詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水口京子「人真似」

2014-01-30 09:23:24 | 詩(雑誌・同人誌)
水口京子「人真似」(「どぅるかまら」14、2014年01月10日発行)

 水口京子「人真似」について、何を書けるだろうか。どう書けるだろうか。(と、書きながら、私は時間稼ぎをしている。--ことばが動くのを待っている。)わからないが、引用してみよう。

生き人形
あまりに精緻に人に似せられたので
人のつもりになってしまっていた
植えつけられた髪は
人形師の娘の遺髪で
玉蟲色めいて艶やかだった
スミレ色がかったグラスアイ
かの娘は整然そういう瞳をしていたという
みながみな人形を「生きているやうだ」と讃えるので
人形もそのつもりになっていた
生きている証にと人形師の娘と同じように
鴨居に組み紐を渡して縊死しようとしたが
--死ななかった
首を吊ったまま
スミイのグラスアイをパチパチと瞬かせた

 「人形もそのつもりになっていた」という行に、私は傍線を引いている。ここから感想を書きたいと思ったのだ。3行目にも「人のつもりになってしまっていた」と似たようなことばが出てくるが、これは出てくるタイミングが早すぎて(私がぼんやりしすぎていて?)、読みとばしている。ことばは、ある程度くりかえさないと伝わらないものらしい。で、この「人形もそのつもりになっていた」にも実は繰り返しがある。「そのつもり」の「その」。これは前の行の「生きているやうだ」。人形も「生きている」つもりになっていた、ということ。3行目のように「人のつもり」だけでは、どういうことが「人」なのかわからないが、「生きている」ということばで言いなおされて、そうか「人というのは生きている」ということか。人形は「生きている」とは言わないわけか……とわかる。
 この意識の変化の過程に「髪の艶」「目の色」などが挿入されて(?)、そうか、人間は「生きている」ということを髪の輝きや目の色からも判断するのだなあ、とわかる。この「わかる」は「思い出す」。自分も誰かを見たとき髪の艶、目の輝き(色)を見て、いきいきしているなあと感じたことを思い出す。だから、そういうことがことばになって、そこにあると、「そのつもり」になる。
 で、「そのつもり」になるのは、私が人間だからなのだが。「人形」って、「そのつもり」になる? いや、人形じゃないからわからないけれど--人形には「思い(感情/思考)」というものはない。と私は思っている。思っているので「人形もそのつもりになっていた」という行に驚く。
 そして「驚いた」瞬間、私は、その「驚き」に引きずり込まれる。私にもどることができない。「人形になったつもり」になる。私に人間なのに(読者なのに)、人間であることを忘れてしまって、その「人形」になって、「人形のつもり」になって動いて動いてしまう。
 人形は自分では動けないのだけれど、「生きている」のなら、動くだろう。そしてほんとうに「生きている」というのなら、死ぬことができるはずである。「生きている」ということの証明は「死ぬ」ことをとうして、逆説的に証明できる。死んだなら、それは生きていたからである。生きているもの以外は死ぬことはできない。で、人形は首を吊ってみるのだが、「死ななかった」。
 あたりまえのことなのだが。
 その「あたりまえ」を「あたりまえ」と思うまでの間に、私のことばは、いま書いたようなことのなかを、うろうろと動き回る。動き回りながら、人形と人間、生きていること、死ぬということが、くっついたり離れたりする。区別はあるのだが、区別がつかなくなる--つかなくなるというとちょっと違うけれど、まあ、そういう感じ。
 この感じは、きのう読んだ河邉由紀恵の詩のなかで「つゆくさ」と「おんな」の肉体がごっちゃになるのに似ている。区別がつかなくなる--というより、「つゆくさ」のなかに「おんなの肉体(感覚/感性)」を見るというのに似ている。そうか。私は「人形」なのなかに「人間の肉体(思想)」を見ているのか。水口は「人形」のなかに「人間の肉体(思想)」を重ねて動かしているのか、と気づく。
 人間は、自分の思想(肉体)を自分の肉体だけで語るというのは難しいのかもしれない。何かに託す、託すふりをして客観化する(客観化したつもり)。そうすることで、やっと何かがわかるのかもしれない。自分の肉体のままだと、どこにことばを差し挟んでいいかわからない。肉体はあくまでつながっていて、一部を取り出すことができないから、何かを切り離して考えようとするとき(考えを独立して深めようとするとき)、比喩が必要になるのかもしれないなあ。

