詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

一月一五日に上京したとき、

2014-01-27 19:21:26 | 
一月一五日に上京したとき、

一月一五日に上京したとき長谷川等伯を見た。
上野の国立博物館の二階の二号室。

入った瞬間に、雨にぬれた。
墨の濃淡が描く雨が部屋中に広がっていた。
松は屏風のなかでけぶっていた。
雨がわずかな風に、集まったり散らばったりしている。
松と松の間を雨が近づけたり遠ざけたりしている。
その雨が屏風からあふれ、流れ、ただよって、私を取り囲む。
そう書くと詩になるかもしれないが。

違った。
私は雨ではないものにぬれた。
              私は、ふるさとの山の中にいる。
山では雨は空から降るのではない。
地面から水蒸気がわきあがる。
土の温かさがこまかい水分を蒸気にして吐きだす。
それがゆらゆらと揺れる。
細かな蒸気はゆらゆらと高みへのぼり、空にたどりつき、雲になり
雨になってかえってくるのだが、
寒い日は水分は天にまでのぼりきれない。
雨になれないまま、不完全に、そこにただよっている。
ただよって広がっていく。
形をくずしていく。
さびしい、かなしい、こまかなこまかな水蒸気。
山は、まだ何かを吐きだそうとしている。
飽和しているもののなかへ。
その飽和を抱え込み、しかも揺する山の土の、草の、湿り。

微分も積分もできない、
灰色の輝き。

ああ、これは能登のつけ根の、ふるさとの山じゃないか。
七尾からつながっている能登の山の
どこへもいかない湿り。
どこへも行けないものたち。
見たことがある。
私はそれを見ている。
松ではなく、その細かな息のような水の形を。
山の気配を。


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木村恭子「調味料」

2014-01-27 09:19:15 | 詩(雑誌・同人誌)
木村恭子「調味料」(「くり屋」60、2014年02月01日発行)

 木村恭子「調味料」は「調味料」とは関係のないところからことばが始まる。学校はどこにあるかと人に尋ねられ、ついでがあるから案内しますと一緒に歩きだす。

歩き始めると おおもりゆきこさんを覚えていらっし
ゃいますか と言うのです その瞬間むしょうに懐か
しいもので胸がいっぱいになりました
でもへんなのです おおもりさんの思い出は何一つ浮
かんできません
わたしは 遅刻して夏休みのひっそりかんとした教室
にぽつんと立っているような気がしました

 こういうことは私は体験したことがないけれど、ありうることだと思う。知っているはずなのに思い出せないことというものはあるからね。
 「遅刻」した夏休みの教室というのは、現実にはありえない(夏休みだから遅刻しようがない)のだけれど、気分的に「わかる」。夏休みの教室へ行ってみるとだれもいないので、まるで遅刻してきたためにみんなに会えなかったのか、と思う感じ。遅刻したら全員に会えるのだから、この感じは「矛盾」を含んでいるのだけれど、その「矛盾」が逆に真実のように思える。--「矛盾」した感じでしか言えないような、奇妙なことがらがある。そして、この詩の場合、すでに「懐かしい」のに思い出せないという矛盾を抱え込んでいるので、算数でマイナスとマイナスをかけたらプラスになるような、「理屈」では説明するのが難しいけれど、めんどうだから、そういうことにしてしまえ、みたいな(?)感じで何かが伝わってくる。
 自分の知らないところ(完全にたどりつけないところ)に「真実」があって、それがなぜだか見えてしまうような感じと言い換えることができるかなあ。
 こういう感じはなかなかことばにすることができない。うれしい予想がぴったりあたってしまったために逆に拍子抜けしてがっかりする感じ--なぜか逆に「裏切られた」というような思いがふっと胸にはいり込んでくるのに似ている。人間は天の邪鬼なのかもしれない。思い通りにならない方が「真実」と思う癖がついているのかなあ。
 こういうことを、さらりと書いてしまうのはすごいなあ。
 そのあとも、なかなか興味深い。

