監督 テオ・アンゲロプロス 出演 ウィレム・デフォー、ブルーノ・ガンツ、ミシェル・ピッコリ、イレーヌ・ジャコブ
テオ・アンゲロプロスの映画で、私はギリシャにも雪が降ることを初めて知った。「旅芸人の記録」で、である。そして、冬の空気、湿っていてほの暗い感じが私の故郷の空気に似ていると思った。ぬれた道に灰色の空と、空気の湿り気がそのまま映る感じが、とてもなつかしい。外国の風景なのだが、「空気」は北陸の冬に似ている。雨の降り方も、なんだかわびしく灰色の冷たい感じが不思議に故郷を思い出させた。違うのは、その灰色の中にテオ・アンゲロプロスは黄色を配置することである。黄色い雨合羽。これが美しい。--私は、その灰色と黄色に魅せられてテオ・アンゲロプロスが好きになった。
この映画を見る前、私はひとつの不安をかかえていた。二年前から、私は白(灰色が少し入った白)がピンクに見えるようになった。テオ・アンゲロプロスの灰色と白がピンクに見えたらどうしよう、と思っていた。さいわい、テオ・アンゲロプロスの灰色と白はさびしく、しめったまま、体に押し寄せてくるという印象は変わらなかった。
というのは、あまり意味もない前置きだったが……。私は、まず雪を見たのだ。そしてなんとなく安心し、安心したまま映画の中へ入っていった。
で。
列車がロシアを走るシーンの、草の上につもった雪に、私にはびっくりした。美しい。初めて見る白だ。地面につもった灰色の雪とは違って、不思議な純粋さがある。それはギリシャの白い大理石のように汚れを拒絶している。草をそのままドライフラワーにして白く塗りかえたように、張り詰めた形をしている。彫像のようだ。雪のつくった造花のようだ。えっ、ロシアの雪はこんなふうに草の葉っぱ一枚一枚にぴったりと貼りつき覆ってしまうのか--と空気の冷たさに身をたたかれる思いがした。
その白に感心して、ぼーっとして、あ、この白を見るだけで映画を見る価値があるなあ--というようなことを思ってしばらくして。
私は、あ、見落としていた、と叫びそうになった。
この映画では登場人物がひたすら歩く。そのことに気づいたのだ。歩くとき、登場人物に「目的地」はあるのだが、その「目的地」は必ずしも自分の求めている方向とは言えない。自分を守るために、何かから逃れる、死から逃れる、殺されないために逃れる--その「逃れる」を目的として歩くことがある。シベリアの収容所の、じぐざぐの階段を上るシーンが印象的だ。散歩の帰りか何かなのだろうが、主人公たちは帰りたくて歩いているのではない。階段を上っているのではない。決められた通りに歩かないと死んでしまうから歩いている、死を逃れるために歩いている。 登場人物は、最初「逃れる」ことを目的として歩きはじめ、「逃れ」切ったあと(強制的な死の恐怖が消えたあと)、もといた場所へ戻るために歩く。
テオ・アンゲロプロスは「歩く」を描きつづけていた。「歩く」人間を描きつづけていた、と急に気がついたのである。
「旅芸人の記録」でも一座はただひたすら歩く。歩いてたどりついた街で芝居をして、また歩きはじめる。追われながら、逃れながら、ひとつの芝居を守るようにして歩く。車屋列車も出てきたかもしれないが、歩いているシーンの印象が強い。家の影から、歩いて通りに出てくる。最初はひとり。そのあとに、二人、三人……そして一座になる。その一座の黒い衣装の塊がとても印象に残っている。でも、私は「旅芸人の記録」について感想を書くとき、彼らが「歩いている」ということについては触れなかったような気がする。ほかのことに気をとられていた。
歩くのは、そうなのだ、「自分を守る」ためなのだ。
自分の中にいる誰か、自分のなかの自分--それを守るために歩く。歩くしかない。集団で歩くのは、集団で自分たちを守るために歩いているのだ。旅芸人たちは「芝居」のなかで動いている人物、その肉体を自分自身と感じて、それを守ろうとしている。自分のいのちと同時に、芝居の中に生きているいのちを守ろうとしていた。
