詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中尾太一「身、一つ」

2014-01-09 09:37:16 | 詩(雑誌・同人誌)
中尾太一「身、一つ」(「現代詩手帖」2014年01月号)

 私は最近、私は年をとったなあ、と思う。ことばの好みが限定されてきた。昔から知っているひとのことばの「音楽」には、すっと入っていけるのに、年代が離れると「音」と「リズム」がうまくかみあわない。耳が極端に衰えてきている。私はもともととんでもない音痴で、耳はよくないのだが。(網膜剥離後、目の調子がよくなくて、その影響で耳も新しい音を拒んで、なじみのある音ばかり探してしまうのかもしれない。)
 こんなことではいけないなあ、ことばの楽しみが半分以下に減ってしまうなあ、と思いながら、じっと若い人のことばに耳を傾けてみた。中尾はもう「若い」というくくりからははみだした詩人かもしれないが、私から見ればとても若い。その中尾の「身、一つ」。

「君が泣いていたらぎゅっと抱きしめるのに、狂う手元」
別れ指、少量の血だけをみる視線の弧に垂直の断罪を引用する
この立体する経験をなんに喩えられようか

 さあ、聞くぞ、音楽を聞くぞ--と私が身構えたせいだろうか。思っていた以上に「音楽」が聞こえてきた。中尾って、こういう詩人だったかな? よく思い出せないのだが……。

立体する経験

 ここが美しい。音が響いてくる。知らないところから、聞いたことある?とやってくる音がある。その前の「垂直の断罪を引用する」の音楽を踏まえながら、その上にぱっと開いたあざやかな花のよう。
 「垂直に断罪する」という「音」が何か深部へ落ちていく感じがするのだが、それに反して「立体する体験」は、その垂直の底から立ち上がってくる感じ。上下の運動が急激に入れ替わる感じ。その立ち上がってくる(「立体」のなかに「立つ」ということばがある)感じが、とても遠い。遠くて静かで、届かないのだが、届こうとしている感じ。それこそ「立体感」を垂直方向に感じる。深い深い井戸から聞こえる地下水の流れる音のよう。この音は、あくまでも「垂直の断罪」というものがあって、そこから響いてくる。
 --これって、どう意味? あ、そんなふうに聞かれたら答えられないんだけれどね。「意味」を私は考えていない。「意味」はことばをつないでいけばうまれてくるだろうけれど、たとえば「君が泣いて」「抱く」「別れ」「視線」というようなことばから、強引に「青春の抒情」という「意味」を作り上げることもできるだろうけれど、それは詩の楽しみじゃないと思う。「意味」はわからなくていい。「意味」なんて、どうせ、他人が考えたこと。そうじゃなくて、ただ、そこに

立体する経験

 という、わけのわからない何かがある。「もの」のようにして「音」がある、ということが大事なのだと思う。この「音」が中尾なのだ。あるとき、中尾は「立体する体験」ということばといっしょにいた。そのことばのなかに中尾がいる、という感じがいい。「なんに喩えられるだろうか」と中尾が書いているくらいだから、中尾が書こうとしている「意味」(それがあると仮定して)や「感情」は、私にはわからない。けれど、そのことばを書いた中尾がいるということは信じることができる。
 私はきっと信じられる「音(音楽)」を聞こうとしているのだと思う。
 きのう読んだ池井の詩の場合、それは「音楽」であると同時に「声」。これは私が池井を直接知っていることも関係してるのかもしれないが(「朗読聞くか」「いや、聞きたくない。読むのは好きだが朗読を聞くのは嫌い」といいながら、何回か「声」を聞かされた経験があるからそう思うのかもしれないが)、池井の詩からは「声」が響いてくる。肉体が響いてくる。
 中尾の場合、それは「声」とはかなり違う。「肉体」というより(喉や舌、口蓋、鼻腔が動くというより)、「頭(精神?)」が鼓膜を振動させる感じ。「声」として発音されない無音の、意識の音楽という感じ。これは、もしかすると私の肉体が老いてしまって、若い肉体の動きについていけないために、それを「精神」と呼ぶことで処理しようとしているだけなのかもしれないが……。

