詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(12)

2013-08-07 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(12)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「悲しみについて」は3連構成。1連目と2連目は主語がかわっているが基本的な意味は同じ。役者も作家も悲しみを表現するとき、本人は悲しんではいない。観客や読者のこころをつかみ、奪い取ろうとしている。これは極論かもしれない。でも、悲しむよりも、悲しみを印象づけようと思っていることには間違いないだろう。役者、作家は同時に「ふたつ」のことをしようとしている。矛盾したことをしようとしている。悲しみに集中していたら(?)、悲しみを表現できない――と、ことばにすると、ちょっと変な感じだけれど。つまり、ほんとうに悲しみ、涙を流しているのなら、どうして観客や読者にそれが伝わらないんだろうという問題が起きるのだけれど。

 あ、脱線しそう。脱線してしまおう。
 この観客、読者の問題は実は書くつもりが全くなかった。ところが左手だけで書いていると、どうしても書くスピードが遅くなり、右手で打っていたキーボードを探しながら意識が散らばる。その瞬間に、ふっと何かが忍び込む。
 観客、読者のことを谷川は書いていないが。
 観客、読者も、もしかしたら悲しみを見たいと思っていないかもしれない。この役者は、この作者は悲しみをどう表現するだろうか、といことにこころを砕いているかもしれない。芝居、虚構とわかっているのに、その表現にひきつけられ、それが芝居、小説であることを忘れた瞬間に、観客・読者は涙を流してしまう。
 悲しみではなく、悲しみの表現をひとは何度も繰り返し見てしまう。ほんとうの悲しみは自分ひとりの分で十分ありあまっている。

 で、脱線から唐突に、詩にもどる。
 3連目が非常におもしろい。2行目までは1連、2連を踏襲するが、そのあと激変する。(ルビは省略)

悲しげに犬がと遠吠えするとき
犬は決して悲しんでいない
なんのせいかも分からずに
彼は心を痛めている

 3連目で、突然、ほんとうの悲しみを直接見た――という気持ちに襲われる。
 1連、2連が、いわば語りつくされたような内容だったからかな。だから私も脱線したのかな。
 でも、3連目のどこが新しいのだろう。

なんのせいかも分からずに

 この「分からずに」だね。誰にも(犬にも)わからないことがある。犬にわからないことがあるとが、どうしてわかった?なんて野暮な質問はしちゃだめだよ。詩なのだから。比喩なのだから。詩人と犬は「一体」になっているのだから。
 理由がわからない――はしかしほんとうではない。なんのせいかはわかっている。わからないのは、それを説明する方法、説明することばだ。どうすれば、このことばにならない悲しみをことばにできるのか。だれか、それをことばにしてくれよ。
 ――その声を谷川が聞き取り、この詩がうまれた。

 「ほんとう」はいつもわからない。わからないもののなかに「ほんとう」があり、それに触れようとしてことばにする。ことばになった「ほんとう」は、でも「うそ」なんだ。「うそ」に掬い取れなかった何か、ことばになれなかった何かに「ほんとう」がある。
 矛盾の、どうどうめぐり。
 それが、詩。


二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社
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