詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

テオ・アンゲロプロス監督「エレニの帰郷」(★★★★★)

2014-01-26 22:52:25 | 映画
監督 テオ・アンゲロプロス 出演 ウィレム・デフォー、ブルーノ・ガンツ、ミシェル・ピッコリ、イレーヌ・ジャコブ


 テオ・アンゲロプロスの映画で、私はギリシャにも雪が降ることを初めて知った。「旅芸人の記録」で、である。そして、冬の空気、湿っていてほの暗い感じが私の故郷の空気に似ていると思った。ぬれた道に灰色の空と、空気の湿り気がそのまま映る感じが、とてもなつかしい。外国の風景なのだが、「空気」は北陸の冬に似ている。雨の降り方も、なんだかわびしく灰色の冷たい感じが不思議に故郷を思い出させた。違うのは、その灰色の中にテオ・アンゲロプロスは黄色を配置することである。黄色い雨合羽。これが美しい。--私は、その灰色と黄色に魅せられてテオ・アンゲロプロスが好きになった。
 この映画を見る前、私はひとつの不安をかかえていた。二年前から、私は白(灰色が少し入った白)がピンクに見えるようになった。テオ・アンゲロプロスの灰色と白がピンクに見えたらどうしよう、と思っていた。さいわい、テオ・アンゲロプロスの灰色と白はさびしく、しめったまま、体に押し寄せてくるという印象は変わらなかった。
 というのは、あまり意味もない前置きだったが……。私は、まず雪を見たのだ。そしてなんとなく安心し、安心したまま映画の中へ入っていった。
 で。
 列車がロシアを走るシーンの、草の上につもった雪に、私にはびっくりした。美しい。初めて見る白だ。地面につもった灰色の雪とは違って、不思議な純粋さがある。それはギリシャの白い大理石のように汚れを拒絶している。草をそのままドライフラワーにして白く塗りかえたように、張り詰めた形をしている。彫像のようだ。雪のつくった造花のようだ。えっ、ロシアの雪はこんなふうに草の葉っぱ一枚一枚にぴったりと貼りつき覆ってしまうのか--と空気の冷たさに身をたたかれる思いがした。
 その白に感心して、ぼーっとして、あ、この白を見るだけで映画を見る価値があるなあ--というようなことを思ってしばらくして。
 私は、あ、見落としていた、と叫びそうになった。
 この映画では登場人物がひたすら歩く。そのことに気づいたのだ。歩くとき、登場人物に「目的地」はあるのだが、その「目的地」は必ずしも自分の求めている方向とは言えない。自分を守るために、何かから逃れる、死から逃れる、殺されないために逃れる--その「逃れる」を目的として歩くことがある。シベリアの収容所の、じぐざぐの階段を上るシーンが印象的だ。散歩の帰りか何かなのだろうが、主人公たちは帰りたくて歩いているのではない。階段を上っているのではない。決められた通りに歩かないと死んでしまうから歩いている、死を逃れるために歩いている。 登場人物は、最初「逃れる」ことを目的として歩きはじめ、「逃れ」切ったあと(強制的な死の恐怖が消えたあと)、もといた場所へ戻るために歩く。
 テオ・アンゲロプロスは「歩く」を描きつづけていた。「歩く」人間を描きつづけていた、と急に気がついたのである。
