詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河邉由紀恵「つゆくさ」

2014-01-29 09:53:42 | 詩(雑誌・同人誌)
河邉由紀恵「つゆくさ」(「どぅるかまら」14、2014年01月10日発行)

 河邉由紀恵「つゆくさ」は朔太郎の「竹」のような感じで始まる。つまり、根っこが土のなかにはびこって、絡んでゆく感じ。

あおい青いつゆくさはどこへむかってのびて
いるのかかわいた土をすこうしつかんでえび
色の節からちろと根を出し枝わかれしてつな
がってふたたび土をつかんでぐびぐびぐびと

 「ちろと」「ぐびぐびぐびと」という音の動きにいつもの河邉の肉体を感じるが、その前の「ふたたび土を」の「ふたたび」に私はうーむ、と思う。根が増えていくのは初めてのことではなく「ふたたび」になるのか。新しいね(のびた根)にとっては、どこも新しい世界であって「ふたたび」ではないのになあ、と思いながら読むと……。

のびてゆくなかにもほそいしんをもつおんな
の足の骨のようにしたたかな茎くきはとおい
遠い北のほうをむいているからこころをなり
ゆきにまかせてあおい青いつゆくさがのびる

ほう北の方に向かっておんなの足になりすま
してついてゆけばあらあらみなみひがし西の
方からもじょろじょろとあおい青いつゆくさ
の知らないおんなの足たちが追いかけてくる

 つゆくさの根が「おんなの足」になる。なるほどなあ。河邉はおんなである。つゆくさの根の動きにおんなを見ている。つまり自分の「にくたい」を見ている。つゆくさの根ののびる「運動(いのちの動き)」におんなを見ている。だから、それはどんなに新しいことであっても「ふたたび」なのだ。自分の肉体が覚えていることを、そこであらためて見ているのだ。
 そうして見てみると、そのあたりには「おんな」だらけ。河邉ひとりではなくおんなというものが生きて動いている。
 どこへ?

いな穂がみのる田んぼのあぜ道のそば土手の
うえ小道のわきをどこまでもどこまでも進む
四人のおんなの足たちは坂のうえに見えるう
すぐらい牛小屋にむかってのびているようで

たどりつくと小屋のなかには牛はいないけれ
どさっきまで牛がいたようになつかしいぬる
いくぼみが北のほうにあるのをあおい青いつ
ゆくさのおんなの足たちは知っていたらしい

 「牛」は比喩か。「おとこ」の比喩か、あるいはセックス(行為)そのものの比喩か。--ということを私は感じてしまうのだが、それは牛がもっている獣(動物)のにおい、そしてそれが「なつかしい」とか「ぬるい」ということばと一緒に動いているからである。「牛」が何であるかわからないけれど、「うすぐらい」「なつかしい」「ぬるい」ということばが、「おんな」と一緒に動きだし、そこに「くぼみ」ということばまで加われば、男の私は、どうしてもセックスを思い浮かべる。
 そんなことは書いていない、と河邉が主張しても、そんなことは関係がない。作者というのはいつでも本心を指摘されると否定するものである。つまり、否定せざるを得ないほどほんとうのことなのである。--という「理屈」も私は付け加えてしまうのだが……。
 まあ、何が書いてあるかというのは、読む人(私)にとっては二の次。何を読み取れるか、何を「誤読」し、そこで知らない誰かと出会えるかしか考えない。
 河邉が何を書きたかったのか、私は「ほんとう」をつきとめたいとは思わない。「ほんとう」かどうかわからないけれど、この詩を読むと、河邉が書いているのは「つゆくさ」なのか「おんな」なのか、わからなくなる。「つゆくさ」が比喩なのか、「おんな」が比喩なのかわからなくなり、混じりあう。そしてそれは、「土」のなかをのびているはずなのにいつのまにか「牛」にであう。「牛」をもとめている。「うすぐらい」「なつかしい」「ぬるい」「くぼみ」ものと交わっている。
 「くぼみ」と交わるのは男であっておんなではない--まあ、理屈は、そうだね。
 でも、それを「再確認」しているとしたら? つまり、意識のなかで「ふたたび」思い出しているのだとしたら? 自分のことを「くぼみ」と呼んだとしても、そんなに不思議ではない。何かを「ふたたび」確認するとき、それは少し「姿」を変えて、比喩にするとよりわかりやすくなるからね。比喩というのは「ふたたび」認識するための強調なのである。
 で、この「ふたたび」の「認識」。それがあきらかにするのは、

知っていたらしい

 の「知る」。「知っている」のは「おぼえている」こと。肉体が「おぼえていること」を河邉は「知っている」と書いている。それは「忘れられない」という意味でもある。
 ね、
 こんなふうに「誤読」すると、これはますますセックスになるでしょ? 最終連。

牛小屋のくぼみのなかにおんなたちがよろこ
んでじょろじょろと足ゆびをいれるとそのぬ
るさにより足たちはちぢんであおい青いつゆ
くさのほそいしんをもつ骨がのこされている

 さて、ここからセックスにつながることばを、あなたはいくつ書き出すことができますか? あなたの肉体が「おぼえている」セックスとどのことばがつながりますか?

桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社
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西脇順三郎の一行(73)

2014-01-29 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(73)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

それは淋しいことだが仕方がない                  (85ページ)

 長い作品なので、この作品も1ページ1行ずつ選んでみる。
 「淋しい」ということばは西脇のお気に入りのことばである。しきりに出てくる。そのせいだろうか、「仕方がない」と書いているのだけれど、どうも「あきらめた」という感じがしない。
 むしろ、当然、いや「必然」という感じで響いてくる。
 しかし、この感想は「正直」ではないかもしれない。「淋しい」ということばが頻繁に出てくるということを私はすでに知っている。だから、その熟知のことと「必然」を結びつけているのかもしれない。
 「淋しい」を肯定して、その先へと動いていく感じがする。
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