詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(25)

2013-08-20 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(25)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「心の色」を読む。

食べたいしたい眠りたい
カラダは三原色なみに単純だ
でもそこにココロが加わると
色見本そこのけの多様な色合い

 あ、三大欲望は「カラダ」が主張(?)するんだ。
 谷川は簡単に体とこころの二元論から出発しているようにも見えるけれど、「色見本そこのけの多様な色合い」に変化するのはカラダだから、どこかでしっかり結びついていることになる。
 単純な二元論ではないね。
 だとしたら、たとえば逆は言えないのかな?

食べたいしたい眠りたい
ココロは三原色なみに単純だ
でもそこにカラダが加わると
色見本そこのけの多様な色合い

 ココロが食べたいと思ってもアレルギーがあり食べられない。したくても肉体的に不可能。眠りたいと思っても目は覚めたまま…うーん、こっちの方が「現代」とシンクロしそうだなあ・・・
 よくわからない。
 よくわからない、といえば、さっき私は1連目の最後の「色合い」がかわる「主体」をカラダと書いたのだが・・・

その色がだんだん褪せて
滲んで落ちてかすれて消えて
ココロはカラダと一緒に
もうモノクロの記念写真

 あれっ、主体はカラダからココロになっている。1連目の最後も、カラダにココロが付け加わるとき、反作用のようなものがあり、ココロの色が変わるということか。
 この主体の移行には、谷川はカラダとココロを比較したとき、ココロを優位に置いているという無意識が隠れているかもしれない。

いっそもう一度
まっさらにしてみたい
白いココロの墨痕淋漓
でっかい丸を描いてみたい

 3連目では肉体はみあたらない。「描く」というがあるから、そこのかろうじて肉体が残っているかな?
 カラダが消えると、急に、抽象的、観念的になった気がする。墨で丸を描くというのは禅宗かな? こんなことを考えるのは「意味」にとらわれているということだね。

 「意味」が強く残る詩だ。


あさ/朝
谷川 俊太郎,吉村 和敏
アリス館
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谷元益男『骨の気配』

2013-08-20 09:31:12 | 詩集
谷元益男『骨の気配』(本多企画、2013年08月01日発行)

谷元益男『骨の気配』は、自然と共にある暮らしを描いているように見えるが、うーん、私はこの世界を信じることができない。過疎化が進むということは田舎の自然がそのままのこるということとは違う。若者の消えた村に、「土着の思想/土着の哲学/土着の科学」が残っているとは私は感じたことがない。どんな「思想/科学」も、それを引き継ぐ若者がいないかぎり消えてゆく。若者に「誤読」されない限り、生き残れない。批判され、拒絶され、そのときの、一種の抵抗のようなものが働かない限り、「純粋」という不治の病のなかで死んでゆく。
いまさら、そういう「悲劇」を抒情と呼んでみてもしようがないと思う。
谷元がここで書いているのは「私(谷元)」を消して、つまり「無私」の状態で、自然と人間の営みをよみがえらせるという方法なのだが、嘘っぽすぎて、困ってしまう。たとえば「畝の中」。

病に倒れた男は
やせた足を引き摺り
湿ったワラを敷きこんだ畑の畝に
失ったことばを
植えつけていった

たとえば、男のつくる芋が男のことばである――という比喩は比喩としてわかるが、そのことばを拒絶する若者のいないところでは、それは比喩どころか芋ですらない。畑で育てた芋を若者は食べない。スーパーで、コンビニで買った芋を食べる。その芋は「栽培」という過程をもたない芋なのである。

ことばは
畝の中で白い根をはり
徐々に伸びていく
空の隙間をさがして
枝分かれした蔦のように
幾筋にも
くねっている

このことばは、この芋は、過去の「抒情」にむかって育ってゆく。もちろん過去の中で育ってもいいのだけれど、谷元に、過去の中で育てているという意識はあるのか。自覚し、時代に背を向けて、知らん顔をして生きるのなら、それはそれでかまわないが、そうなら詩集という形にしないでもいいだろう。

「自前」というものを、こんな形にしてはいけない。美しく整えてはいけない。美しく整わないから「自前」なのだ。


水をわたる
谷元 益男
思潮社
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