 「旅芸人の記録」でも一座はただひたすら歩く。歩いてたどりついた街で芝居をして、また歩きはじめる。追われながら、逃れながら、ひとつの芝居を守るようにして歩く。車屋列車も出てきたかもしれないが、歩いているシーンの印象が強い。家の影から、歩いて通りに出てくる。最初はひとり。そのあとに、二人、三人……そして一座になる。その一座の黒い衣装の塊がとても印象に残っている。でも、私は「旅芸人の記録」について感想を書くとき、彼らが「歩いている」ということについては触れなかったような気がする。ほかのことに気をとられていた。
 歩くのは、そうなのだ、「自分を守る」ためなのだ。
 自分の中にいる誰か、自分のなかの自分--それを守るために歩く。歩くしかない。集団で歩くのは、集団で自分たちを守るために歩いているのだ。旅芸人たちは「芝居」のなかで動いている人物、その肉体を自分自身と感じて、それを守ろうとしている。自分のいのちと同時に、芝居の中に生きているいのちを守ろうとしていた。
 ばらばらになると自分を守るのは難しくなる。軍にとらえられ強姦されるシーンが印象的だが、ひとりになると自分を守るのは難しい。
 とらえられても、それは「外形」としての自分、こころの中で常に「自分のなかの自分」は歩いている。「歩く」ことを忘れない。どこかに閉じ込められたときには手紙を書いて、ことばを歩かせる。主人公のエレニは会えなくなった恋人に手紙を書きつづける。ことばは「歩く」のである。旅芸人たちは困難ななかで芝居をもって歩く。芝居のなかの人物を演じることで、ことばを歩かせる。
 で、この映画では、そういうエレニたちの「歩く」行為と、映画をとる監督の様子が重なり合う形で描かれる。映画を撮るというのはエレニが手紙を書くという行為が重なる。旅芸人が芝居をするのと重なる。言い換えると、監督は映画を撮ることで「歩く」。「自分のなかの自分」へ帰ろうとしている。自分のなかの自分へ向けて歩いているのだということがわかるのである。
 でも、「自分のなかの自分」というのは抽象的で、ちょっと哲学的で、あまり好ましい言い方とは言えないなあ。あまりにも抒情的なにおいが強くなる。テオ・アンゲロプロスには、につかわしくない--と私は思う。
 だから、言いなおそう。
 私はギリシャ現代史はまったく知らないのだが、それでもテオ・アンゲロプロスの映画を見るかぎりは、戦後、ナチスに抵抗してきたひとたちが、次にあらわれた軍政によって迫害されたということがわかる。この映画の主人公のエレニも共産党に関係していたために追われたのである。国を守るために戦った人間が、国を追われる。こんな理不尽なことはない。その理不尽から、主人公たちは帰郷を目指す。それは感傷的なことがらではなく、精神的なことがらではなく、哲学的なことがらでもない。事実としての行動、叙事なのである。テオ・アンゲロプロスは、「歩く」こと、「帰る」ことの困難さを、いくつもの国を描くこと、国境を描くことで「具体化」している。国境での人間の振り分け、さらには入国審査(出国審査)での全裸透視の監視は、人間は「ひとり」になって「歩く」という「事実」をつたえる。「帰郷」するのは「精神」ではない。「肉体」なのだ。帰るためには、具体的な「国境」を越えなければならないのだ。そこには軍隊がいて、見張っているのだ。--「自分のなかの自分」というような抽象的なことばをつかってしまうと、そういうことを見落としてしまう。そして抒情的になってしまう。テオ・アンゲロプロスは映画を撮りながらギリシャの現代史を歩いているのである。歩きながら、自分の「出自」を確立しようとしているのである。「叙事詩」あるいは「悲劇」をつくっているのである。