ばらばらになると自分を守るのは難しくなる。軍にとらえられ強姦されるシーンが印象的だが、ひとりになると自分を守るのは難しい。
とらえられても、それは「外形」としての自分、こころの中で常に「自分のなかの自分」は歩いている。「歩く」ことを忘れない。どこかに閉じ込められたときには手紙を書いて、ことばを歩かせる。主人公のエレニは会えなくなった恋人に手紙を書きつづける。ことばは「歩く」のである。旅芸人たちは困難ななかで芝居をもって歩く。芝居のなかの人物を演じることで、ことばを歩かせる。
で、この映画では、そういうエレニたちの「歩く」行為と、映画をとる監督の様子が重なり合う形で描かれる。映画を撮るというのはエレニが手紙を書くという行為が重なる。旅芸人が芝居をするのと重なる。言い換えると、監督は映画を撮ることで「歩く」。「自分のなかの自分」へ帰ろうとしている。自分のなかの自分へ向けて歩いているのだということがわかるのである。
でも、「自分のなかの自分」というのは抽象的で、ちょっと哲学的で、あまり好ましい言い方とは言えないなあ。あまりにも抒情的なにおいが強くなる。テオ・アンゲロプロスには、につかわしくない--と私は思う。
だから、言いなおそう。
私はギリシャ現代史はまったく知らないのだが、それでもテオ・アンゲロプロスの映画を見るかぎりは、戦後、ナチスに抵抗してきたひとたちが、次にあらわれた軍政によって迫害されたということがわかる。この映画の主人公のエレニも共産党に関係していたために追われたのである。国を守るために戦った人間が、国を追われる。こんな理不尽なことはない。その理不尽から、主人公たちは帰郷を目指す。それは感傷的なことがらではなく、精神的なことがらではなく、哲学的なことがらでもない。事実としての行動、叙事なのである。テオ・アンゲロプロスは、「歩く」こと、「帰る」ことの困難さを、いくつもの国を描くこと、国境を描くことで「具体化」している。国境での人間の振り分け、さらには入国審査(出国審査)での全裸透視の監視は、人間は「ひとり」になって「歩く」という「事実」をつたえる。「帰郷」するのは「精神」ではない。「肉体」なのだ。帰るためには、具体的な「国境」を越えなければならないのだ。そこには軍隊がいて、見張っているのだ。--「自分のなかの自分」というような抽象的なことばをつかってしまうと、そういうことを見落としてしまう。そして抒情的になってしまう。テオ・アンゲロプロスは映画を撮りながらギリシャの現代史を歩いているのである。歩きながら、自分の「出自」を確立しようとしているのである。「叙事詩」あるいは「悲劇」をつくっているのである。
これはとてもつらい映画だが、最後のシーンには美しい安らぎがある。エレニは死んでしまうが、孫娘のエレニ(同じ名前)がエレニの夫(つまりおじいさん)と手をつないで雪の街を走る。ベルリンなのだと思うが(違っているかもしれない)、そのときの二人の足の運びがぴったりあっていて、まるで恋人である。その走る姿は「事実」であると同時に、死んだエレニの夢でもあるだろう。
そのときの雪は、それまでテオ・アンゲロプロスが描いてきたギリシャの湿った雪でも、シベリアの凍った雪でもない。ふわふわと軽い。まるで天使の羽根のようである。この映画には「ベルリン天使の詩」のブルーノ・ガンツがエレニのこころの恋人(親友)として登場するし、ほかにも天使が第三の翼を求めているというような台詞もある。ひとつの「夢」がラストシーンの雪には託されているに違いない。
(2014年01月26日、t-joy 博多スクリーン11)