 で、中尾の音楽を「精神の音楽」と呼んでしまうと。あ、不思議。さらに「音楽」が聞こえてくる。なんだか耳に入ってくる。次々に、音が響きあうのが感じられる。

無縁ループの切開が自由すぎて、可読の息を吐くことができない君の感情が"crime" と呟く
別れ指、何に喩えられようか、直喩の暴動が僕にその身を捧げている
韜晦する美徳、虫の美徳に至り、言葉を愛せないことと、言葉を信じないことの
震撼する差を、知らないものなどいないだろう

 あ、私は、ここに書かれている「差」を「知らないもの」なんだけれど、こんなふうに否定されたからといって、それに抗議したいとは思わない。あ、そうなんだ、ほかのひとは、たぶん中尾のように若い世代は、ここに書かれている「差」を知っているのだ、と思うだけである。
 私は「震撼する差」か、かっこいいなあ。いい音楽だなあと思うだけである。これ、つかいたい。でも、どうやって? どこで? そんなことはわからないのだが、いつかこれを盗んでつかいたいと思う。最初に取り上げた「立体する経験」も盗みたい。「立体する」ということばを盗みたいなあ。「韜晦する美徳……」の一行は嫌いなんだけれど、私には「音楽」には聞こえないのだけれど、気にするまい。詩なのだから、自分の好きなところだけ勝手に楽しめばいい。(あ、中尾は怒るかな?)

ただ立体する経験の先端に触れる君の指の、血の体言止めに僕はアタマをやられている

 あ、この行もかっこいい。「血の体言止め」か。こういう「音楽」も私は知らない。「立体する経験」と遠いところ、聞こえないところから聞こえてくる音楽だったのに対し、これは耳のすぐそばで鳴りだす轟音のよう。私の方こそ「アタマをやられ」たのかもしれないが。

あと数年したら言葉の発破もはじけて、僕たちは黙っていても話をすることができるだろう
感じないかい、今、その端緒についているということを
だからみんな、見えないものが見えるという

 「感じないかい」と言われたら「感じるよ」と答えるしかない。そう答えながら「感じる」を一生懸命つくっていく。「それ違うよ」といわれるに決まっているのだけれど、何かを身につけるというのはそういことだよね。わからないまま、知ったかぶりをして、「あと数年したら(うまくいえば)」、それが「あ、あれはこういうことだったのか」と「わかる」。ことばが肉体のなかからもう一度やってくる。それまでは見えなくても「見える」と言ってみる。
 「立体する経験」「震撼する差」と、「音」を繰り返して私は私の肉体のなかにその「ことばの音楽」そのものを取り込むことができるからね。「意味」じゃなくて、ただ、その「音」を。美しいなあ、と感じながら。






中尾太一詩集 (現代詩文庫)
中尾 太一
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西脇順三郎の一行(53)

2014-01-09 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(53)

 「最終講義」

 この去る影は枯れた菫の茎に劣る                 (65ページ)

 西脇の好きなもの。思い浮かぶのは茄子と菫。ともに紫のものだ。
 この1行では、紫の花はわきに引く形で登場しているが、それが影と非常に似合っている。こうした隠れた色と色の響きあいを読むと、西脇はたしかに絵画的な詩人であると思う。(「たしかに」とことわるのは、私は西脇は絵画的というよりも音楽的な詩人だと思っているのだが、一般的には絵画的といわれることが多いからである。)
 影は「黒」のようであって黒ではない。その黒は影を受け止める「もの」の色とまじりあう。「もの」の色を静かにさせる。その静かな色が枯れた菫に似合う。
 と、書くと、西脇は「枯れた菫の茎」と書いているのであって、「枯れた菫(の花)」とは書いていないという声が聞こえてきそう。
 そうだね。「枯れた菫の茎」、その「茎」の音が乾いていて面白い。
 で、私の意識のなかでは「枯れた菫の茎」が「枯れた紫の茎」という具合にも変化する。「絵画的」な西脇--と思ったとき、そこに「紫」があらわれ、ことばをのっとっていく。そうして「か」れたむらさ「き」の「く」「き」という「か行」が響く。書かれていない音を聞きとって「音楽的」とも感じてしまうのだ。

 余談だが。
 中井久夫はことばのなかに色が見えると言っている。ランボーは母音を色で区別していた。ナボコフもことばに色を読み取っていた。私が「菫」ということばから「紫」を感じたのは「色が見える」というよりも連想の類だが、西脇はことばに色を見ていたのだろうか、とふと考えてみた。
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