河邉由紀恵「つゆくさ」(「どぅるかまら」14、2014年01月10日発行)
河邉由紀恵「つゆくさ」は朔太郎の「竹」のような感じで始まる。つまり、根っこが土のなかにはびこって、絡んでゆく感じ。
「ちろと」「ぐびぐびぐびと」という音の動きにいつもの河邉の肉体を感じるが、その前の「ふたたび土を」の「ふたたび」に私はうーむ、と思う。根が増えていくのは初めてのことではなく「ふたたび」になるのか。新しいね(のびた根)にとっては、どこも新しい世界であって「ふたたび」ではないのになあ、と思いながら読むと……。
つゆくさの根が「おんなの足」になる。なるほどなあ。河邉はおんなである。つゆくさの根の動きにおんなを見ている。つまり自分の「にくたい」を見ている。つゆくさの根ののびる「運動(いのちの動き)」におんなを見ている。だから、それはどんなに新しいことであっても「ふたたび」なのだ。自分の肉体が覚えていることを、そこであらためて見ているのだ。
そうして見てみると、そのあたりには「おんな」だらけ。河邉ひとりではなくおんなというものが生きて動いている。
どこへ?
「牛」は比喩か。「おとこ」の比喩か、あるいはセックス(行為)そのものの比喩か。--ということを私は感じてしまうのだが、それは牛がもっている獣(動物)のにおい、そしてそれが「なつかしい」とか「ぬるい」ということばと一緒に動いているからである。「牛」が何であるかわからないけれど、「うすぐらい」「なつかしい」「ぬるい」ということばが、「おんな」と一緒に動きだし、そこに「くぼみ」ということばまで加われば、男の私は、どうしてもセックスを思い浮かべる。
そんなことは書いていない、と河邉が主張しても、そんなことは関係がない。作者というのはいつでも本心を指摘されると否定するものである。つまり、否定せざるを得ないほどほんとうのことなのである。--という「理屈」も私は付け加えてしまうのだが……。
まあ、何が書いてあるかというのは、読む人(私)にとっては二の次。何を読み取れるか、何を「誤読」し、そこで知らない誰かと出会えるかしか考えない。
河邉が何を書きたかったのか、私は「ほんとう」をつきとめたいとは思わない。「ほんとう」かどうかわからないけれど、この詩を読むと、河邉が書いているのは「つゆくさ」なのか「おんな」なのか、わからなくなる。「つゆくさ」が比喩なのか、「おんな」が比喩なのかわからなくなり、混じりあう。そしてそれは、「土」のなかをのびているはずなのにいつのまにか「牛」にであう。「牛」をもとめている。「うすぐらい」「なつかしい」「ぬるい」「くぼみ」ものと交わっている。
「くぼみ」と交わるのは男であっておんなではない--まあ、理屈は、そうだね。
でも、それを「再確認」しているとしたら? つまり、意識のなかで「ふたたび」思い出しているのだとしたら? 自分のことを「くぼみ」と呼んだとしても、そんなに不思議ではない。何かを「ふたたび」確認するとき、それは少し「姿」を変えて、比喩にするとよりわかりやすくなるからね。比喩というのは「ふたたび」認識するための強調なのである。
で、この「ふたたび」の「認識」。それがあきらかにするのは、
の「知る」。「知っている」のは「おぼえている」こと。肉体が「おぼえていること」を河邉は「知っている」と書いている。それは「忘れられない」という意味でもある。
ね、
こんなふうに「誤読」すると、これはますますセックスになるでしょ? 最終連。
さて、ここからセックスにつながることばを、あなたはいくつ書き出すことができますか? あなたの肉体が「おぼえている」セックスとどのことばがつながりますか?