 これはとてもつらい映画だが、最後のシーンには美しい安らぎがある。エレニは死んでしまうが、孫娘のエレニ(同じ名前)がエレニの夫(つまりおじいさん)と手をつないで雪の街を走る。ベルリンなのだと思うが(違っているかもしれない)、そのときの二人の足の運びがぴったりあっていて、まるで恋人である。その走る姿は「事実」であると同時に、死んだエレニの夢でもあるだろう。
 そのときの雪は、それまでテオ・アンゲロプロスが描いてきたギリシャの湿った雪でも、シベリアの凍った雪でもない。ふわふわと軽い。まるで天使の羽根のようである。この映画には「ベルリン天使の詩」のブルーノ・ガンツがエレニのこころの恋人(親友)として登場するし、ほかにも天使が第三の翼を求めているというような台詞もある。ひとつの「夢」がラストシーンの雪には託されているに違いない。
                 (2014年01月26日、t-joy 博多スクリーン11)



テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX I (旅芸人の記録/狩人/1936年の日々)
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
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吉本洋子「活ける」

2014-01-26 10:52:26 | 現代詩講座
吉本洋子「活ける」(現代詩講座@リードカフェ、2014年01月22日)

 吉本洋子「活ける」は相互評で好評だった。どれくらい好評かというと、「好き」「おもしろい」「吉本さんの世界」というような単発の声が出るだけで、あとがつづかない。「ここがきらい」「ここがわからない」というような批判がでない。こういうことはよくある。
 その作品。

伸びつづける根を見ている

怠けつづけた庭仕事のつけが回って
敷き詰めた煉瓦の下からどくだみの根
みつばの根
なまえを知らない草の根
訳のわからない根っこが蔓延って
庭からせめて来る

三日前にベランダへ這いのぼり
二日前には台所に乱入
昨日はリビングにまで触手がのびて
家族のひとりが絡め捕られた
あわてて裏口から庭にまわり
一番太い蔓を引っ張ってみた

日焼けもしてない生白い蔓が
なつく様に添ってくる
眼もない耳もついていない白子の蚯蚓
あんたなんかになつかれても困る
邪険に振り払って近所の便利屋を呼びつけた
根こそぎ引っこ抜けと迫る私に

こりゃあいけませんや通し柱に巻き付いて
金輪際離れるもんじゃあありませんぜと
ハードボイルドに決めて帰って行った

それなら私も覚悟を決めて
花鋏片手に風情を生かして付き合うわ
絡め取られた柱を真として
しんそえたいは不等辺三角形
無駄な枝は情け容赦なく切り落とし
風の通り道はさりげなく

足もとはきりりとしめるのが流儀だけど
ついつい片足に力がはいる
少し傾きかけた背景は
非対称の妙味とでも呼んで
あんばらんすであんふぇあー
家族の重力とリンクしているね

明日
どくどく呼吸しながら伸びている根を
さすり擦り見ている

 唯一、具体的な(?)感想は4連目、「あんたなんかになつかれても困る」という行がおもしろい、という指摘である。ほかのことばが出てこない。
 うーん、困った。
 いや、私もこの日はことばがあまり出なかったのだが。私は基本的に参加者の発言を拡大していくという形で話を進めるのだが、この日は参加者も少なく、いろいろな声が出なくて、ちょっと戸惑ったのだが……。

 でも、書いてみよう。同人誌や詩集で作品を読んだときのように書いてみよう。私はだいたい詩を読んで、3行くらいメモがとれるとその作品について10枚くらいの文章を書く。(引用があるので私自身の文章は少ないが……)。
 私がぐいと引きつけられたのも、4連目である。参加者が指摘した行と、その直前の、

なつく様に添ってくる

 この行に読みながら傍線を引いた。2行に共通するのは「なつく」ということばである。これは、どういう意味か。参加者に質問すべきだったなあ。「なつく」というようなことばはいつも口にしているし、なついている、なついていないというようなことは何にでも感じることなので、いざ定義(?)しようとすると難しい。わかりきっているので、別のことばで言いなおすことが難しい。
 簡単に言いなおすと、なれた感じ、べたべたした感じ、まあ感情の距離感がない感じなんだろうなあ。感情に距離感がなくて、それがそのまま肉体の距離感のなさにつながる。隔てるものがなくて、くっついた感じ。「なれ」+「つく(くっつく)」=なつく、という感じかな。
 なぜ、これがそんなに印象的なことば、詩のことばになって迫ってくるのだろう。
 詩に圧倒されて、そのときは思いつけなかった質問をしてみよう。架空の「質疑応答」をしてみよう。

<質問>4連目の「なつく」ということば、詩のなかのほかのことばで言いなおすと、どうなるかな?
<受講生>?
<質問>大事なことばは、たいてい言いなおされる。何を言いなおしたものだろう。なついたものがすることは? たとえばなついた犬や猫はどうする?
<受講生>すりよってくる。
<質問>似たことばはない? 植物が「すりよる」というのは、どういう姿で?
<受講生>這いのぼる?
<質問>ほかには?
<受講生>触手がのびる。
<質問>すりよられるとうるさい感じがするときがあるね。そういうときに似たことばは?
<受講生>からまる?

