詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

手塚敦史『おやすみの前の、詩篇』

2014-01-28 10:41:00 | 詩集
手塚敦史『おやすみの前の、詩篇』(ふらんす堂、2014年02月01日発行)

 手塚敦史『おやすみの前の、詩篇』は私にはとても読みづらい詩集だ。活字が小さい。活字の線が細い。インクが黒ではなく灰色。私は目が悪いので、灰色というのは勘違いかもしれないが、ふつうの黒には見えない。線の細さが影響しているのかもしれない。
 さらに私の知らない漢字がたくさん出てくる。
 そのことばの繊細さを強調する文字のあり方を「見た」とき、私はふと高貝弘也を思い出したのだが、高貝のことばが離れながら、その離れることで浮かび上がる「声」を聞きあう(あるいは、遠ざかりながら「和音」を残す--遠い文学の音を虚無に、無の力を借りて誘い出す)のとはまったく違うことに気がついた。
 手塚の詩集を読むとき、高貝のことばを読むのとはまったく違うことが起きる。手塚の詩集を読むとき、私に何が起きるかというと、世界から「音」が消えていく。「無音」になる。その「無音」のなかに、見えるか見えないかの文字が散らばったりぶつかったりする。それは文字の内部に音を沈殿させつづける。そして、その沈殿が見える。出てこようとはしない音が。
 うーん、つらないなあ。苦しいなあ。と思いながら、もう少し読めばわかるかな……。そして、「72」の断章に出会う。

どこから来たのか分からない一まい一まいの葉は、
マス目におさまりきらないメモの文字そのちらかるありさまのよう
足ははつねに高さがあり、枝は揺れ
ゆびは宙に浮く
眼を凝らしても、音が鳴っている樹の茂みの鳥はあらわれず、そのまま書きあぐんでいても
のびた建物のかげの地点からなら再び書き表して移動してゆける

 そうなのか、やっぱりそうなのか。私には「音」は聞こえないが、手塚には「音」が聞こえている。そして聞こえる「音」が目に見える形にならないときは、別の目に見えるものをたよりに動いてゆける。そういう詩人なのだ。視力の詩人なのだ。「眼を凝らしても……」からのことばの動きに、そう感じた。眼を凝らして何かを見ようとしても、それが姿を見せない。そういうときに手塚は別な何かを見て、その見えたものからことばを動かしてゆける。そのとき「聞いた」はずの「音」は無音のなかに消えてゆく。「音」は記憶のなかの鳥の足、指となって木の茂みの奥で幻の視力を鍛える。--いや、これは私の書き方が間違っている。
 鳥が見えなくても、鳥の声が聞こえる。そのとき手塚は、その聞こえたものを手がかりに、さらに見えないはずの鳥の足、指、さらに鳥の足と指が触れている木の枝、その揺れ、つまり鳥と木の間の力の移動のようなものさえも見る視力で、「音」を消していく。「眼を凝らしても」鳥が見えないのではない(姿をあらわさないのではない)。最初から鳥の声を消そうとしているのだ。鳥が見えないのに、鳥の足、指、枝を、つまり世界の「部分」を強い視力で浮かび上がらせて、その浮力によって「音」をないものにする。沈殿させて消してしまう。そのうえで、新しい「影像」(見えるもの)の方向へ動いていく。
 どこまでもどこまでも視力の人間なのだ。私が灰色のインクが苦しいと感じるのに対して、手塚は灰色でさえも見えすぎると感じるかもしれない。もっと薄いインク、たとえば詩集の内表紙に刻印された「型押し」のような、光の屈折がみせるようなもの--それを見ることが「詩」であると感じているのだろう。

 私が唯一「音」を聞いたのは「0」の断章であるけれど。

みずからの影に接吻することもできたあなたに、最後は光の何かを贈りたかったのだが、
人の皮膚はいつまでもくっきりと、そこにあるだけてあって
ひふ(皮膚)、みな(見な)、
いつ(何時)、む(無)、ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、この、とお、…

