谷川俊太郎「こころ」再読(8)
私は実は07月30日火曜日の夜、車道を逆に走ってきた自転車を避けようとして、自転車ごと転び、右手が動かせない。(08月02日までのものは、事前に書きためておいたもの。)で、手が不自由だとことばもなかなか動かないのだが、そういうときは、詩に対してどんな反応が起きるのか、それを知りたいと思って、ちょっと書いてみる。
この詩で思わず傍線を引いてしまうのは2連目の
ここ。
そうか、何かがわかるというのは、自分以外のものに自分の「こころ」を感じるからかもしれない。「こころ」がひとつになる、といえばいいのか。
靴からはなれて。たとえば花。その花を美しいとこころが感じるとき、花のこころを私は美しいと感じている。花のこころと私のこころが「美しい」ということばのなかで「ひとつ」になっている。花の形、花の色というものがあるとしても、それは花のこころが形、色になったもの。花の形、色は、花のこころである。
でも、その「靴のこころ」は何を感じてる?
すぐには、わからない。私は、それを探してしまう。--というも、不思議だ。靴のこころが何を感じているか、それを実感しないのに、
ここに感動する。
そのことをよく考えてみると、「靴にこころがある」ということ、そのことの発見自体に感動していることがわかる。靴にこころがあるとは考えたことがなかった。だから、靴にこころがあると言われたとき、私はびっくりした。そして、靴にこころがあるとわかるのは、自分にこころがあるからだ、と気がついた--というふうに読んでいることに気がついた。
何を考えていてもいいのだ。何を感じてもいいのだ。こころがあるとは思ったこともないものに、こころがあるとわかったから、そしてそのことを「分かる」と谷川が書いているから感動したのだ。
だから。
私は先に「靴のこころ」と「自分のこころ」が「ひとつ」になっている--というようなことを、よく考えもせずに書いたけれど、実は違うね。
自分のこころ(谷川のこころ)は「新しい靴がほしい」と思っている。ところが、靴はそうではない。新しい靴にとってかわられたくないと思っている。捨てられたくないと思っている。「もう身内同然だ」と心底思っているのは、私(谷川)ではなく、靴の方だろう。
あれ、でも、そうすると変だね。
「もう身内同然だ」というのは、私(谷川)の思いであり、身内同然だから新しい靴がほしいのだけれど、捨てるわけにはいかない、というのが、この詩ではないのかなあ。
何かが(論理が、意味が)どこかで、すれ違っている。入れ替わっている。
この入れ替わりがたぶん、詩なのだ。
入れ替わることができるのは、それが「ひとつ」のもの。「同じもの」だからである。言い換えると、「靴のこころ」と「自分のこころ」は「ひとつ(同じもの)」である。
ほら、最初にもどった。何かがわかるというのは、自分以外のものに自分の「こころ」を感じるからかもしれない。「こころ」がひとつになる、といえばいいのか--と書いたことに、もどってしまった。
「こころ」は「ひとつ」で、こころではないものが入れ替わる。
「こころ」はいつでも「ひとつ」。
ある時は「靴」と、ある時は「花」と入れ替わる。あるいは、ある時は若い娘と、ある時はおばあちゃんとも入れ替わる。すべての「いのち」と入れ替わる。そうやって、何かが「分かる」ということが起きる。
あ、こんなふうに「意味」にしてはいけないね。
違うことを書いておこう。
なぜ「スニーカーのこころ」ではなかったのかな? 「たたきの上」の「たたき」っていまの若者はわかるかな? 最初に読んだときは気がつかなかったけれど、あ、このスニーカーとたたきの組み合わせは、なかなか新しいな、と思った。
詩の意味とは関係がないだろうけれど、あ、谷川はまだ「たたき」ということばが自然に出てくるのだ、と驚いた。あ、私自身、最初に読んだとき、違和感はなかったのだけれど、書き写してみて、あっ、と声が漏れてしまったのだった。
(左手だけで、親指シフトのキーボードをつかうのはとても不便。左半分の文字と右半分の文字の入力スピードが完全に違い、ことばが動かない。ことばは、頭だけでは動かない、とあらためて思った。--ということも、書いておこう。)
私は実は07月30日火曜日の夜、車道を逆に走ってきた自転車を避けようとして、自転車ごと転び、右手が動かせない。(08月02日までのものは、事前に書きためておいたもの。)で、手が不自由だとことばもなかなか動かないのだが、そういうときは、詩に対してどんな反応が起きるのか、それを知りたいと思って、ちょっと書いてみる。
靴のこころ
ふと振り向いたら
脱ぎ捨てたスニーカーが
たたきの上で私をみつめていた
くたびれて埃(ほこり)まみれで
あきらめきった表情だが
悪意はひとつも感じられない
靴にもこころがある
自分にもこころがあるからそれが分かる
靴は何も言わないが
何年も私にはかれて
街を歩き道に迷い時にけつまずいた
もう身内同然だ
新しい靴がほしいのだが……
この詩で思わず傍線を引いてしまうのは2連目の
靴にもこころがある
自分にもこころがあるからそれが分かる
ここ。
そうか、何かがわかるというのは、自分以外のものに自分の「こころ」を感じるからかもしれない。「こころ」がひとつになる、といえばいいのか。
靴からはなれて。たとえば花。その花を美しいとこころが感じるとき、花のこころを私は美しいと感じている。花のこころと私のこころが「美しい」ということばのなかで「ひとつ」になっている。花の形、花の色というものがあるとしても、それは花のこころが形、色になったもの。花の形、色は、花のこころである。
でも、その「靴のこころ」は何を感じてる?
すぐには、わからない。私は、それを探してしまう。--というも、不思議だ。靴のこころが何を感じているか、それを実感しないのに、
靴にもこころがある
自分にもこころがあるからそれが分かる
ここに感動する。
そのことをよく考えてみると、「靴にこころがある」ということ、そのことの発見自体に感動していることがわかる。靴にこころがあるとは考えたことがなかった。だから、靴にこころがあると言われたとき、私はびっくりした。そして、靴にこころがあるとわかるのは、自分にこころがあるからだ、と気がついた--というふうに読んでいることに気がついた。
何を考えていてもいいのだ。何を感じてもいいのだ。こころがあるとは思ったこともないものに、こころがあるとわかったから、そしてそのことを「分かる」と谷川が書いているから感動したのだ。
だから。
私は先に「靴のこころ」と「自分のこころ」が「ひとつ」になっている--というようなことを、よく考えもせずに書いたけれど、実は違うね。
自分のこころ(谷川のこころ)は「新しい靴がほしい」と思っている。ところが、靴はそうではない。新しい靴にとってかわられたくないと思っている。捨てられたくないと思っている。「もう身内同然だ」と心底思っているのは、私(谷川)ではなく、靴の方だろう。
あれ、でも、そうすると変だね。
「もう身内同然だ」というのは、私(谷川)の思いであり、身内同然だから新しい靴がほしいのだけれど、捨てるわけにはいかない、というのが、この詩ではないのかなあ。
何かが(論理が、意味が)どこかで、すれ違っている。入れ替わっている。
この入れ替わりがたぶん、詩なのだ。
入れ替わることができるのは、それが「ひとつ」のもの。「同じもの」だからである。言い換えると、「靴のこころ」と「自分のこころ」は「ひとつ(同じもの)」である。
ほら、最初にもどった。何かがわかるというのは、自分以外のものに自分の「こころ」を感じるからかもしれない。「こころ」がひとつになる、といえばいいのか--と書いたことに、もどってしまった。
「こころ」は「ひとつ」で、こころではないものが入れ替わる。
「こころ」はいつでも「ひとつ」。
ある時は「靴」と、ある時は「花」と入れ替わる。あるいは、ある時は若い娘と、ある時はおばあちゃんとも入れ替わる。すべての「いのち」と入れ替わる。そうやって、何かが「分かる」ということが起きる。
あ、こんなふうに「意味」にしてはいけないね。
違うことを書いておこう。
なぜ「スニーカーのこころ」ではなかったのかな? 「たたきの上」の「たたき」っていまの若者はわかるかな? 最初に読んだときは気がつかなかったけれど、あ、このスニーカーとたたきの組み合わせは、なかなか新しいな、と思った。
詩の意味とは関係がないだろうけれど、あ、谷川はまだ「たたき」ということばが自然に出てくるのだ、と驚いた。あ、私自身、最初に読んだとき、違和感はなかったのだけれど、書き写してみて、あっ、と声が漏れてしまったのだった。
(左手だけで、親指シフトのキーボードをつかうのはとても不便。左半分の文字と右半分の文字の入力スピードが完全に違い、ことばが動かない。ことばは、頭だけでは動かない、とあらためて思った。--ということも、書いておこう。)
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