詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(17)

2013-08-12 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(17)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

「捨てたい」。先月、感想を書いた。重複するかもしれない。

何もかも捨てdて
私は私だけになりたい
すごく寂しいだろう
心と体は捨てられないから

 「・・・から」は理由をあらわす。つまり、ここには「論理」が書かれている。しかしその論理は、ほんとうに論理か。いいかえると、もし、心と体を捨てられたらさびしくならないのか。ちょっと考えることができない。
谷川の「論理」にはこういうものが多いような気がする。論理的なことばを(文法を)つかいながら、厳密には論理のせかいとは別なことを書く。でも、それが論理と言うか、知性的なことばの運動のように感じられ、その「意味」をなんとなく納得してしまう。そういう「疑似論理」が。
逆を考えてみると不思議な気持ちになる。心も体も捨てる。心がどうなってもいい、体がどうなってもいい――そういう感じは、たとえばドラッグに溺れる人などが一瞬抱くのではないだろうか。それこそ「さびしい」としか言いようのないことかもしれない。
あ、さびしいの「意味」が違う? そうだね。意味が違う。ことばは同じでも「意味」が違う。
こういうことは、「名詞」「形容詞」「動詞」だけではなく、「・・・(だ)から」というようなことばでも起きるのかもしれない。「・・・(だ)から」が「論理」の運動を促すけれど、論理は知性(理性)を動かすだけではないのかもしれない。「感情の論理」と言うものもあるかもしれない。
 谷川は、こういうことを、つべこべとは書かずに、さっと飛び越していくね。その飛躍の軽さとスピードが独特。やはり天才としかいいようがない。谷川にだけ与えられた力である。
最後の1行、

一番星のような気持ちで

この非論理的な飛躍は、何度読んでも美しさがかわらない。そこには「意味」がなく、ただ一番星と言う「もの」だけがある。ものと人間が、ことばをつかわずに直接に向き合う「時間」だけがある。それは一瞬なのだけれど、一瞬だから永遠でもある。





ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店
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