詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石牟礼道子「檻の中の哲学」

2014-01-01 11:50:36 | 詩(雑誌・同人誌)
石牟礼道子「檻の中の哲学」(「現代詩手帖」2014年01月号)

 石牟礼道子「檻の中の哲学」は動物園の猿を見たときのことを書いている。遊んでいる猿を見ているうちに、異様な気配につつまれる。

振り返ると 大きな猿が檻の中にいて
二つの瞳がじっと私の背中を見つめていた
彼の方が先に闖入者に気づいて出てきたらしい
目が合った
何と深い孤独な目の色だったことか
彼は両手で 檻をぎゅうっと掴んで 何とも言えぬ表情になった

 「何と深い孤独な目の色だったことか」の「何と」は「感動詞(?)」なのだろうか。「深い孤独な」を強調している。でも、きっと強調だけではない。そこには「深い孤独な」と言うだけではたどりつけない「何か」がある。そのことばにならないものを「何と」と言っている気がする。それは次に「何とも言えぬ表情になった」の「何と」ともつながる。そこにはことばにならない何かがある。それはことばにできないけれど、石牟礼にはわかる。その「わかる」けれど「言えない」ものへ近づくために「何と」が動いている。「何と」が石牟礼を励ましている。「何と」の方へ突き進め、と。繰り返される「何と」のリズムが拍車をかける。ふたつの「何と」は文法的には違った意味(定義)があるのかもしれないが、混じりあって、動いている。石牟礼を動かしている。

この檻の中の大猿は どこの国の山奥から船に乗せられ 海を渡ってきたのか
夕方になって遠い故郷を思い出しているのかもしれない
一瞬の間にいろいろ連想した
おまえは誰だ
名前は何というか
どういう一生であったろう 猿の言葉は分からない
思春期もあっただろうに
どんな人間たちに会ったのだろう

 「何と」が何かはっきりしない、ことばにならないのは、そこには複数のものがまじっているからだ。「誰」「何という名前」「どういう」「どんな」。わからないものを、しかし人間は「……だろう」と推測する。その推測が、わからないものをひとつに混ぜ合わせ、凝縮する。そのとき「何と」が必然のように生まれてくる。そして、それは「一瞬の間」のできごとなのである。
 石牟礼はことばを順序立てて「何」をことばを変えながら繰り返しているが、これは「方便」であって、実際は「一瞬」なのだ。一瞬だけれど、石牟礼はそのなかにとどまる。その一瞬を広げようとする。そうすると、ことばがぶつかりあい、そこから「何か」が動きだす。「何と」としか言いようのなかったものが、ぶつかることばのなかから、噴出してくる。

赤の他人の私は どうしてあのような目でみられたのか

 この一行にも「どうして」という疑問は残っているが、「何と深い孤独な目の色」の「何と」は、もう「何と」ではない。
 「赤の他人」(石牟礼は猿を動物園に連れてきたわけではないからね)なのに、猿に見つめられ、訴えられる。ことばではなく、目で。そしてそのとき、石牟礼は「目の色」を見ているのだが、そこに「ことば」も聞いている。ことばにならないことばを聞いている。石牟礼は、そのことばを、もっともっと正確に聞きたくてしようがない。
 だが、猿は語らない。
 どうするか。
 石牟礼は、猿になって語るしかない。だが、猿にはなれない。ただ、猿を想像するしかできない。

長い間見つめ合っていた
その目の色は ただならぬ悲哀をたたえ
私などより はるかに辛く 暗い生涯であったろう
一人で檻に入れられて よほどに狂暴なことをしでかしたのか
大集団の中に入れは
大ボスになるに違いないのに
それなのに この大きな檻は何だ
憂愁に満ちた瞳の色 風格そのもののような容貌
彼は哲学者ではあるまいか
人道主義者はたくさんいるが
たとえば聖書を持たせたら
彼が一番よく似合うだろう

 猿になって、猿を代弁する--のではなく、猿にはならずに自分にとどまり、そこからことばを動かす。
 あ、正直がここにある、と思った。
 猿に共感というか、猿の悲痛な声を聞いたのだから、それをそのまま語ればもっとドラマチックになるのにと私などは乱暴に考えてしまうが、石牟礼はそういうことはしない。他人の替わりに語るということはしない。あくまで自分を語る。
 私たちは他人に代わることはできない。他人に代わって語るとき、そこには「嘘」が入る。真に共感していれば嘘ではないという見方もあるだろうけれど、石牟礼は、そこに嘘、暴力を感じるのだろう。あくまで自分に踏みとどまり「何」という疑問を残す。
 「何」は「疑問」ではあるけれど、それは「答え」をもっている。たとえば、

この大きな檻は何だ

 この「何」は、わかっている。「答え」をわからない人間はいない。(猿もいない。)けれど、わかっているが、ことばにはならない。その「答え」を理路整然と「流通言語」にしようにも、語ろうとすれば、怒りや悲しみが「答え」をつきやぶってしまう。「答え」をつきやぶって噴出する怒りや悲しみこそが「答え」をこえた「答え」なのだ。
 でも、それでは最初に設定した(仮定した?)「答え」が消えてしまう。
 何かを考えるということは、そういう矛盾につきあたるのだが、石牟礼は、正直にその矛盾に向き合っている。「答え」を捏造しないことで、ことばがさらに動いていくのを待っている。終わりのない精神、終わることを知らない強い共感--それが、石牟礼のなかで動いている。

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)
石牟礼 道子
講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西脇順三郎の一行(45)

2014-01-01 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(45)

 「失われた時 Ⅳ」

女の顔色が終わるところに女の顔色                 (57ページ)

 「女の顔色」が2回、行頭と行末に出てくる。行末から行頭に戻る感じがする。何が起きたのかよくわからないけれど、繰り返してみると(戻ってみると)、「女の顔色」ということばが、ことばを越えて「もの」のように感じられる。
 繰り返すということは、ふたたび「始める」ということである。
 だから、その行に「終わる」ということばがあるのに、終わった感じがまったくしない。それだけではなく、いまの行が、行わたりをして「がまた始まるそこに永遠がある」とつづいていくときの「始まる」がとても近しい感じ、肉体で覚えている何かのように感じられる。
 こんなふうにして、意識できない形で肉体の覚えている何かを思い出し、繰り返す--その瞬間に「永遠がある」、と断定されたら、うーん、そのまま信じてしまうなあ。
 「論理」ではなく「音楽」で信じてしまう。


西脇順三郎詩集 (現代詩文庫 第 2期16)
西脇 順三郎
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする