詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「無断でコラージュ」

2014-01-02 10:33:57 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「無断でコラージュ」(「現代詩手帖」2014年01月号)

 谷川俊太郎「無断でコラージュ」には前書きがついている。

自分が書く詩に飽きたので、「現代詩年鑑2013」掲載の作品から、無断でコラージュしてみました。

 あ、でもコラージュすることと書くことの違いは? コラージュだと自分で書いたことにはならない? そんなことはないだろうなあ。と思うのだけれど、こういうことを考えるのは私は苦手。どんどん考えが狭まっていって、何を考えようとしていたのかわからなくなる。考えると「結論」を出さないといけないような気がしてきて、考えつづけると「結論」が向こうからやってくるというようなこともあって、そうなると、もうそれは「罠」だね。
 さて、そういう「頭をかすめたこと」をどれだけ振り切って、私はことば(書き方というべきかな、この場合は)と遊ぶことができるか。

明るさの気分がする
そこからあふれ出した声が
開始の合図 野はふるえる
かろやかにしんしんと

生きているとふいに出くわす
羊 風船 戦争 インポ
きみの無知がかかえて歩く
妄執 贖罪 黒糖饅頭

死者も歴史もすっかり古びた
バカヤローのカラ元気
その道すがらにふと
ないものに手を伸ばす

ああどこか遠くで
不可能の音 世界は気まぐれの
ずぶ濡れの過ぎ去った場所
天空に逃げる笑顔の花嫁

覚えていますか わたしたちの
えたいの知れない眩暈と出鱈目
ありとあらゆる時代の労働が
不安にざわめきひびわれかわく

 1行が1パーツとしてコラージュされているのか、1分節(単語)が1パーツとしてコラージュされているのか、私はそれすら想像がつかないのだけれど。
 おもしろいのは改行の瞬間、連から連への変化の瞬間。
 1行目から2行目への変化は1行目を読むだけでは予測できない。でも2行目を読むと1行目とつながって感じる。詩のことばは前へ前へと進んでいるはずなのに、逆のことが起きる。前へ進むふりをして、過去を引っ張り出す。
 あ、これがコラージュだね。
 どんなことばにも「来歴」がある。そのことばが発生する瞬間の「事実」がある。そういう事実、生まれ出る前の事実を、ことばによって生み出していくというのが人間のしている仕事なんだと思うけれど、そういうことは「未生の事実」がなくても、ことばがつくり出すことができる。
 「事実」はことばに遅れてやってくる。ことばが動くことで「事実」が生まれてくる。いままでのことばではとらえられなかったこと、というのは、そういう感じでしかことばにならない。
 そして、いったん動きはじめると、ことばは、その引っ張り出した「過去」を「未来」にしてしまう。「事実」なんかないのに、それを「事実」にして、それを踏み台にして動いてしまう。「未来」を探して動いてしまう。で、探し出したものが「過去」か「未来」か区別がつかなくなる。ごちゃまぜになる。
 コラージュの定義がどういうものか私ははっきりとは知らないが(知らないままことばをつかっているが)、それは「引用」ではなく、「攪拌」と言いたくなる感じがする。それも「過去」「未来」の攪拌ではなく「今」の攪拌。
 「今」だけが、そこに存在する。攪拌する。攪拌して、何かを衝突させ、そこから始まる化学変化のようなものだけが存在する。「動き」(動詞)だけが存在する。「主語」は抜きにして……。

 あ、変なことを書いてしまったなあ。
 ことばは、変なこともどんどん受け入れて動いてしまうからいやなんだなあ。どうしても「意味」になろうとするからめんどうくさいね。
 「意味」になると谷川のしていることからどんどん遠ざかる。
 最初にもどって言いなおしてみよう。

