平田俊子「マドレーヌ発」(「現代詩手帖」2014年01月号)
平田俊子は「語呂合わせ」の上手な詩人である。「マドレーヌ発」を読む。
マドレーヌは「窓」レーヌ、マーマレードは最初の音と最後の音をつなぐと「窓」。だから「よく探さないと」見つからない--ということなのだろうが。
私は昔から「だじゃれ、語呂合わせ」の類が苦手で、こういうことをやっている人の「肉体(思想)」がまったく見えなかったのだが、この詩を読んで、あ、そうなのか、と「肉体」に触れる感じがした。
「よく探さないと」。そうか、平田は、ことばを「よく探す」人なのだ。ことばのなかに何か隠れていないか、つついてみるんだろうなあ。つつきながら、そこから出てくるものを、「つかまえた!」と逃がさない。そういう詩人なのだ。
ちょっと難しい人なんだ、と思っていたら、その「難しい」という文字がつづいてできてたのは、「わたしってすごい!」かどうか、わからないが。
ことばを探し回って「マドレーヌ」へもどってくる。これは、「自分」から絶対に離れないということだね。「よく探す」というのは、「自分」を「自分」のままにしておいて、他者(他人/もの)を「自分」に引きつけてしまうということだ。「自分」から「他人」にむかって歩いていくようで、そうじゃないんだ、ということが、この「マドレーヌ」へもどってくるところによくあらわれている。あくまで自分の「肉体」(覚えていること)をよく探す。
で、マドレーヌへいったんもどって(もどることができることを確認して)、平田は、私なんかは思いつかないところへ飛躍する。
離れたものの出会い、そしてまた離れていく。そこに鴎外とエリスを関連づける。平田は、鴎外とエリスというのはどういう関係だったのかを、マドレーヌとマーマレードのような関係だったと、まあ、変な「比喩」で語るのだが、なんとなく、そうかもしれないなあと感じさせる。錯覚させる。--というようなことは、まあ、どうでもよくて。
私が思ったのは、そうなのか、平田は鴎外に関心があるのか。平田は鴎外を「肉体」として覚えているのか、ということ。で、鴎外について考えたことを、鴎外の方に歩み寄りながらも鴎外と同化するのではなくて、突き放して、見つめなおす。突き放しながら、突き放すことでしか見えない何かを探す。自分の「肉体」とつながるものを、「文豪・鴎外」ではなく「人間・鴎外」のなかに探す。鴎外にも食べ物の嗜好はある。鴎外もまた人間だから食べる。そうすると、変なエピソードを思い出す。
ここで、平田が「よく探した」のは鴎外は「ごはんに葬式饅頭をのせて煎茶をかけて食べる」という変な癖(?)ではなく、それが「好き」ということではなく--ひとは誰でも「好き」があるということを「よく探した」のである。「何が」ではなく「好き(好く)」という行為/動詞を見つけ出したのである。
誰でも何かが「好き」。「何か」という対象は違っても「好き」ということはかわらない。そして、その「好き」のためにひとは苦労する。変な目でみられたりする。ごはんに葬式饅頭のお茶漬け--というのは変。じゃあ、マドレーヌとマーマレードの語呂合わせをして遊ぶのが好きというのは、変じゃなくて、まっとう? わからないが、「好き」というのは、どうしたって変なところがあるのだ。変じゃない「好き」なんて、ないと考えた方がいい。
問題は(と言っていいのかどうか、わからないが。)
鴎外は葬式饅頭のお茶漬けが好き--というのは、ふつうの人から見て変だけれど、そういうことを変だと認識する視線、誰か(何か)を特別視する視線のために、鴎外とエリスは「好き」を邪魔されたのだ、ということ。
平田は、そういうものをだじゃれ、語呂合わせをとおして「探し出した」。平田の「耳」になじんでいることばを探しながら、見つけ出した。「よく探した」。
もっと違う形で鴎外とエリスの悲恋を描き出すこともできるかもしれないが、平田はあくまで語呂合わせという「自分」から離れずに、それを描くために、「よく探さないと見つからない」ものを見つけてきた。鴎外は葬式饅頭のお茶漬けが好き、ということを見つけ出してきた。
それがみつかったとき、平田のことばは加速する。そして、鴎外とエリスの悲恋、出会いながら別れなければならない運命を、また「語呂」のなかをくぐらせて書く。
とっても変な詩だが、その変なところに、平田はちゃんと生きていて、自分を手放さない。がんこな美しさがあるなあ。
平田俊子は「語呂合わせ」の上手な詩人である。「マドレーヌ発」を読む。
マドレーヌが欲しいと思っていると
一時間後に知り合いから届いた
わたしってすごい!と驚喜したが
よく見ると届いたのは
マーマレードだった
わたしって全然すごくない
窓があるからマドレーヌは明るい
マーマレードにも窓はあるけど
よく探さないと見つからない
マドレーヌは「窓」レーヌ、マーマレードは最初の音と最後の音をつなぐと「窓」。だから「よく探さないと」見つからない--ということなのだろうが。
