手塚敦史「電子音に消えた」(「ふらんす堂通信」138 、2013年10月25日発行)
手塚敦史「電子音に消えた」の書き出しに魅力的な表現がある。
「ふかく息をした」。このことばが強烈である。「水気を吸ったどろどろの飯やおかず」というのはぶちまけられたから水気を吸ったのか、それとも水気を吸って腐敗しはじめているからぶちまけられたのか--それがわからないのだけれど、水気を吸ってどろどろになるという状態(腐敗)は、まだ、生きている。そこに生きているものがある。これが乾いてしまうと死んでしまったという感じなのだが、腐っているというのは死んでいるというよりも強烈に生きている感じがする。清潔とは相いれない狂暴なものが生きて、暴れている。そして「息をした」。「息をした」という「過去形」は、その息が臨終(?)の息を感じさせるが--うーん、すごい。
「老婆」であればこそ、その「ふかい息」に触れることができるのだろう。肉体のなかにある生と死がからみあって動く。
このリズムのままことばが動くと傑作になると思うのだが、手塚のことばは何か書き急いでいる。
書き出しには「ふかく息をした」--息をするときにつかう「鼻」の存在があった。水気を「吸った」の「吸う」は「鼻」の呼吸とはちがうのだけれど、「吸う」のなかにある何かを自分のなかに取り込むという動きが似ていて、それが狂暴と触れあう。腐敗した何かが鼻から通って肉体の内部で暴れようとする何かを刺戟する。そういうおもしろさがあったのだが、その後が、どうも変である。
私の「感覚の意見」でいえば、「音楽」が違ってしまった。呼吸は吸って吐くという二拍子だが、吸わないと吐けない、吐かないと据えないという、どうしようもない二拍子だが、その後は「視覚(まなこ)」の不規則なリズム(音楽)になってしまう。「せかせか」と手塚は書いているが、いや、ほんとうにせかせかしている。人工的(?)であって、自発的ではない。
「水脈のたわめた」の「たわめる」という動詞には、まだ、「時間」を感じさせるものがあるが、「光暈」「幻覚」という「名詞」の世界で世界が動いてしまうと、「肉体」のリズムが違ってきてしまう。「吸う/吐く(呼吸)」や「たわめた(たわめる/たわむ)」には実際に肉体(全身)を動かすエネルギーのようなものがあるが、「まなこ(視覚)」は自分では動かなくても、見える対象が動く。視覚は何か「肉体」とは離れて存在できる「知識」のようなもので、「知識」はひたすら「合理的なスピード」を要求するという性質があるからなのかもしれないけれど、何ちがうよなあ……。
つづいて、
「なぞる」「膨らんだり縮んだり」という動詞が出てくるけれど、どうもそれは肉体そのものが動いているというよりも「なぞる」のを見ている、「膨らんだり縮んだり」するのを見ている感じがして、自分の「肉体」が動く感じがしない。
「情報量」がどんどん増えてくるのだけれど、濃密な感じがしない。「肉体」にとりこまれる前に消えてしまう。「せかせか」という感じがしてしまう。「視覚」のスピードが、詩を「物語」へと変えてしまう感じがする。最初に出てきた老婆の、何かに触れて肉体の内部で「感覚」が濃密なものになっていくという感じが、外部の濃密さにすり替えられる感じ。「内部」が濃密にならずに、外の景色が複雑になっていくという感じ。複雑ななかに、その複雑をつらぬくものがないので、情報の垂れ流しという感じ。
「肉体の内部」を「外部」に代弁させる、ということなのかもしれないけれど。「文体」を選びきれていない。そのために「音楽」が乱れる、ということなのかなあ。「音楽」が流れるというよりも、「音楽」になるまえに散らばってしまう感じ。
この詩については、感想を書かずに、ほうりだしておけばいいのかもしれないけれど、最初の「ふかく息をした」はとてもいいし、その次の部分も、と引き込まれるなあ。引き込まれた部分については書いておきたいなあ、という気持ちがあってね……。
次の一行も、とてもおもしろい。
この「残る」という動詞のなかにある「時間」。「息をする(呼吸する)」という動詞(動き)に似たものがある。「ふかく息をする」には意思的なものがあるかもしれないが、「息をする」そのものは意思的でありながら、意思とは無関係でもある。生きているかぎり「自然」に呼吸してしまう。「残る」にもそういう感じがある。「残す」ではなく、残ってしまう何か。そこには「消える」までの「時間」がある。
その「時間」のなかへことばがもっと具体的に入っていくと、とてもおもしろい作品になると思う。実際、「息をする」「残る」という動詞が動く部分では「時間」がストーリーを逸脱して「無時間」になっているのだが、その「無時間」の「詩」を老婆が施設に帰るという「意味」で統一しようとしているので、あ、何かがちがうと思ってしまうのである。私は。
手塚敦史「電子音に消えた」の書き出しに魅力的な表現がある。
ぢぢぢ川の字に浮かび上がる老婆は
弁当箱の中身をぶちまけた
ぢぢぢ水気を吸ったどろどろの飯やおかずは
辺りに蒸す草花の熱気に
最初はふかく息をしたと思う