 だんだん、書いていることがつながってきたね。吉本は1連目で「蔓延って」ということばをつかっているが、これを吉本は「からまって」と読んだ。蔓が伸びて、伸びた蔓はからむ。
 何かが自分に近づいてきたとき、そしてこそに悪意を感じないとき、たぶん、ひとはそれを「なつく」という。めんどうくさいとき「からまれた」というね。「なつく」と「からむ」は親類みたいだ。というか、受け取り方次第というか……。

<質問>では、悪意が感じられたとどういうだろうか。
<受講生>攻撃する、攻めてくる。

 ほら、ますます詩のことばの「連絡」が見えてきた。
 雑草(吉本にとって好ましくないもの)が庭にどんどんはびこる。増殖する。根っこは土のなかで見えない手をのばし、家へ家へと攻めてくる。家の中まで入ってくる。「家族のひとりが絡め捕られた」というのは比喩だけれど、まるで人間にまで絡みついてくるような勢いである、ということだろう。
 この攻撃を、簡単に雑草の暴力といわないところが、この詩のポイント。「思想」である。
 この攻撃を、吉本は「からむ」と同時に「なつく」とも呼んでいる。
 「なつく」というのは、でも、一般的に「攻撃」ではない。愛情の表現である。でもねほら、愛情の表現というのはいつもいつもうれしいものではないね。めんどうくさいときがあるね。いちいちつきあいたくない。もう少しさばさばしたら?
 恋愛の初期でもそういうことはあるだろうけれど、夫婦生活が長くなると、べたべたも考えよう。「夫、元気で留守がいい」なんていう言いぐさもある。
 4連目の「あんたなんかになつかれても困る」の「あんた」は「白子の蚯蚓」、つまり雑草のはびこった根なのだけれど、そういうものを「あんた」と呼ぶところに、ふっと連れ合いの「あんた」が重なってくるね。
 雑草のことを書いているのに、なぜか、夫婦関係のようなものが、重なるように侵入してくる。雑草が夫婦関係に侵略されている。混じりあって、ごちゃごちゃ。
 雑草と連れ合いが、「あんた」と「なつく」ということばのなかで手を組んで吉本に迫ってくる。参加者のひとりが端的に指摘したように、この行がこの詩のいちばんおもしろいところ、読み落としてはいけないところだね。

 さて、どうしよう。きっぱりと別れてしまおうか。完全に処理してしまう方法はないものだろうか。
 いやいや、

こりゃあいけませんや通し柱に巻き付いて
金輪際離れるもんじゃあありませんぜ

 これは蔓草のことであるようで、一緒に暮らしている連れ合いの比喩のようでもある。切り離せない。切り離すと大黒柱(通し柱)を欠いてしまう。それでは家が壊れる。
 しようがない。

それなら私も覚悟を決めて
花鋏片手に風情を生かして付き合うわ

 覚悟を決めて付き合いをつづけ、その「付き合い」に生け花をするように「風情」を盛り込んでいくしかない。
 このあたり、雑草と連れ合いの比喩が融合してしまっている。雑草のことを書いているふりをして、連れ合いへの対処法を書いている。ときには「情け容赦なく」、でもそればっかりおしとおすわけにもいかないので、「あんばらんすであんふぇあー」。まあ、「なついている」人には理解してもらえる(強要してもらえる)範囲で工夫を凝らすということだろうねえ。