テオ・アンゲロプロスの映画で、私はギリシャにも雪が降ることを初めて知った。「旅芸人の記録」で、である。そして、冬の空気、湿っていてほの暗い感じが私の故郷の空気に似ていると思った。ぬれた道に灰色の空と、空気の湿り気がそのまま映る感じが、とてもなつかしい。外国の風景なのだが、「空気」は北陸の冬に似ている。雨の降り方も、なんだかわびしく灰色の冷たい感じが不思議に故郷を思い出させた。違うのは、その灰色の中にテオ・アンゲロプロスは黄色を配置することである。黄色い雨合羽。これが美しい。--私は、その灰色と黄色に魅せられてテオ・アンゲロプロスが好きになった。
この映画を見る前、私はひとつの不安をかかえていた。二年前から、私は白(灰色が少し入った白)がピンクに見えるようになった。テオ・アンゲロプロスの灰色と白がピンクに見えたらどうしよう、と思っていた。さいわい、テオ・アンゲロプロスの灰色と白はさびしく、しめったまま、体に押し寄せてくるという印象は変わらなかった。
というのは、あまり意味もない前置きだったが……。私は、まず雪を見たのだ。そしてなんとなく安心し、安心したまま映画の中へ入っていった。
で。
列車がロシアを走るシーンの、草の上につもった雪に、私にはびっくりした。美しい。初めて見る白だ。地面につもった灰色の雪とは違って、不思議な純粋さがある。それはギリシャの白い大理石のように汚れを拒絶している。草をそのままドライフラワーにして白く塗りかえたように、張り詰めた形をしている。彫像のようだ。雪のつくった造花のようだ。えっ、ロシアの雪はこんなふうに草の葉っぱ一枚一枚にぴったりと貼りつき覆ってしまうのか--と空気の冷たさに身をたたかれる思いがした。
その白に感心して、ぼーっとして、あ、この白を見るだけで映画を見る価値があるなあ--というようなことを思ってしばらくして。
私は、あ、見落としていた、と叫びそうになった。
この映画では登場人物がひたすら歩く。そのことに気づいたのだ。歩くとき、登場人物に「目的地」はあるのだが、その「目的地」は必ずしも自分の求めている方向とは言えない。自分を守るために、何かから逃れる、死から逃れる、殺されないために逃れる--その「逃れる」を目的として歩くことがある。シベリアの収容所の、じぐざぐの階段を上るシーンが印象的だ。散歩の帰りか何かなのだろうが、主人公たちは帰りたくて歩いているのではない。階段を上っているのではない。決められた通りに歩かないと死んでしまうから歩いている、死を逃れるために歩いている。 登場人物は、最初「逃れる」ことを目的として歩きはじめ、「逃れ」切ったあと(強制的な死の恐怖が消えたあと)、もといた場所へ戻るために歩く。
テオ・アンゲロプロスは「歩く」を描きつづけていた。「歩く」人間を描きつづけていた、と急に気がついたのである。
「旅芸人の記録」でも一座はただひたすら歩く。歩いてたどりついた街で芝居をして、また歩きはじめる。追われながら、逃れながら、ひとつの芝居を守るようにして歩く。車屋列車も出てきたかもしれないが、歩いているシーンの印象が強い。家の影から、歩いて通りに出てくる。最初はひとり。そのあとに、二人、三人……そして一座になる。その一座の黒い衣装の塊がとても印象に残っている。でも、私は「旅芸人の記録」について感想を書くとき、彼らが「歩いている」ということについては触れなかったような気がする。ほかのことに気をとられていた。
歩くのは、そうなのだ、「自分を守る」ためなのだ。
自分の中にいる誰か、自分のなかの自分--それを守るために歩く。歩くしかない。集団で歩くのは、集団で自分たちを守るために歩いているのだ。旅芸人たちは「芝居」のなかで動いている人物、その肉体を自分自身と感じて、それを守ろうとしている。自分のいのちと同時に、芝居の中に生きているいのちを守ろうとしていた。
ばらばらになると自分を守るのは難しくなる。軍にとらえられ強姦されるシーンが印象的だが、ひとりになると自分を守るのは難しい。
とらえられても、それは「外形」としての自分、こころの中で常に「自分のなかの自分」は歩いている。「歩く」ことを忘れない。どこかに閉じ込められたときには手紙を書いて、ことばを歩かせる。主人公のエレニは会えなくなった恋人に手紙を書きつづける。ことばは「歩く」のである。旅芸人たちは困難ななかで芝居をもって歩く。芝居のなかの人物を演じることで、ことばを歩かせる。
で、この映画では、そういうエレニたちの「歩く」行為と、映画をとる監督の様子が重なり合う形で描かれる。映画を撮るというのはエレニが手紙を書くという行為が重なる。旅芸人が芝居をするのと重なる。言い換えると、監督は映画を撮ることで「歩く」。「自分のなかの自分」へ帰ろうとしている。自分のなかの自分へ向けて歩いているのだということがわかるのである。
でも、「自分のなかの自分」というのは抽象的で、ちょっと哲学的で、あまり好ましい言い方とは言えないなあ。あまりにも抒情的なにおいが強くなる。テオ・アンゲロプロスには、につかわしくない--と私は思う。
だから、言いなおそう。
私はギリシャ現代史はまったく知らないのだが、それでもテオ・アンゲロプロスの映画を見るかぎりは、戦後、ナチスに抵抗してきたひとたちが、次にあらわれた軍政によって迫害されたということがわかる。この映画の主人公のエレニも共産党に関係していたために追われたのである。国を守るために戦った人間が、国を追われる。こんな理不尽なことはない。その理不尽から、主人公たちは帰郷を目指す。それは感傷的なことがらではなく、精神的なことがらではなく、哲学的なことがらでもない。事実としての行動、叙事なのである。テオ・アンゲロプロスは、「歩く」こと、「帰る」ことの困難さを、いくつもの国を描くこと、国境を描くことで「具体化」している。国境での人間の振り分け、さらには入国審査(出国審査)での全裸透視の監視は、人間は「ひとり」になって「歩く」という「事実」をつたえる。「帰郷」するのは「精神」ではない。「肉体」なのだ。帰るためには、具体的な「国境」を越えなければならないのだ。そこには軍隊がいて、見張っているのだ。--「自分のなかの自分」というような抽象的なことばをつかってしまうと、そういうことを見落としてしまう。そして抒情的になってしまう。テオ・アンゲロプロスは映画を撮りながらギリシャの現代史を歩いているのである。歩きながら、自分の「出自」を確立しようとしているのである。「叙事詩」あるいは「悲劇」をつくっているのである。
これはとてもつらい映画だが、最後のシーンには美しい安らぎがある。エレニは死んでしまうが、孫娘のエレニ(同じ名前)がエレニの夫(つまりおじいさん)と手をつないで雪の街を走る。ベルリンなのだと思うが(違っているかもしれない)、そのときの二人の足の運びがぴったりあっていて、まるで恋人である。その走る姿は「事実」であると同時に、死んだエレニの夢でもあるだろう。
そのときの雪は、それまでテオ・アンゲロプロスが描いてきたギリシャの湿った雪でも、シベリアの凍った雪でもない。ふわふわと軽い。まるで天使の羽根のようである。この映画には「ベルリン天使の詩」のブルーノ・ガンツがエレニのこころの恋人(親友)として登場するし、ほかにも天使が第三の翼を求めているというような台詞もある。ひとつの「夢」がラストシーンの雪には託されているに違いない。
(2014年01月26日、t-joy 博多スクリーン11)
テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX I (旅芸人の記録/狩人/1936年の日々) | |
クリエーター情報なし | |
紀伊國屋書店 |