詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺みえこ『空の水没』

2014-01-03 11:25:13 | 詩集
渡辺みえこ『空の水没』(思潮社、2013年11月30日発行)

 詩集を読んでいて、途中で、はっとあることばに気づくことがある。その瞬間に、詩人の肉体に触れたように感じるときがある。渡辺みえこ『空の水没』の場合は、「花の咲き方」。その1連目。

ダリアが蕾を持った
疾走する天馬のように固い萼を
後ろに伸ばして
そのなかに星をつつんだビー玉のような
固い丸い蕾
どんな光が この固い蕾を
内側から 開かせるのだろうか

 「内側から」。これは渡辺が苦労して書いた一語ではないかもしれない。無意識に書いたことばかもしれない。たぶん、無意識だと思う。だから無防備に、そのことばが「さらされている」。裸のように、というと失礼かもしれないが、この一語で、私は渡辺がわかった。この「わかる」は「誤読」なのだが、突然、渡辺が「見えた」のである。
 「内側から」。何気なく読むけれど、なぜ、私はこのことばにどきっとしたのか。私は蕾は「内側から」開くとは感じていないからだ。これは、もちろん無意識であって、「内側から」とういことばに触れた瞬間に、あ、私と渡辺では「ものの見方」が違うと気づいたのだ。それが「わかる」ということ。
 私は蕾は「外側から」開くと感じている。一番外の一枚が、中心に向かっていた花びらの先を外側へ向ける。「外側」が開かないかぎり、内側にある花びらは開きようがない。植物(花)の実際は知らないけれど、内側がどんなにがんばっても外側が閉じているかぎり開きようがないだろう。
 でも、渡辺は「内側から」という。
 このとき渡辺は「内側から」押す力を感じている。「内側」から「開きたい」という欲望が頭をもたげる。筍が地面から頭を出すように、「内側から」エネルギーが外へ向かって動く。そうすると、それに反応して「外側」が押し広げられるのだろう。
 渡辺は、正確に「内側から 開かせる」と書いている。「内側から」「開く」ではなく、「開かせる」。
 自動詞ではなく他動詞だ。
 花は開く--を私は自動詞と思いつづけていたが、渡辺は他動詞ととらえ、そこから詩を書いている。でも、他動詞として書いているのはこの行だけで、

ふと見ていない間に
花が開いてしまうのではないかと
私は鉢を傍らに置いて見つづけた

 あるいは

夜になっても花は開かなかった

 と書いている。花は「開く」。自動詞である。自動詞としてつかうのが一般的なのに、1連目の最後の行だけ、渡辺は他動詞として書いてしまった。書かずにはいられなかった。--この、どうしようもなく犯してしまう間違い(?)のようなものを、私は「思想」と読んでいる。「肉体」の動きと感じている。渡辺から切り離せない何かなのだ。

 「内側」の反対のことばは「外側」である。
 渡辺の詩を読むと、「内側」と「外側」は別々なものではなく、「一体」のものである。そんなことは私が言わなくても「一体」なのかもしれないけれど、渡辺はこのことを強く意識している。意識できないくらいに意識している。意識しすぎて、それが「無意識」にまでなっている。つまり、自然とあらわれてしまう「思想」になっている。
 この「内側」と「外側」の「一体感」は、「その名」が特徴的だが母を書いたものにくっきりとあらわれる。

夏の終わり
照りつける西陽を背に
母は 決まって
ちゃぶ台の前の私の背に被さって
私の腕に母の腕を巻きつけた

母と私の手に沿って
魔法のように筆が動き
皺だらけの新聞紙に
美しい黒い墨の線が描かれていった
母の心臓の音が
私の背中に伝わった
それは私に
文字というものの
美しい鼓動を伝える音だった

 母は渡辺に文字(習字?)を教えている。覆いかぶさるようにして。そのとき渡辺は「内側」、母は「外側」なのだが、その「外側」の母は、「内側」の動きを誘い出そうとしている。「花の咲き方」とは逆なのだが、しようとしていることは同じ。「内側から」育つものを育てるのだ。それは「形」だけ見ると「押しつけ」のようにもみえるが、渡辺はそれを「押しつけ」(型にはめる)とは感じていない。あくまで、「内側」を育てると感じている。ここに、渡辺の「思想」がある。
 「内側」と「外側」はエネルギーを行き来させながら、「いま/ここ」にない何かを手に入れようとしている。「内側」と「外側」は交流している。「外側」は「内側」が「外側」を突き破って育っていくことを願っている。その「願い(祈り)」を感じるからこそ、「内側」にありながら、「外側」を抑圧するものとは感じない。守られて育っていると感じるのだ。
 「内側」「外側」の交流(入れ替わり)という視点から「草原の青空」を読むと、そのことばの動きがよくわかる。

