詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「こころ」再読(8)

2013-08-03 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(8)

 私は実は07月30日火曜日の夜、車道を逆に走ってきた自転車を避けようとして、自転車ごと転び、右手が動かせない。(08月02日までのものは、事前に書きためておいたもの。)で、手が不自由だとことばもなかなか動かないのだが、そういうときは、詩に対してどんな反応が起きるのか、それを知りたいと思って、ちょっと書いてみる。

靴のこころ

ふと振り向いたら
脱ぎ捨てたスニーカーが
たたきの上で私をみつめていた
くたびれて埃(ほこり)まみれで
あきらめきった表情だが
悪意はひとつも感じられない

靴にもこころがある
自分にもこころがあるからそれが分かる
靴は何も言わないが
何年も私にはかれて
街を歩き道に迷い時にけつまずいた
もう身内同然だ
新しい靴がほしいのだが……

 この詩で思わず傍線を引いてしまうのは2連目の

靴にもこころがある
自分にもこころがあるからそれが分かる

 ここ。
 そうか、何かがわかるというのは、自分以外のものに自分の「こころ」を感じるからかもしれない。「こころ」がひとつになる、といえばいいのか。
 靴からはなれて。たとえば花。その花を美しいとこころが感じるとき、花のこころを私は美しいと感じている。花のこころと私のこころが「美しい」ということばのなかで「ひとつ」になっている。花の形、花の色というものがあるとしても、それは花のこころが形、色になったもの。花の形、色は、花のこころである。
 でも、その「靴のこころ」は何を感じてる?
 すぐには、わからない。私は、それを探してしまう。--というも、不思議だ。靴のこころが何を感じているか、それを実感しないのに、

靴にもこころがある
自分にもこころがあるからそれが分かる

 ここに感動する。
 そのことをよく考えてみると、「靴にこころがある」ということ、そのことの発見自体に感動していることがわかる。靴にこころがあるとは考えたことがなかった。だから、靴にこころがあると言われたとき、私はびっくりした。そして、靴にこころがあるとわかるのは、自分にこころがあるからだ、と気がついた--というふうに読んでいることに気がついた。
 何を考えていてもいいのだ。何を感じてもいいのだ。こころがあるとは思ったこともないものに、こころがあるとわかったから、そしてそのことを「分かる」と谷川が書いているから感動したのだ。
 だから。
 私は先に「靴のこころ」と「自分のこころ」が「ひとつ」になっている--というようなことを、よく考えもせずに書いたけれど、実は違うね。
 自分のこころ(谷川のこころ)は「新しい靴がほしい」と思っている。ところが、靴はそうではない。新しい靴にとってかわられたくないと思っている。捨てられたくないと思っている。「もう身内同然だ」と心底思っているのは、私(谷川)ではなく、靴の方だろう。
 あれ、でも、そうすると変だね。
 「もう身内同然だ」というのは、私(谷川)の思いであり、身内同然だから新しい靴がほしいのだけれど、捨てるわけにはいかない、というのが、この詩ではないのかなあ。
 何かが(論理が、意味が)どこかで、すれ違っている。入れ替わっている。
 この入れ替わりがたぶん、詩なのだ。
 入れ替わることができるのは、それが「ひとつ」のもの。「同じもの」だからである。言い換えると、「靴のこころ」と「自分のこころ」は「ひとつ(同じもの)」である。
 ほら、最初にもどった。何かがわかるというのは、自分以外のものに自分の「こころ」を感じるからかもしれない。「こころ」がひとつになる、といえばいいのか--と書いたことに、もどってしまった。
 「こころ」は「ひとつ」で、こころではないものが入れ替わる。
 「こころ」はいつでも「ひとつ」。
 ある時は「靴」と、ある時は「花」と入れ替わる。あるいは、ある時は若い娘と、ある時はおばあちゃんとも入れ替わる。すべての「いのち」と入れ替わる。そうやって、何かが「分かる」ということが起きる。

 あ、こんなふうに「意味」にしてはいけないね。

 違うことを書いておこう。
 なぜ「スニーカーのこころ」ではなかったのかな? 「たたきの上」の「たたき」っていまの若者はわかるかな? 最初に読んだときは気がつかなかったけれど、あ、このスニーカーとたたきの組み合わせは、なかなか新しいな、と思った。
 詩の意味とは関係がないだろうけれど、あ、谷川はまだ「たたき」ということばが自然に出てくるのだ、と驚いた。あ、私自身、最初に読んだとき、違和感はなかったのだけれど、書き写してみて、あっ、と声が漏れてしまったのだった。

 (左手だけで、親指シフトのキーボードをつかうのはとても不便。左半分の文字と右半分の文字の入力スピードが完全に違い、ことばが動かない。ことばは、頭だけでは動かない、とあらためて思った。--ということも、書いておこう。)











こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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