河邉由紀恵「つゆくさ」は朔太郎の「竹」のような感じで始まる。つまり、根っこが土のなかにはびこって、絡んでゆく感じ。
あおい青いつゆくさはどこへむかってのびて
いるのかかわいた土をすこうしつかんでえび
色の節からちろと根を出し枝わかれしてつな
がってふたたび土をつかんでぐびぐびぐびと
「ちろと」「ぐびぐびぐびと」という音の動きにいつもの河邉の肉体を感じるが、その前の「ふたたび土を」の「ふたたび」に私はうーむ、と思う。根が増えていくのは初めてのことではなく「ふたたび」になるのか。新しいね(のびた根)にとっては、どこも新しい世界であって「ふたたび」ではないのになあ、と思いながら読むと……。
のびてゆくなかにもほそいしんをもつおんな
の足の骨のようにしたたかな茎くきはとおい
遠い北のほうをむいているからこころをなり
ゆきにまかせてあおい青いつゆくさがのびる
ほう北の方に向かっておんなの足になりすま
してついてゆけばあらあらみなみひがし西の
方からもじょろじょろとあおい青いつゆくさ
の知らないおんなの足たちが追いかけてくる
つゆくさの根が「おんなの足」になる。なるほどなあ。河邉はおんなである。つゆくさの根の動きにおんなを見ている。つまり自分の「にくたい」を見ている。つゆくさの根ののびる「運動(いのちの動き)」におんなを見ている。だから、それはどんなに新しいことであっても「ふたたび」なのだ。自分の肉体が覚えていることを、そこであらためて見ているのだ。
そうして見てみると、そのあたりには「おんな」だらけ。河邉ひとりではなくおんなというものが生きて動いている。
どこへ?
いな穂がみのる田んぼのあぜ道のそば土手の
うえ小道のわきをどこまでもどこまでも進む
四人のおんなの足たちは坂のうえに見えるう
すぐらい牛小屋にむかってのびているようで
たどりつくと小屋のなかには牛はいないけれ
どさっきまで牛がいたようになつかしいぬる
いくぼみが北のほうにあるのをあおい青いつ
ゆくさのおんなの足たちは知っていたらしい
「牛」は比喩か。「おとこ」の比喩か、あるいはセックス(行為)そのものの比喩か。--ということを私は感じてしまうのだが、それは牛がもっている獣(動物)のにおい、そしてそれが「なつかしい」とか「ぬるい」ということばと一緒に動いているからである。「牛」が何であるかわからないけれど、「うすぐらい」「なつかしい」「ぬるい」ということばが、「おんな」と一緒に動きだし、そこに「くぼみ」ということばまで加われば、男の私は、どうしてもセックスを思い浮かべる。
そんなことは書いていない、と河邉が主張しても、そんなことは関係がない。作者というのはいつでも本心を指摘されると否定するものである。つまり、否定せざるを得ないほどほんとうのことなのである。--という「理屈」も私は付け加えてしまうのだが……。
まあ、何が書いてあるかというのは、読む人(私)にとっては二の次。何を読み取れるか、何を「誤読」し、そこで知らない誰かと出会えるかしか考えない。
河邉が何を書きたかったのか、私は「ほんとう」をつきとめたいとは思わない。「ほんとう」かどうかわからないけれど、この詩を読むと、河邉が書いているのは「つゆくさ」なのか「おんな」なのか、わからなくなる。「つゆくさ」が比喩なのか、「おんな」が比喩なのかわからなくなり、混じりあう。そしてそれは、「土」のなかをのびているはずなのにいつのまにか「牛」にであう。「牛」をもとめている。「うすぐらい」「なつかしい」「ぬるい」「くぼみ」ものと交わっている。
「くぼみ」と交わるのは男であっておんなではない--まあ、理屈は、そうだね。
でも、それを「再確認」しているとしたら? つまり、意識のなかで「ふたたび」思い出しているのだとしたら? 自分のことを「くぼみ」と呼んだとしても、そんなに不思議ではない。何かを「ふたたび」確認するとき、それは少し「姿」を変えて、比喩にするとよりわかりやすくなるからね。比喩というのは「ふたたび」認識するための強調なのである。
で、この「ふたたび」の「認識」。それがあきらかにするのは、
知っていたらしい
の「知る」。「知っている」のは「おぼえている」こと。肉体が「おぼえていること」を河邉は「知っている」と書いている。それは「忘れられない」という意味でもある。
ね、
こんなふうに「誤読」すると、これはますますセックスになるでしょ? 最終連。
牛小屋のくぼみのなかにおんなたちがよろこ
んでじょろじょろと足ゆびをいれるとそのぬ
るさにより足たちはちぢんであおい青いつゆ
くさのほそいしんをもつ骨がのこされている
さて、ここからセックスにつながることばを、あなたはいくつ書き出すことができますか? あなたの肉体が「おぼえている」セックスとどのことばがつながりますか?
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