私は昔から「だじゃれ、語呂合わせ」の類が苦手で、こういうことをやっている人の「肉体(思想)」がまったく見えなかったのだが、この詩を読んで、あ、そうなのか、と「肉体」に触れる感じがした。
「よく探さないと」。そうか、平田は、ことばを「よく探す」人なのだ。ことばのなかに何か隠れていないか、つついてみるんだろうなあ。つつきながら、そこから出てくるものを、「つかまえた!」と逃がさない。そういう詩人なのだ。
ちょっと難しい人なんだ、と思っていたら、その「難しい」という文字がつづいてできてたのは、「わたしってすごい!」かどうか、わからないが。
フィ難シェ
フィ難シャル
ヒ難クンレン
あちらこちらに難所があるので
戸惑う
逃げ惑う
マドレーヌ
ことばを探し回って「マドレーヌ」へもどってくる。これは、「自分」から絶対に離れないということだね。「よく探す」というのは、「自分」を「自分」のままにしておいて、他者(他人/もの)を「自分」に引きつけてしまうということだ。「自分」から「他人」にむかって歩いていくようで、そうじゃないんだ、ということが、この「マドレーヌ」へもどってくるところによくあらわれている。あくまで自分の「肉体」(覚えていること)をよく探す。
で、マドレーヌへいったんもどって(もどることができることを確認して)、平田は、私なんかは思いつかないところへ飛躍する。
鴎外はごはんに葬式饅頭をのせて
煎茶をかけて食べるのが好きだった
饅頭の中身は
ハワイ餡もあれば
エピキュリ餡や
ポメラニ餡
鴎外は高瀬舟に舞姫をのせて
山椒大夫をかけて食べるのが好きだった
窓がないから高瀬舟は暗い
窓があればなお暗い
エリスをば早や積み果てつ
マドレーヌをば早や積み果てつ
マドンナはいるが
マドモアゼルは消えた
(フランスの公文書から
はめ殺しの窓
まどろみの窓
エリスという栗鼠
鴎外という貝
最初からあまりに違う生態
マーマレードとマドレーヌ以上に
遠く離れて
エリスと鴎外
離れたものの出会い、そしてまた離れていく。そこに鴎外とエリスを関連づける。平田は、鴎外とエリスというのはどういう関係だったのかを、マドレーヌとマーマレードのような関係だったと、まあ、変な「比喩」で語るのだが、なんとなく、そうかもしれないなあと感じさせる。錯覚させる。--というようなことは、まあ、どうでもよくて。
私が思ったのは、そうなのか、平田は鴎外に関心があるのか。平田は鴎外を「肉体」として覚えているのか、ということ。で、鴎外について考えたことを、鴎外の方に歩み寄りながらも鴎外と同化するのではなくて、突き放して、見つめなおす。突き放しながら、突き放すことでしか見えない何かを探す。自分の「肉体」とつながるものを、「文豪・鴎外」ではなく「人間・鴎外」のなかに探す。鴎外にも食べ物の嗜好はある。鴎外もまた人間だから食べる。そうすると、変なエピソードを思い出す。
鴎外はごはんに葬式饅頭をのせて
煎茶をかけて食べるのが好きだった
ここで、平田が「よく探した」のは鴎外は「ごはんに葬式饅頭をのせて煎茶をかけて食べる」という変な癖(?)ではなく、それが「好き」ということではなく--ひとは誰でも「好き」があるということを「よく探した」のである。「何が」ではなく「好き(好く)」という行為/動詞を見つけ出したのである。
誰でも何かが「好き」。「何か」という対象は違っても「好き」ということはかわらない。そして、その「好き」のためにひとは苦労する。変な目でみられたりする。ごはんに葬式饅頭のお茶漬け--というのは変。じゃあ、マドレーヌとマーマレードの語呂合わせをして遊ぶのが好きというのは、変じゃなくて、まっとう? わからないが、「好き」というのは、どうしたって変なところがあるのだ。変じゃない「好き」なんて、ないと考えた方がいい。
問題は(と言っていいのかどうか、わからないが。)
鴎外は葬式饅頭のお茶漬けが好き--というのは、ふつうの人から見て変だけれど、そういうことを変だと認識する視線、誰か(何か)を特別視する視線のために、鴎外とエリスは「好き」を邪魔されたのだ、ということ。
平田は、そういうものをだじゃれ、語呂合わせをとおして「探し出した」。平田の「耳」になじんでいることばを探しながら、見つけ出した。「よく探した」。
もっと違う形で鴎外とエリスの悲恋を描き出すこともできるかもしれないが、平田はあくまで語呂合わせという「自分」から離れずに、それを描くために、「よく探さないと見つからない」ものを見つけてきた。鴎外は葬式饅頭のお茶漬けが好き、ということを見つけ出してきた。
それがみつかったとき、平田のことばは加速する。そして、鴎外とエリスの悲恋、出会いながら別れなければならない運命を、また「語呂」のなかをくぐらせて書く。
とっても変な詩だが、その変なところに、平田はちゃんと生きていて、自分を手放さない。がんこな美しさがあるなあ。
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