 谷川はことばを引用してつなぎあわせる。そのとき、最初のことばには、どんな「過去」も「未来」もない。けれど2行目(次の)ことばが引用されると、そこに「過去」と「未来」が生まれてくる。それは、存在したかもしれない「過去」であり「未来」である。もとの1行(単語)がになっていたものとは別の「過去」「未来」が出現する。
 このとき、かけ離れたことば(引用されたことば)は何によって結びつけられているのか。
 「音楽」である--と私の「感覚の意見」は主張する。「意味」(論理)ではなく、「意味/論理」を内部からこわしていく力、ことばから「意味/論理」を解放する楽しさが、そこではことばを支配している(ことばのエネルギーになっている)と感じる。
 今書いた「抽象的」なことは、まあ、いいかげんなことなので、何とでも言い換えることができそうなのだが……。
 具体的に言いなおそう。1連目。
 「明るさ」「あふれる」「開始」(あるいは合図)をつなぐいきいきとした「動き」。「意味」というより「音」として感じる。そういうことばを発するときの「肉体」の、喉や唇、口蓋、鼻腔、それから耳の動きとして感じる。同時に「明るさ」と反対(意味的に)の感じがする「ふるえる」の衝突に、「肉体」が反応する。「ふるえる」が含む緊張が「合図」と響きあい、「ふるえる」が「明るさ」にも感じられる。「ふるえる」は書いていないけれど「わくわく」という感じ。それは「重く」ではなく「かろやか」。「こころ」が感じるのか、「肉体」が感じるのか、区別がつかないけれど。
 あれ、でも「しんしん」は?
 わからない。私の「肉体」は耳をすますが、それは私の「肉体」の知らないところからやってきている。だから、わからない。
 これから書くことは、かなり奇妙な言い分だけれど、その「わからない」があるところが、谷川のおもしろさ(味わい)なのだ。
 そういう「わからない」ものが出現した瞬間、私は奇妙なことに、私自身の知っている何かを思い出す。谷川のことばを読んでいるはずなのに、私が瞬間的に引っ張り出される。「わからない」ことは自分を手がかりに自分の「肉体」から引っ張り出すしかないからね。これを「誤読」というのだけれど。「声(音)」にならない何かを、わからないまま「声(音)」にしようとする。
 で、私は、それでは1連目をどんなふうに「誤読」したかというと、雪の降る前の風景のように「誤読」したのだ。雪の降る寸前、「明るい気分がする」。空中からあふれ出すように雪があらわれる。雪が降る前に、その降るという「開始」の合図の前に、野はふるえる。かろやかにふるえ、雪が舞い、それからしんしんと降り積もる。
 そんなことは書いていない--そう、書いていないのだけれど、谷川のことばによって、私の「過去」がそんなふうに結晶してくる。音楽の和音のように。
 これが可能なのは、そこに「意味」があるからではなく、「音楽」があるからだ。私の「肉体」が聞いてきた「音楽」--雪が降りはじめるときに静かに鳴りだす音楽があるからだ。

 と、書いて、私はまた間違えた、と思う。
 ことばはめんどうくさい。途中で自分勝手に暴走する。「意味/論理/ストーリー」をつくってしまって、書こうとしていた「音楽」は違うものになって、そこにのさばってしまう。

 「音楽」というのは「意味」の「超越」である。「意味」を内部から解体し、ことばを解放するもの、ことばとことばの接続を切り離す暴力である、つまり「無意味」である。(と、乱暴なことばに頼ってみよう)。
 2連目の、

