのだけれど、をわーっ、遠くまできてしまったなあ、というのが句読点のない文章の魅力だと思う。えっ、こんなところまできてしまったのか、という驚きが、「わかる」ということにとってかわるとき、私は感動する。
 そういう感動的な何かを、福田は「その」によって半減させている。
 もうひとつ。
 「その」と同じように繰り返される「ない」という否定も、私は、句読点のないことばの運動には不向きだと思う。「風の吹かない」「視線のない」「見えて来ない」「帰らない」と否定されるたびに、読んでいることばが止まってしまう。突っ走っていかない。これは、かなり興をそがれる。

尾形亀之助の詩―大正的「解体」から昭和的「無」へ
福田 拓也
思潮社

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