「ふかく息をした」。このことばが強烈である。「水気を吸ったどろどろの飯やおかず」というのはぶちまけられたから水気を吸ったのか、それとも水気を吸って腐敗しはじめているからぶちまけられたのか--それがわからないのだけれど、水気を吸ってどろどろになるという状態(腐敗)は、まだ、生きている。そこに生きているものがある。これが乾いてしまうと死んでしまったという感じなのだが、腐っているというのは死んでいるというよりも強烈に生きている感じがする。清潔とは相いれない狂暴なものが生きて、暴れている。そして「息をした」。「息をした」という「過去形」は、その息が臨終(?)の息を感じさせるが--うーん、すごい。
「老婆」であればこそ、その「ふかい息」に触れることができるのだろう。肉体のなかにある生と死がからみあって動く。
このリズムのままことばが動くと傑作になると思うのだが、手塚のことばは何か書き急いでいる。
ぢぢぢその施設までの道のりは、湯元、ゼニゴケ、…
風がからだを吹き抜けていった
ぢぢぢでもちがうよ。銀色の突風を音をたてて、せかせかと急ぐ
まなこの監督さんよ。水脈のたわめた
光暈よ。ものもらいの目がやがて痛みはじめ、求めすぎて爪で引っ掻いた
幻覚が、はだの皺が、半田付けするコートよ。
書き出しには「ふかく息をした」--息をするときにつかう「鼻」の存在があった。水気を「吸った」の「吸う」は「鼻」の呼吸とはちがうのだけれど、「吸う」のなかにある何かを自分のなかに取り込むという動きが似ていて、それが狂暴と触れあう。腐敗した何かが鼻から通って肉体の内部で暴れようとする何かを刺戟する。そういうおもしろさがあったのだが、その後が、どうも変である。
私の「感覚の意見」でいえば、「音楽」が違ってしまった。呼吸は吸って吐くという二拍子だが、吸わないと吐けない、吐かないと据えないという、どうしようもない二拍子だが、その後は「視覚(まなこ)」の不規則なリズム(音楽)になってしまう。「せかせか」と手塚は書いているが、いや、ほんとうにせかせかしている。人工的(?)であって、自発的ではない。
「水脈のたわめた」の「たわめる」という動詞には、まだ、「時間」を感じさせるものがあるが、「光暈」「幻覚」という「名詞」の世界で世界が動いてしまうと、「肉体」のリズムが違ってきてしまう。「吸う/吐く(呼吸)」や「たわめた(たわめる/たわむ)」には実際に肉体(全身)を動かすエネルギーのようなものがあるが、「まなこ(視覚)」は自分では動かなくても、見える対象が動く。視覚は何か「肉体」とは離れて存在できる「知識」のようなもので、「知識」はひたすら「合理的なスピード」を要求するという性質があるからなのかもしれないけれど、何ちがうよなあ……。
つづいて、
ひとつのうつくしく老いた襟あしをなぞって膨らんだり縮んだり
「なぞる」「膨らんだり縮んだり」という動詞が出てくるけれど、どうもそれは肉体そのものが動いているというよりも「なぞる」のを見ている、「膨らんだり縮んだり」するのを見ている感じがして、自分の「肉体」が動く感じがしない。
「情報量」がどんどん増えてくるのだけれど、濃密な感じがしない。「肉体」にとりこまれる前に消えてしまう。「せかせか」という感じがしてしまう。「視覚」のスピードが、詩を「物語」へと変えてしまう感じがする。最初に出てきた老婆の、何かに触れて肉体の内部で「感覚」が濃密なものになっていくという感じが、外部の濃密さにすり替えられる感じ。「内部」が濃密にならずに、外の景色が複雑になっていくという感じ。複雑ななかに、その複雑をつらぬくものがないので、情報の垂れ流しという感じ。
「肉体の内部」を「外部」に代弁させる、ということなのかもしれないけれど。「文体」を選びきれていない。そのために「音楽」が乱れる、ということなのかなあ。「音楽」が流れるというよりも、「音楽」になるまえに散らばってしまう感じ。
この詩については、感想を書かずに、ほうりだしておけばいいのかもしれないけれど、最初の「ふかく息をした」はとてもいいし、その次の部分も、と引き込まれるなあ。引き込まれた部分については書いておきたいなあ、という気持ちがあってね……。
次の一行も、とてもおもしろい。
ぢぢぢ財布から一〇〇〇円札を引き抜くと、紙にまだ何かの温みが残っていた
この「残る」という動詞のなかにある「時間」。「息をする(呼吸する)」という動詞(動き)に似たものがある。「ふかく息をする」には意思的なものがあるかもしれないが、「息をする」そのものは意思的でありながら、意思とは無関係でもある。生きているかぎり「自然」に呼吸してしまう。「残る」にもそういう感じがある。「残す」ではなく、残ってしまう何か。そこには「消える」までの「時間」がある。
その「時間」のなかへことばがもっと具体的に入っていくと、とてもおもしろい作品になると思う。実際、「息をする」「残る」という動詞が動く部分では「時間」がストーリーを逸脱して「無時間」になっているのだが、その「無時間」の「詩」を老婆が施設に帰るという「意味」で統一しようとしているので、あ、何かがちがうと思ってしまうのである。私は。
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