羊 風船 戦争 インポ

 この1行は最初から1行? きっと違うと思う。この行で一番おもしろいのは「インポ」である。前のことばとどういう繋がりがあるか見当がつかない。けれど、それはたしかに「生きているとふいに出くわす」ことがらである。「戦争」は笑えないけれど、「インポ」は笑える。本人には笑えないかもしれないけれど、笑える。何か、一瞬、世界が切断され、まったくの「個人」になってしまったような、不思議なおかしさ。何かに出会うというのは「個人」が「一人」ではなくなるということだけれど(戦争が特にそうだね)、「インポ」というのは完全に「個人的ことがら」。あ、相手がいるから「個人的」じゃない? いや、相手がいても「個人的」だと思うなあ。
 で、ここから私はまた「音楽」を思うのだ。「音楽」というのは完全に「個人的」なことがらだね。どの音が好き、どの音とどの音の組み合わせが好き--というのは、肉体が覚えている何かと関係しているのだと思うけれど、それは具体的には指摘できない。「わけもなく」好きなのだ。(不思議なことに、まったく個人的、つまり「理由」がないのに、そういうことのなかにも「論理」のようなものがあって、この音とこの音の組み合わせは多くの人に気持ちがいい、ということがあったりする。アルキメデスは偉かった!)
 谷川は、「羊 風船 戦争」というつながりを、「インポ」という音でこわしてみたかった--というだけのことなのだろうけれど、そのこわし方(解放の仕方)が、それでは好きか嫌いかということが、その後の問題として出てくる。私は好きなのだ。思わず、笑い出してしまう。その瞬間が好きなのだ。
 これは、そのあとの「黒糖饅頭」についてもいえる。「妄執」や「贖罪」を「かええて歩く」人間が、いっしょに「黒糖饅頭」をかかえて歩く、というのは、それまでの重たい緊張を切断し、「肉体」を解放する。その瞬間に「音楽」を感じる。そして、それが私はとても好きだ。
 あ、「音楽」にこだわるのは、その「インポ」「黒糖饅頭」そのものがもっている「音楽(音の響き)」が、その前にあることばと不思議な和音をつくるからである、ということを書いた方がいいのかなあ。つまり、私が何か書こうとしている2連が、たとえば、

生きているとふいに出くわす
羊 風船 戦争 「黒糖饅頭」
きみの無知がかかえて歩く
妄執 贖罪 「インポ」

 あるいは、

「きみの無知がかかえて歩く」
羊 風船 戦争 インポ
「生きているとふいに出くわす」
妄執 贖罪 黒糖饅頭

 だと、どうだろう。(括弧は、入れ換えた部分を強調するためにつけた。)
 「音楽」が違うでしょ? ことばには何か「接続」がふさわしいもの、そして「断絶」がふさわしいものがあって、それは「意味/論理」として存在するだけではなく、内部をつらぬく「音」そのものとしてもある、ということだと思う。
 この「ことばをつらぬく音(音楽)」について、書けるといいのだけれど、むずかしいねえ。
 私は、こういう「音楽(意味の解放)」を感じ「肉体」がわくわくするのは、西脇順三郎と谷川の詩に多い。ほかの人の詩よりも西脇と谷川の詩にそれを強く感じる。--こういうことは、「感覚の意見」としか言いようがないので、まあ、

えたいの知れない眩暈と出鱈目

 と名づけるしかないかもしれないが……。
 なんだか、書いていることが自分でもわからなくなったから、ここまでにしておこう。

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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西脇順三郎の一行(46)

2014-01-02 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(46)

 「失われた時 Ⅳ」

室内音楽の国づくしはエド人のエピックだ              (58ページ)

 この1行は中途半端な行である。--というのは私だけの印象かもしれないが、私は前半の「室内音楽の国づくしは」という部分が好きではない。それに先行する行の、文学の断片の接触を「室内音楽」と定義しているのかもしれないが、「室内音楽」が「音楽」のように響いてこない。「意味」になっている。「比喩」になっている。「国づくし」が「説明」になっている。「比喩」を「説明」で補ってどうするのだ、とちょっと不満を言いたいような気分になる。
 けれど、その後の「エド人のエピックだ」で私は飛び上がってしまう。「エド」は「プリアプス」「ヘベルニヤ」「ドブリン」のような外国の地名? (プリアプスなどが外国の地名かどうかは私は知らないのだけれど)。
 「エド」は「江戸」だろうなあ。「エド人」は「江戸時代の人」。突然、こんなところに出てくる。でも何のために? 私の「直感」では「エピック」という音を導くためにである。
 それまで書いてきた行を西脇は「エピック(叙事詩)」として提出したい。叙事詩であると示すために「エピック」ということばを書きたいのだが、そのまま書いてしまってはあまりにも「説明」になってしまう。だから、「説明」をごまかすために、読者を混乱させるために、わざと「エド人」と書いている。
 この「わざと」に「現代詩」の「現代」の意味があるのだが、その「わざと」を「エド人」「エピック」という頭韻の音楽として書くところが、あ、西脇だなあ、と思う。
Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社
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