 「人形」と「人間」の区別がなくなった、と思っていたら……。

   「つまんないの」
と、ぶら下がっていたら
人形師の悲鳴がした
師は人形を引き摺り下ろすと
鉈で頭から胴からめった打ちにし
人形を粉々に砕いた

 うーん。「人形」と「娘」、それに首を吊っている娘を見たときの「人形師」が重なるなあ。娘が首吊り自殺をした理由はわからないけれど、人形が言っているように、何かが「つまんないの」という感じだったのかもしれない。人間なので死んでしまったが、娘はただ「つまんないの」と言いたかったのかもしれない。自殺している娘を発見したとき、人形師は、娘の遺体を大切にあつかうかわりに、ばかやろう、と叩きこわしたかったかもしれない。死んでしまった娘の「欲望(気持ち)」を叩き壊せば、娘は生き返ると思ったかもしれない。--人間はいつでも矛盾したこと、理不尽なことを思うものである。矛盾して、理不尽であるからこそ、感情は肉体のなかにきびしく刻まれる。

師は泣き喚いた
割れ残ってころりころがったスミレ色が
それ見ていた
グラスアイの中で人形は生きていた
   「つまんないの」
が、ひとつ残ったソレに人形師は気付き
鉈の背で叩き割った
   「つまんないの」
生まれて死んでそれだけだった

 人形の気持ちが書かれているのか、人形師の気持ちが書かれているか--どうもわからない。区別ができないが、そこに起きていることがわかる。人形師の悲しさ、悔しさというものが、ことばにならないまま、わかる。
 人形師そのものになったつもりになる。「人形」にもなったつもりになるし、「娘」にもなったつもりになる。3人(?)が「ひとり」のようにあらわれて、そこに「事件」がある。

 ことばとは、人を(読者を)、「そのつもり」にならせるものなのだろう。「そのつもり」っていったい何なの? 問われたら、答えるのが難しい。でも、「そのつもり」にならせてくれることばというのは、きっと、優れたことばなのだ。
 書いた人も「そのつもり」を自分で探しているに違いない。読者も「そのつもり」を自分の「肉体」のなかに探す。何をおぼえているか。何を思い出せるか--明確には言えないけれど、何かを私は思い出している。激しい悲しみに襲われたとき、それを叩きこわしたいという気持ち、そういう衝動がどこかにあって、それは「愛」ゆえなのだと言い訳する。そういう「論理」がどこかにあって、そしてその「論理」をそんなばかなと否定する「論理」もあって……。
 「そのつもり」は「わかる/わからない」がきつくからみあっている。そのなかであっちへ行ったりこっちへ来たり。その右往左往のなかで、なんとなく、筆者と「一体」に「なったつもり」になる。--こういうことが、私は好きだなあ。


外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
梅田 智江/谷内 修三
書肆侃侃房
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西脇順三郎の一行(74)

2014-01-30 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(74)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

生殖が終つたらすぐ死ぬといい                   (86ページ)

 「意味」の強い一行だが、「生殖」と「死ぬ」といういわば反対のことばが非常におちついか感じでおさまっている。なぜだろう。「終つたら」(終わる)ということばが仲立ちしているためかもしれない。「終わる」と「死ぬ」はなじみやすい。
 「死ぬ」の反対は正確には「生まれる」かもしれない。それを「生殖」(性交)という「誕生」以前の運動で向き合わせているのも、ことばをなじみやすくしているのかもしれない。
 「すぐ」というのは強調なのだけれど、「すぐ」という音の中になにか「一呼吸」ある。「意味」を強調しているにもかかわらず、一種の「間」がある。これも対立することば(概念)をなじみやすくしている。
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