詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田代田「灌木」

2014-01-24 11:11:09 | 詩(雑誌・同人誌)
田代田「灌木」(「孑孑」71、2013年12月25日発行)

 田代田「灌木」は最初に俳句(?)らしきものが本文とは違った字体で書かれているのだが、それは省略--などと書くくらいなら、引用した方が早いのだが。省略したいのだ。

狭い庭のゆすらうめ

毎年たくさん実をつける
ホームセンターで買い求めたぶん十年は経つだろうか枝は広がるが
腰ほどの高さからありがたいことに少しも成長はしない
ジムの更衣室でミヤベさんとの会話である
背の高い人はいいねえ
まったくしかりそのとおり御意でござりまするなぜ背の話になったのだろう

 作品は、「なぜ背の話になったのだろう」ということばがあるように、なぜこんな展開になるのだろう、どうして最初のテーマ(?)から離れて行ってしまうのだろう、という具合につづく。
 どんな句が冒頭にかかげられてあったか、見当がつかないでしょ?
 で、あえて省略したのである。
 そして省略したあとで、こんなことを書くのはいいかげんなのだけれど、あの句は「連歌の発句」なのである。あいさつなのである。集まっている人に向けてあいさつし、そのあいさつから連句(連歌)を、「さて、はじめましょうか」とつづく。その流儀で田代の詩は動いている。
 でも、実際は、

狭い庭のゆすらうめ

 これが「発句」としてことばを動かしつづける。俳句はない方がスピード感がある。俳句があると、スピードがあわない。これは、変な言い方だけれど、リズム、テンポがあわないと言いなおした方がいいかも。

 田代の詩は、リズムがといっていいのか、テンポがといっていのか、音楽にうとい私にはちょっとむずかしい判断になるのだが、まあ、リズムだろうなあ。そのリズムが独特である。
 引用した冒頭の部分だけでもわかるが、一行の長さがふぞろいである。二行目は「が」という助詞だけである。そのうえ句読点の意識がずれている。そして、この「ずれ」がリズムである--田代の場合は。

ホームセンターで買い求めたぶん十年は経つだろうか枝は広がるが

 これは「ホームセンターで買い求め」「たぶん十年は経つだろう(か)」「枝は広がる(が)」という三つの文章に分けることができる。動詞が「買い求める」「経つ」「広がる」と三つあるのだから。動詞が三つあるということは「主語」も三つあるということである。そして学校文法では「主語」が共通のとき、「動詞」が複数あっても正しいことばと判断する。「私は朝の七時に起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、歯を磨いて、行ってきますと言って学校へ行った」。へたくそな文章(散文)は「主語」にあらゆる動詞をつなげてしまうものである。
 田代は学校文法とは違う文法でことばを動かしている。「私は」木を買い求めた。買い求められた「木は」植えられてから十年は経つ。その十年の間に木の「枝は」広がる。主語がかわっているのに、ひとつの文章にしている。三つを接続させている。
 これが、田代の「文体(リズム)」。主語がなしくずしに横滑りしながら、滑って止まるところまでがひとつの文章。田代の肉体の中にあるリズムが優先して動き、それが「主語」を揺さぶっているのである。田代は「主語」でことばを動かさないのだ。
 「動詞」が動きながら「主語」を探すのである。なぜ「背の話」になったのか。それは「主語」を維持しつづける「散文」のリズムではたどりつけない。探し出せない。田代のことばは「動詞」が主体なのだから。
 勝手に想像すると、木が育つとときどき枝を切らなければならない。背の低い木は簡単に枝が切れる。でも、もし木が高いなら、高いところの枝を切るのは大変だ。背が高い人は簡単に切ることができるだろうけれどねえ。背の高い人はいいねえ……。剪定する(枝を切る)という動詞のなかで主語が変わってしまったのだろう。
「動詞」を基本にし、「主語」を変化させる。そのあとで新しい「主語」に新しい「動詞」を接続しなおし、またその「動詞」に新しい「主語」を選ばせる。--という具合に動いていくのが、田代の「ひとり連歌形式の詩」なのである。「連歌」であることを見えなくするために、田代は「五七五/七七」の音韻のリズムはつかわないのだけれど。

 詩のつづき。

キクオはねえ鴨居をくぐっていたのだよ
キクオという名の戦争で死んだ背の高かった父のことを思い出していた顔など
一枚
の古い
写真でしか知らない遺伝の話しだった

 「背の高い人はいい」か。背が高いと鴨居をくぐらないといけない。つまり背をかがめなければならない。それは「いい」とは言えないかもしれない。--ということは、どうでもよくて、私が指摘しておきたいのは、「高い」は「用言」であり、「動詞」と同じように働いているということと、その「用言」によって、突然「キクオ」という新しい主語が登場していることである。その主語は「突然」なのだけれど、「高い」という「用言」の力でことばがひきずられているということ。田代は、田代のリズムを守ってことばを動かしている。
 そしてときには「名詞」も「用言」化されて、文章を接続する。
 詩のつづき。

目が悪いのは劣性遺伝ですよメガネをかけた父の遺伝は
貰ったが
背は通りすぎてしまった

 「遺伝」は「遺伝する」という「動詞」に変わり、「遺伝する」というのは遺伝子を「貰う(引き継ぐ)」、という具合である。
 こういう「変化」、文章の「乱調」を装いながら、しっかり「動詞(肉体)」をおさえているというのは気持ちがいい。一行一行の長さをばらばらにすることで「外形のリズム」を崩しているふりをしながら「文体内部のリズム(ことばの肉体)」の基本をおさえている。そこに田代の「音楽」がある。



 田代のことばは「肉体(動詞)」を基本としているから、実際の「肉体」の報告はおもしろい。「孑孑」には「フルマラソン」というタイトルのエッセイがある。フルマラソンを走ったときのことが書いてある。「走る」ということばで「肉体」を常に固定しながら、あっちこっちに逸脱する。「気持ち」はその瞬間瞬間でつぎつぎに変わる。変わりながら、変わることが、変わらない「肉体(主語)」を彩るという形だ。
 田代は、たぶん、詩よりも散文の方が「流通」に乗りやすいだろうと思った。

詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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西脇順三郎の一行(68)

2014-01-24 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(68)

「コップの黄昏」(この作品から『宝石の眠り』収録)

男へ手紙を書いて切手をなめる時だ

 切手を貼る、ではなくて切手を「なめる」。もちろん貼るためになめるのだが、これがおもしろい。切手を貼るよりも、肉体の動きがなまなましい。俗っぽい。そして、そこに力を感じる。肉体が剥き出しであらわれてくる感じがする。
 西脇の詩には抽象的(精神的)な要素が多いのだけれど、それをときどき、こういう生々しい肉体が破る。この乱調(?)の音楽がとても楽しい。私は大好きだ。
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