 実際に吉本が何をしたかはわからない。そのときに吉本が感じたことのすべてがわかるわけではない。
 でも、吉本は庭にはびこった雑草の処理に困ったとき、まるで連れ合いみたいになついてくるなあ(からんでくるなあ)と感じたんだろうなあ、連れ合いを思い出したんだろうなあということはわかる。そして、連れ合いに向き合うときも、雑草に向き合うときのように時に容赦なく、時にバランスを考えて……というような行動がわかる。
 あ、この「わかる」はほんとうに「わかる」というのではなく、勝手に想像できるということだけれど。
 これがおもしろいのだ。
 ひとは他人を勝手に想像する。そして、その想像というのは、実は自分の「肉体」の反映というか、自分の姿を映したものなんだけれど。他人の姿を笑うということは、自分のあれこれを棚に上げて、自分じゃないみたいにして笑うことなんだけれど--そういうことをとおして、ひととひとは交流する。互いを「わかる」。

 最終連もいいなあ。

明日

 そうなんだ。この仕事は「きょう」で完結するのではない。明日も同じようにつづいている。それが「わかる」。人間はかわりようがない。雑草よりもかわらない。

 きょうの復習(?)。おさらい。
 印象的なことば(キーワード)は、ほかのことばで言い換えられている。言い換えられていることばを少しずつ追っていくと、そのことばのなかにほかのものがまじってくる。比喩で振り分けたつ,もりでも、比喩なので振り分けても振り分けても、現実(事実)がまじってくる。そのあいまないなまじったものを強引に拡大し「誤読」する。そうすると、その「誤読」のなかに自分(読者)の生活がはいり込み、自分の「肉体(体験)」を基盤にして、さらに「誤読(誤解)」が進む。--それは「誤解」なんだけれど(つまり作者の書いていることと完全に一致するわけではないのだけれど)、誤解のなかにも重なり合うものがあるので、その重なりあいから、そこに起きている「こと」がわかる。それが「わかる」と楽しい。だから「誤解(誤読)」しよう。


詩集 引き潮を待って
吉本 洋子
書肆侃侃房
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西脇順三郎の一行(70)

2014-01-26 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(70)

「水仙」(ここからは『禮記』)

この野いばらの実につく

 この一行は「文章」として不完全である--と思うのは、その次の「霜の恵みの祈りよ」という一行を読んでいるからそう思うのである。「つく」は終止形ではなく「連体形」であるとわかるのは次の行を読んだときである。
 もちろん「この野いばらの実につく」は、「つく」が終止形であると判断するには、少し不自然なことばの動きである。助詞がおかしい。実「に」つく、ではなく実「が」つくというのが自然なことばのうごきなのかもしれない。だから、この一行の「つく」を終止形思うのは、「助詞」を無視した早とちりということになる。
 けれども、そこには何か早とちりを誘うものがある。
 行頭の「この」という指示詞が印象的である。「この」と突然指し示されるのだが、読者(私)には、その「この」がわからない。「この」がわかるのは西脇だけである。この一行は、そういう意味では「強引」なのである。何がなんでも西脇の意識の方へ動いていく。そういう強引さがあるから「実につく」という助詞と動詞の活用の組み合わせがねじまがって、「終止形」に見えてしまう。(これは私だけの錯覚、早とちりかもしれないが。)

 ということと同時に、私には、何か「終止形」にこだわりたい気持ちがある。
 西脇の詩には、ことばの行わたりがある。本来一行として連結していなければならないものが、途中で切断されて次の行に行ってしまうことばの展開がとても多い。
 そのとき、それはほんとうに「行わたり」なのだろうか。
 そうではなくて、いったん切断している。そこで終わっているのではないのか。終わった上で、次の行であたらしくはじめている。どんなに行がわたっても、西脇にとってはそれぞれの行は「終止形」なのではないのか。
 「感覚の意見」として言うしかないのだが、一行一行が独立した「音」として和音をつくりだす。そういう「音楽」が西脇の詩にはある、と思う。
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