困っているとその人が話し始めます
ホラ いつかあなたがお母さんにひどく叱られた朝 
一緒に登校してくれたでしょ 仲間はずれにされた日
も 校庭の隅で 黙って並んで縄跳びをしてくれたで
しょ それからあなたが骨折した時 毎日励ましてく
れたじゃないですか

ああそれなら人違いです わたしには骨折の経験がな
いですし と言おうとし でも一方で数年前に実家の
整理をしていた時 片腕を三角巾で吊るしたピンボケ
の子供の写真があったような気がします するとやは
りおおもりゆきこさんは いつもわたしの傍にいてく
れた子供なのでしょうか

 人間の記憶はまだらになっているというか、思い出せることと思い出せないことがあり、そこには勘違いも入ってくる。なんでも人間の脳は自分の都合のいいように「事実」をねじまげて処理してしまうらしいから、あれは、ほんとうはどっちだったのだろうということはしばしばあるものだ。
 不思議なことに、木村の詩を読みながら、母親に叱られたこととか、仲間はずれにされたこととか、誰かに励まされたこととか、骨折したこととか(あるいは誰かが骨折したのを見たこととか)、昔の写真をぼんやりとみつめたこととかが、思い出されてくる。
 木村が木村の過去を思い出しているのか、私が自分の過去を思い出しているのか、知らず知らずのうちにどこかで、あいまいになる。
 たぶん。
 「その人」と「わたし」が会話をする、そしてその会話の中に、ほんとうにあったことか、記憶の間違いかわからないようなものが混じりあうという「こと」が、逆にはっきりと目の前に浮かんでくる。木村は「わたし(木村)」と「その人」、あるいは「おおもりさん」との間にあった「事実」ではなく、人の記憶というものはまじりあうという「こと」を正確に書いているのだと思う。
 「こと」というのは、ちょっと抽象的すぎて説明にならないのだけれど……。それを木村は、あっと驚く「比喩」で語ってしまう。

それからふと お砂糖やお塩のことを思いました 役
目を終えると 名指すことの出来ない味わいだけを残
して 姿を消してしまうもののことを

 あ、いいなあ。この説明。「姿を消してしまうもの」。
 で、感激してしまって、私は何を書こうとしていたのだったのかなあと思わず考えこんでしまうのだけれど、いや、思い出しながら困ってしまうのだけれど。
 木村は、ある「こと」を正確に書いた。その「こと」というのは、説明しようとすると「姿」を正確にとらえることができない。「こと」というのは「名詞」ではなくて、「動詞」のようなものなんだろうなあ。動きのなかでのみ存在する何か。「姿」のような「名詞」には転換できない何か。
 木村は、

お砂糖やお塩の「こと」
名指す「こと」
姿を消し去ってしまうものの「こと」

 と三回「こと」を繰り返している。そして最終連にも「しだいにそれらのことすらわからなくなってゆくのでした」と「こと」が出てくる。この詩は「こと」に関する「哲学」、「もの」と「こと」は違うという哲学、「もの」は名詞(姿)であるけれど、「こと」は動詞(きえてしまう)であるという哲学を書いているんだね。

六月のサーカス―木村恭子詩集 (エリア・ポエジア叢書)
木村 恭子
土曜美術社出版販売
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西脇順三郎の一行(71)

2014-01-27 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(71)

「坂の夕暮れ」

なければならないのか

 きのう書いたことのつづきになるが、この「なければならないのか」という一行は一行として不自然である。文章になっていない。前の行の「急ぐ人間の足音に耳を傾け/なければならないのか」とつながって、初めて「意味」がわかる。
 「……なければならないのか」はこの作品にはほかにも出てくる。「悲しい記憶の塔へ/もどらなければならいのか」「まだ食物を集めなければならないのか」。他のところでは、「意味」が通じるように書かれているが、私の取り上げたところだけ、一行が独立している。
 なぜなんだろう。
 「なければならないのか」という「音」が、それ自体として好きだったのだ。西脇はその「な」と「ら行(れ/ら)」が交錯する音が音楽としておもしろいと感じたから、それだけを単独に取り出して聞いてみたかったのだ。音楽として響かせてみたかったのだ。
 「意味」ではなく、「音楽」が西脇のことばを動かしている。
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