谷川俊太郎「こころ」再読(5)
感想を感想のまま書くのはむずかしい。すぐに批評になり、批評は「意味」にたどりつこうとする。あることばに反応し、そこからいままで誰も言っていない「意味」を引き出すと、それが「批評」と呼ばれたりするのだが、
あ、うさんくさい、
と、自分で書きながらこのごろしきりに思うようになった。
「意味」になる前にことばをほうりだしたい、と思うようになった。
谷川の詩には、「意味」にたどりつかない詩と「意味」になってしまう詩とがある。「意味」はそのまま「感動」を呼び起こすのだけれど、もしかすると、その前のことばの方が詩そのものとして大切なのでは、重要なのでは、とも思うのである。
「キンセン」という作品。
この詩では「共鳴」と「健在」が「意味」をつくる。何かに共鳴する心がある時、その心は健在である。--そして、その「意味」に満足して、この詩に「共鳴」した気持ちになってしまう。
最後の4行に、あ、いいなあ、そうなんだなあ。おばあちゃんは、琴線に触れる瞬間をいま生きている、と思うとなんとなく幸せな気持ちにもなる。
--と書くと、きっと「批評」に近づく。
でもね。
その前の、
この「じゃなくて」の繰り返し、言い直し--そのなかにも、若い人の「口調」だけではなくて、瞬間的に動くものがある。それは詩とは呼ばれないものかもしれないけれど、その口調にであった瞬間、あ、こんなふうにして動く心があるなあ、と思い出す。こころというより「肉体」が近いかもしれない。「肉体」で、言い換えると「舌」をつかって言いなおすことで、何かを整える。ことばで自分を整え直す。
これも、もしかしたら、詩の仕事。--ことばの仕事。
「健在」の前に出てくる、
これも、いいなあ。「ここがどこか分からなくなっても/自分の名前を忘れてしまっても」というのは「分かる」「忘れる」という動詞といっしょになって、「認知症」そのものを浮かび上がらせる。「認識」の問題、何かを認識できるかどうかが「認知症」かどうかの分かれ目。
そういう「認識」の前に、ふっと差し挟まれた「ご飯を食べる」。「ひとり」で食べる。でも、ごはんというのは、もともとひとりで食べるものなんかじゃない。いや、そのときの「ひとり」は意味が違う--という反論が聴こえてきそうだけれど(聴こえてくるのを承知であえて書いているのだけれど)、そこに「肉体」があるという感じ、そしてその「肉体」というのはいつでも「他人」を求めているということが、うまくことばにならないまま、ふっと感じられる。
こういうところが、谷川のすごいところだなあ。
「ここがどこか分からなくなっても/自分の名前を忘れてしまっても」だけでは抽象的で(意味になりすぎていて)、おばあちゃんが見えてこないのだけれど、「ひとりでご飯が食べられなくなって」があると、いっしょにご飯を食べている「くらし」が「肉体」(家族の肉体)とつながって見えてくる。
何度か詩を読み返していると、この行で、ふっと胸が熱くなる。それこそ、この行が「キセンに触れてくる」。
感想を感想のまま書くのはむずかしい。すぐに批評になり、批評は「意味」にたどりつこうとする。あることばに反応し、そこからいままで誰も言っていない「意味」を引き出すと、それが「批評」と呼ばれたりするのだが、
あ、うさんくさい、
と、自分で書きながらこのごろしきりに思うようになった。
「意味」になる前にことばをほうりだしたい、と思うようになった。
谷川の詩には、「意味」にたどりつかない詩と「意味」になってしまう詩とがある。「意味」はそのまま「感動」を呼び起こすのだけれど、もしかすると、その前のことばの方が詩そのものとして大切なのでは、重要なのでは、とも思うのである。
「キンセン」という作品。
「キンセンに触れたのよ」
とおばあちゃんは繰り返す
「キンセンって何よ?」と私は訊(き)く
おばあちゃんは答えない
じゃなくて答えられない ぼけてるから
じゃなくて認知症だから
辞書ひいてみた 金銭じゃなくて琴線だった
心の琴が鳴ったんだ 共鳴したんだ
いつ? どこで? 何が 誰と触れたの?
おばあちゃんは夢見るようにほほえむだけ
ひとりでご飯が食べられなくなっても
ここがどこか分からなくなっても
自分の名前を忘れてしまっても
おばあちゃんの心は健在
私には見えないところで
いろんな人たちと会っている
きれいな景色を見ている
思い出の中の音楽を聴いている
この詩では「共鳴」と「健在」が「意味」をつくる。何かに共鳴する心がある時、その心は健在である。--そして、その「意味」に満足して、この詩に「共鳴」した気持ちになってしまう。
最後の4行に、あ、いいなあ、そうなんだなあ。おばあちゃんは、琴線に触れる瞬間をいま生きている、と思うとなんとなく幸せな気持ちにもなる。
--と書くと、きっと「批評」に近づく。
でもね。
その前の、
おばあちゃんは答えない
じゃなくて答えられない ぼけてるから
じゃなくて認知症だから
この「じゃなくて」の繰り返し、言い直し--そのなかにも、若い人の「口調」だけではなくて、瞬間的に動くものがある。それは詩とは呼ばれないものかもしれないけれど、その口調にであった瞬間、あ、こんなふうにして動く心があるなあ、と思い出す。こころというより「肉体」が近いかもしれない。「肉体」で、言い換えると「舌」をつかって言いなおすことで、何かを整える。ことばで自分を整え直す。
これも、もしかしたら、詩の仕事。--ことばの仕事。
「健在」の前に出てくる、
ひとりでご飯が食べられなくなっても
これも、いいなあ。「ここがどこか分からなくなっても/自分の名前を忘れてしまっても」というのは「分かる」「忘れる」という動詞といっしょになって、「認知症」そのものを浮かび上がらせる。「認識」の問題、何かを認識できるかどうかが「認知症」かどうかの分かれ目。
そういう「認識」の前に、ふっと差し挟まれた「ご飯を食べる」。「ひとり」で食べる。でも、ごはんというのは、もともとひとりで食べるものなんかじゃない。いや、そのときの「ひとり」は意味が違う--という反論が聴こえてきそうだけれど(聴こえてくるのを承知であえて書いているのだけれど)、そこに「肉体」があるという感じ、そしてその「肉体」というのはいつでも「他人」を求めているということが、うまくことばにならないまま、ふっと感じられる。
こういうところが、谷川のすごいところだなあ。
「ここがどこか分からなくなっても/自分の名前を忘れてしまっても」だけでは抽象的で(意味になりすぎていて)、おばあちゃんが見えてこないのだけれど、「ひとりでご飯が食べられなくなって」があると、いっしょにご飯を食べている「くらし」が「肉体」(家族の肉体)とつながって見えてくる。
何度か詩を読み返していると、この行で、ふっと胸が熱くなる。それこそ、この行が「キセンに触れてくる」。
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