詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青山かつ子「小春日和」

2014-01-25 10:24:05 | 詩(雑誌・同人誌)
青山かつ子「小春日和」(「すてむ」57、2013年12月10日発行)

 詩のなかの、なんでもないことばがとても気になるときがある。青山かつ子「小春日和」は病院に入院している老婆のことを書いている。

「おばあちゃんの肌やわらかいね」
細くなった
顔 腕 指の一本一本に
ていねいにクリームを擦りこんでいく

野良仕事できたえられた
節太のぶあつい手も
日に焼けた顔も
歳月にすっかり晒されて-

病院のサンルーム
持参した和菓子と抹茶のつつみを解き
孫娘はサラサラとお茶をたてる
車椅子の老婆は
茶碗をなでさすり
「ありがとう ありがとう」
を くりかえす

真っ青な空に
雪の阿武隈山脈がひかっている
「わ家(げ)は あっちのほうだなぁ」
あの山並のふもとへ
雪がとけたら
雪がとけたら…

帰れるか

 「車椅子の老婆」と青山自身か、あるいは青山の母か。孫娘が青山、ということはないだろうけれど、私は青山とは面識がないので、そういうことは判断しない。
 私がこの詩で何度も読んでしまうのが、

「ありがとう ありがとう」

 である。誰もが言う。誰もが言うのを聞いたことがある。それはたいていの場合は「ありがとう」と一回なのだが、この詩の老婆は「ありがとう ありがとう」と繰り返している。もっと正確に言えば「ありがとう」を繰り返したのではなく、すでに繰り返されている「ありがとう ありがとう」という二回つづきの「ありがとう」を繰り返したのかもしれない。人は、時に、そういうことをする。
 このときの「ありがとう」を説明するのはむずかしい。「感謝」なのだけれど、感謝ということだけではあらわせないものがある。うれしい気持ちや切ない気持ちがまじりあう。「ありがとう」を「有り難う」と書く人もいる。「有る」ことが「難しい」。「有る」の主語は「私」、「難しい」の「主語」も「私」。私が、いま/ここに「有る(生きて存在する)」ことはほんとうは「難しい」のだが、その難しさをあなたが支えてくれるので私はいま/ここにこうしていることができる--という思いを「あなた」につたえるのが「ありがとう」なのかもしれない。
 でも、きっと、そういう「説教臭い」ことばなら、しんみりとはつたわってこないなあ。
 一度目の「ありがとう」はたしかに相手に対する感謝かもしれない。けれど二度目の「ありがとう」は私自身に対する感謝かもしれない。私は、あえて、そんなふうに読んでみたい気持ちがしてくる。あ、いままで生きてきた、その私の肉体というものに対して「ありがとう」と言っているような気がする。こうやって生きているから、あなたの行為に対して「ありがとう」ということもできる。
 こういう考え方は自己中心的? ただ素直に相手に対して何度もありがとうを言う。何度言っても感謝をつたえきれないから繰り返す……。そうなのかもしれないけれど。
 でも、自分に「感謝」するというのは、そんなに悪いこと(自己中心的)なことだろうか。
 前半に、「細くなった/顔 腕 指」ということばがでてくる。お茶をたててくれる孫娘に対する感謝だけなら、そういう描写はなくてもいいだろう。老婆であるということを客観化しているのかもしれないけれど、そうれよりも「いま/ここ」にこうして生きている肉体そのものの、長い時間を思い出し、その肉体に感謝するというのは、とても大切なことのように私には思える。私たちは、ついつい自分の「肉体」を忘れる。「精神/感情/認識」を忘れるよりも頻繁に「肉体」を忘れてしまうような気がする。「肉体」があることを忘れて何かに夢中になる。「肉体」がなければ何もできないのに、極端な話、この肉体さえなければこころは自由に飛んで行けるのに、ということさえ思ったりする。

 「肉体」に感謝している、その感謝が「ありがとう ありがとう」の繰り返しの中にあると思うのは、

「わ家(げ)は あっちのほうだなぁ」

 という一行と「ありがとう ありがとう」が響きあうからかもしれない。「わが家(や)」とは書かずに、青山は「わ家(げ)」と書いている。「意味」は「わが家」である。でも「わげ」と書かずにはいられない。それは青山の、「ことばの肉体」である。青山は、「わげ」ということばで「わが家」をつかみとった。そのとき、その「家」を「わげ」と呼ぶ人がいた。そういう人と、青山は「肉体」の区別がないまま(つまり、この人は他人という意識のないまま)つながっていた。「肉体」は「土地」「暮らし」のなかで「一体(ひとつ)」になっていた。その「ひとつ」がなければ、青山は生まれてこなかった。存在しなかった。--ほんとうに感謝しなければならないのは、そういう「つながり」なのだ。そして、そういうつながりを具体的な「かたち/もの/こと」にしているのが、いま/ここにある「肉体」なのだ。
 青山は「ありがとう ありがとう」を繰り返すことで青山自身の「肉体」をとおって、「いま/ここ」にはない「肉体」、青山の「肉体」が生まれてきた「肉体」にまでさかのぼっている。その「肉体」にふれている。「いのち」の存在そのものにふれている。自分の「肉体」に対して「ありがとう」というとき、それは、その「肉体」を生み出してくれた(この世に連れてきてくれた)いのちそのものに「ありがとう」ということなのだ。

 「わげ」に帰りたい--というのは郷愁をとおりこして、本能のようなものかもしれない。「いのち」に帰りたいという本能かもしれない。





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西脇順三郎の一行(69)

2014-01-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(69)

「まさかり」

「ここの衆

 ある村で見かけた若い男のことばである。このあと「まさかりを貸してくんねえか」とつづくのだが、近所の家に向かって「ここの衆」と呼び掛ける、その呼び掛け方に西脇は驚いている。
 状況から、そしてそのことばから、「意味」はわかるのだが、詩は「意味」ではない。「意味」をこえる何かだ。ここでは、その何かとは「音」である。西脇のつかわない音。西脇は、「ここの衆」と呼び掛けて誰かの家を訪ねることはないだろう。だからこそ、その音に驚いた。
 こうした音の驚きを西脇はそのまま詩にしている。
 ことばの「意味」の土台に「音」がある。「音」が、そこに人間を屹立させる。
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