ライオンに追われる草原のシマウマ
子供を隠し 逃げられるだけ逃げて
草原に倒れる時
自らの約束のように横になり
ライオンに首をさし出しながら
最期の青空を見つめる

その瞳に映る青空は
すべての死のための通路のように透明で
シマウマの瞳の中に天空がはいっていく
青空はそのような瞳のために在る
そんなことが一瞬信じられるかのように
死んでいくものの瞳が
澄んでいくときがある
シマウマは少しずつ無くなり
青空は天に返される

 ここには「内側」ということばはないが「約束」が「内側」である。それは「母のシマウマ」の「内部(本能)」である。だれが押しつけたものでもない。その「内側」を「外側」に押し出して、「内側」よりも安全な場所に子供を隠す。
 それが「自然」である。
 そして、そのとき「青空」は「外側」。「内側」が「外」に出て行くとき、その空っぽになった「内側」を埋めるために「外側」がやってくる。入れ替わる。それは、母が死に、子供が生きる「自然の掟(本能)」と重なり合う。
 渡辺は、シマウマの親子をただシマウマの親子としてみているのではなく、青空のもとにある「世界」そのものの「本能(内側にあるほんとうの掟)」として見ている。
 これは渡辺の「肉体(思想)」であるけれど、同時に渡辺の母の「肉体(思想)」でもあるのだ。渡辺は、シマウマを描いた後、母を思い出している。

天空が青く透明なのは
死んでいくいきものの瞳の
静かな諦めのようなもの
そんなものを吸い込んで
あんなに透明なのだ
と母は言ったような気がする

若く死んでいった母が
言ったような気がする

 なんだか涙が出てくる。「内側」の純粋な祈りに洗われるような感じ。「内側」はいつでも「外側」へにじみでて、無限に広がっていく。その広がりは無限なので、ひとはそれに気がつかない。「区切り」が「ない」ので--ずーっとつづいているので気がつかない。「内側」ということばをつかうとき、はじめてそこに「内側」が生まれてくる。そして、そのことに気がつく。渡辺はそのことに、触れている。「気がついている」というよりも、しっかりとつかんでいる。しっかりとつかんでいるので、つかんでいることさえ気がつかない。母親の手をしっかりつかんでいるこどもが、つかんでいるということに気がつかないのと同じだ。こどもは母親の手を直接感じるだけである。

 「内側」につながることばは、たとえば「名は」では、

ゆるやかな水のような名が
体の奥深くから聞こえてくるのを感じた

 という具合に「体の奥深く」ということばになっている。「内側」はいつでも「からだ(肉体)」と関係している。それは「痕跡(あと)」という作品に象徴されている。この作品では、「内側」がつかわれている。私は、最初、このことばを読み落としていた。「花の咲き方」まで読み進んで、あ、どこかに「内側」があったかもしれないと思い読み返して気づいた。ここにも「母」が登場する。「内側」は渡辺にとって母のすべてである。

海の底を這いながら
真珠母貝が
貝自身を守るために作った
内側の秘かな朝焼けに
はいり込んできた異物を
胞衣(えな)のようなもので包み
暗い光の傷を抱き続ける
人が産道を覚えているなら
人の赤ん坊もきっと
あのような真珠母色に
傷を輝かせて
壊れないこころを
作ることができる
生涯をかけて

 生涯をかけて、渡辺は母の内側から誕生し、母の内側へはいり込み、母になるのだと思った。内側ということばをつかうとき、渡辺は母といっしょにいる。母になっている。




空の水没
渡辺 みえこ
思潮社
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西脇順三郎の一行(47)

2014-01-03 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(47)

 「失われた時 Ⅳ」

永遠の追憶に人間をぬらすからだ                  (59ページ)

 西脇のことばには「渇いた」印象がある。しかし、西脇は同時に「しめった」感じも書いている。「ぬらす」「ぬれる」ということばも西脇は好んでつかっている--と思う。具体的に数を数えたわけではないが。たとえば「南風は柔い女神をもたらした。」ではじまる「雨」は「ぬらした」の行列である。
 ただし、西脇の「ぬらす/ぬらす」は「水分がつく(おおう)」というのとは少し違うような感じがする。「雨」には「噴水をぬらした」と「ぬれる」はずのないものが「ぬれ」ている。
 「ぬらす」には「濡らす」とは別に「解らす」ということばもあるが、この「解らす(解けままにする、ほどく)」とどこかで通じている。
 人間は「永遠の追憶」に触れて、ほどけたままになる。そうして「ぬらり」と輝く……というような感じへと連想を動かす。
 「ぬれる」から「なめらか」「つややか」「かがやく」へと連想を広げると、なんだか色っぽくなるね。「永遠の追憶」のなかで、人間は色めくのだ。
 だからというわけでもないのだろうけれど、この後西脇のことばは「男は女の冬眠のための道具にすぎない」というようなところへ進んで行く。

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