 「ひ、ふ、ふみ、よ……」という数を数える「音」は「皮膚」という文字、「見な」という文字によって、強制的に別の意味になる。目で見ることで浮かび上がる意味になる。視力がなければ、そにあったものが、そこになくなってしまう。
 「皮膚、見な、何時、無」その目で見る文字が浮かび上がらせる「表意」。漢字が抱え込んでいる意味、聞くのではなく見ることが大切なのだ。「音」は聞こえないようにして(音に煩わされないようにして)、「意味」を動かす。
 視力を集中させるために、手塚は、わざと読みにくい細い活字、小さい活字、薄いインクをつかっている。眼を凝らす人間だけが把握できる「意味」を書こうとしている。

 「眼を凝らす」というのが手塚の「思想(肉体)」なのである。「眼」を凝らし、文字に凝る(文字も凝らす)、文字の見えたかも凝らす--この「凝らす」は強調である。「わざと」である。
 詩集の途中から、(おやすみの先の、詩篇)というのがある。「おやすみの前」と「おやすみの先」というのは、眠る前と、眠った後という前後関係のようでもあるけれど、「おやすみしたその方向の前」「おやすみしたその方向の先」ともとれる。「前」と「先」はどこかで重なるので、「前後」と言う具合には明確に区別できない。「おやすみ」ということばから「前」と「先」という文字だけを分離し、それを見極めようとすると、さらにそれが分からなくなる。「前」と「先」は「視力」にとっては同じ方向である。
 そこには、不思議な「混乱」がある。本来もっているはずの「過去(時間)」から分断された浮遊感。あるいは不安定な離脱感。その不安定さがすがってしまう何か……。

あの孤悲(こい)びとのいた方向を見あげ、左右の隙間を大きく侵蝕して行きながら
脈絡のない物事のうちを漂い、縺れ合って行った

 「孤悲(こい)びと」という「表記(視力でとらえたことば)」のなかには、ある混乱がある。重なり合いがある。「恋」は「こい/こひ」。「悲」は「ひ」。「ひ」は「い」。「こいびと」と「声(音)」にしてしまうと「ひ(火)」は消えるが、「孤悲」と書くことで「悲しみ」が孤立したままいつまでも消え残る。そして「文字」のなかで定着する。ちょうど、型押しの刻印のように。耳ではわからないもの、眼を凝らすことでしかわからないものとして。

 もっとていねいに書くべきなのだろうけれど、目が疲れてしまった。感想はここまでにする。(詩集の最後の方に「/(スラッシュ)」で区切ったことばがつづく詩があるが、私はこの「/」による無音の表現が苦手である。無音をわざわざ視力に見えるようにするという表記に、どうも肉体の奥(感覚の融合している部分)を切り刻まれる感じがする。むりやり聴覚と視覚を分離させられるような感じがして、とてもつらい--と書いておく。(いつも以上に誤字・脱字が多いかもしれない。手塚の作品は詩集で再確認してください。)
おやすみの前の、詩篇
手塚敦史
ふらんす堂
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西脇順三郎の一行(72)

2014-01-28 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(72)

「田園の憂鬱(哀歌)」

--「どうもよくみえない」

 これは眼鏡が曇ってよく見えないので、眼鏡を吹きながらの「台詞」になるのだが……。行頭の「--」。これがちょっとおもしろい。西脇はひとのことばを引用(?)するとき、鍵括弧をつかっている。この行でも「 」は書かれている。
 では、なんだろう、これは。
 「間」なのだと思う。眼鏡を拭くという行動がある。それからことばが出てくるまでの「間」。
 「間」と沈黙は同じものだろうか。違うものだろうか。違うと思う。「間」は文字通り、何かと何かの間。沈黙は「間(あいだ)」にあるものではなく、それ自体で存在する。でも、「間」は単独では存在できない。
 ということは。
 「間」とはリズムということかもしれない。
 「音楽」にはいろいろな種類がある。ことばの音楽では、もっぱら音韻が語られる。リズムの場合でも音韻数(あるいは拍)が語られる。しかし、それ以外にも「間」のリズムがある。
 西脇は、そういうものも再現できる「耳」をもっていたのだ。
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