詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(29)

2013-08-24 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(29)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)


 「ココロノコト」という作品に私は驚いてしまった。

たどたどしい日本語でその大男は
「ココロノコト」と言ったのだ
「ココロノコトイツモカンガエル」

 ほんとうのことなのだろうか。何語かわからないが、「ココロノコト」の「コト」を、たとえば英語ではどういうのだろう。外国語に、この文脈でいう「コト」はあるのだろうか。
 私の印象(直観)では、「こころのこと」の「こと」は日本語特有のものに思える。「こころのこと」は単なる「こと」ではなく、こころななかで「起きている」こと、つまり、「こと」は名詞だけれど、問題の焦点は「起きている」という動詞なのではないか。
 翻訳は、時々、その国語によって、動詞派生の名詞を動詞に活用させて訳したり、動詞を名詞化して訳したりすると文脈が落ち着くことがある。
 ちなみに、「私は心の中で起きていることをいつも考える」をgoogleに翻訳させると「I think all the time what is happening in the mind.」、「私はこころのことをいつも考える」は「I think always that of the heart.」である。

心事という言葉は多分知らない男の
心事より切実に響く<心のこと>
柔和な目をした大男は言う
「カミサマタスケテクレナイ」
世界中の聖地を巡る旅を終えて
妻子のもとへ帰るという
故郷の町で不動産業を営むとか

 「心事」ということばは、私は知らなかった。漢字なので読めば「意味」の見当はつくが、聞いたことがない。初めて知った私が言うと変かもしれないが、

心事より切実に響く<心のこと>

 これって、「大男」にとって「切実」じゃないよね。知らない人間は、比較のしようがない。谷川にとって「切実に」響いた。
 その「切実さ」は、大男の切実さと「ひとつ」かなあ。よくわからないのである。

すき―谷川俊太郎詩集 (詩の風景)
谷川 俊太郎
理論社
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岡島弘子「いちまい」、松岡政則「あとはよくわからない」

2013-08-24 08:45:38 | 詩(雑誌・同人誌)
岡島弘子「いちまい」、松岡政則「あとはよくわからない」(「交野が原」75、2013年09月01日発行)

 私は裁縫というものを知らないのだが、岡島弘子「いちまい」は楽しい。

青空いちまいを立体裁断する
ひかりのはさみがうごいて
リボン 肩ひも
前スカート 後ろスカートを裁つ

ツバメの針が舞って ちくちく縫う
脇線を縫う 切り替え線を縫う
あのひとのこころも縫い合わせる

 夏の明るい光が見える。「ツバメの針が舞って ちくちく縫う」は童話みたいだが、岡島はこのときツバメになっている。ツバメが縫うのを見ているのではなく、ツバメになって空を自在に待っている。でも、ファンタジーだけではない。「脇線を縫う 切り替え線を縫う」と、ちゃんと「手順」をふまえて仕事をしている。「脇線」「切り替え線」というのは私にはわからないのだけれど、そういう私の知らないことを、きちんと動かしている、というところに岡島の肉体を見るようで、とても安心する。
 「あのひとのこころも縫い合わせる」は、あのひとに見てもらいたい、きれいだねといってもらいたい、ということだね。「あのひとの、あんなところは嫌い。縫い閉じてしまおう。そうすれば大好きなあの人だけになる」ということかな。どっちにしても、「あの人が好き」という気持ちが、裁縫をする中で強くなっていく感じが、2連目にくっきりあらわれている。そういう思いを「縫い合わせる」というのは、実際に手仕事をするときの推進力なんだろうなあ。

入道雲のレースを飾り
小花模様を刺繍する
から草 つる草をあしらい
おもいのままに かがりつけ

スコールのあとの
水玉が消えないうちに
ジュッとアイロンがけ
クールビズの
サマードレスいちまいできあがり

 この喜びを、私は知らない。けれど、この喜びを詩を読むことで自分のものにすることができる。私にもこの喜びが「わかる」と「誤読」することができる。



松岡政則「あとはよくわからない」の1連目。

かすかに、鉄(クロ)のにおいがする
艸絮がいっぱいとんでくる
ことばになろうとするもののかすかな怯え、のようなもの
(あとはよくわからない

岡島は裁縫という仕事(肉体)をとおして、夏の風景をすべて「わかる」。裁縫をしているとき、岡島には「わからないこと」はなかった。
ところが、この詩の松岡にはわかることは少ない。そして、これはひとつの矛盾(詩)なのだが、「あとはよくわからない」ということだけは、はっきりと「わかる」。いま、ここには「ことばになろうとするもののかすかな怯え、のようなもの」が、ある。
でも、その「いま、ここ」って、何?
松岡は「いま、ここ」と書いていないのだけれど、私は「いま、ここ」と仮定して、ことばを読み直し、

かすかに、鉄(クロ)のにおいがする

「鉄」を「クロ」と呼ぶ(読む)ところに、松岡の「いま、ここ」があると思う。「鉄」を「クロ」ということばで呼び出す松岡の「過去(体験)」がいま、ここに噴出してきている。その「過去(肉体)」が、ほかの「もの」が「ことば」になるのをせき止めている。とりあえず「艸絮」はことばになった。しかし、そのほかのものは? 艸の一本一本は? 風は? 光は? ことばになろうとするが、なりきれない。「クロ」ということばと「肉体」でつながらない。
「クロのにおい(嗅覚)」と「艸絮がいっぱい(視覚)」は「わかる」が「あとは(残りの世界は)」わからない。肉体の中に、感覚はまだ眠っていて、肉体になりきれず、したがってことばにもなりきれず、松岡をつつんでいる。
そういう状態で、松岡は夢を見る。夢想する。

わたしがひろがっていく、が野っぱらだ
ことばの素顔にさわりたい、が詩だ
(いいや逆でもかまわない
ながいこと都市の身ぶりでいるともう自分の手とも思えない

「都市の身ぶり」を「頭(たとえば鉄という漢字)」とするなら、「クロのにおい」は「肉体」である。


口福台灣食堂紀行
松岡 政則
思潮社
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