詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫「眩暈原論(10)」

2014-01-13 13:23:26 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(10)」(「hotel 第2章」33、2014年01月10日発行)

 きのう読んだ福田拓也の長いタイトルをもった詩の「意味」はわからない。私はわかろうともしないが、野村喜和夫「眩暈原論(10)」も、私にとっては似たような感じ。「意味」を読み取って感動するわけではない。読んでいて(ことばを追っていて)、そのことばの変化(ことばそのものの「動詞」としての存在--ことばの肉体と私はときどき呼ぶのだが)--それを楽しんでいる。

眩暈主体、それは手をもたない人間のことなのかもしれぬ。鼻水垂らしていよ
うが、みだれ垂らしていようが、柔らかいものにさわって恍惚としたりはしな
いのだ、マイチネル小体、パチニ小体。ほら、あれらの夢、ひどく軽くて、長
くて、橋のようなので、両側の泥土のうつつは低く小さくなってゆく。うつう
つ、うつらうつら。石が脱ぐ悦びも、そこに撒かれて。

 「眩暈主体、それは手をもたない人間のことなのかもしれぬ。」これは野村の仮定。仮定だから、まあ、わかる。仮定しているということが、わかる。「鼻水垂らしていようが、みだれ垂らしていようが、柔らかいものにさわって恍惚としたりはしないのだ」。これは「手をもたない」の補足。手をもたなければ触ることはできない。(足で触れる、性器で触れる、舌で触れる--というような屁理屈は反論しない。)「触る恍惚」を知らずに、「目で触るという恍惚」、つまり「眩暈の恍惚」に限定される……。うーん、論理的なことばの展開。
 でも、

柔らかいものにさわって恍惚としたりはしないのだ、マイチネル小体、パチニ小体。

 この「しないのだ、」から「マイチネル小体」への飛躍は何? 「マイチネル小体」「パチニ小体」のことを知っている人には「わかる」のかもしれないが、私には、何のことか「わからない」。
 わからないのだけれど。マイチネル、パチニという音には「い」の音が多くて、光っているような、粒々のような、ちょっと遠いところにある何か(近くてもうまく触れない何か)小さいものという感じがするなあ。
 そして、この何かわけのわからない感覚、私の「いま/ここ」を拒絶して、そこに何かが存在する--その飛躍が快感。そして、そのことばが、

ほら、あれらの夢、ひどく軽くて、長くて、橋のようなので、

 と、さらに飛躍する。
 この「ほら、」がいいなあ。「ほら、わかるだろう、知ってるだろう」の「ほら」なのだけれど、いやあ、「あ、ごめんなさい、わかりません」と口をはさむ余裕がないでしょ? 野村のスピードにあわせて知ったかぶりをして読むしかないでしょ? その知ったかぶりの瞬間、私も何かを「飛び越える」(飛躍する/飛翔する)。この知ったかぶりをしたときの、次はどうなるのかなあ、知ったかぶりをつづけられるかなあ。知ったかぶりがばれてしまうかなあ、という感じがいいなあ。
 野村の詩を読んでいるのに、詩を読んでいる私(谷内)がことばから見つめ返されている感じ。(私の知ったかぶり、私の「誤読」が、ばれていない?)
 知ったかぶりを押しつけてくる(?)、このタイミング。このリズム。さらに、

橋のようなので、両側の泥土のうつつは低く小さくなってゆく。うつうつ、うつらうつら。石が脱ぐ悦びも、そこに撒かれて。

 「小さくなってゆく。」から「うつうつ、うつらうつら。」への飛躍。ここには「意味」はないね。野村の肉体が覚えている何かが、「うつうつ、うつらうつら。」というリズムを呼び出したのである。「うつうつ(する)、うつらうつら(する)」というのは直前の「夢」ということばと呼応しているけれど、「あれらの夢」の「夢」の中身と呼応しているかどうか、はっきりしない。内容(意味)と呼応するのではなく、夢みるという動詞と呼応すればそれでいいのだ。
 わからないまま、知ったかぶりをしながら、野村のことばの呼吸にあわせる、あわせながらことばを追いかける--というのは、なんだかどきどきして楽しい。

眩暈と建築との関係についていえば、基本、建築について私は崩壊へと風を代
入するのが好き、とまで浮き、透き、音楽の骨、骨の塔から流れ出る音楽、音
楽という名の塔をめぐる骨のまぼろし、などと心せくばかりなので、そこから
うねりつづく歩廊、そこに絡みつくパイプ状の旋律のきれはし、と来ては、地
の震えのあとさきのように、もうどうにも下を潜り、右や左に逸れ、死がそう
であるように、これが眩暈だ、などといえるあいだは、まだじっさいの眩暈で
はない、なぜなら眩暈とは、顔のない情熱のひろがりである、あるいは眩暈か
ら、泡のように吹きこぼれた惑乱のきみの、きみのかけらをさがせ。

 この部分は、どうか。「建築」「骨」「塔」がひとつの「意味」になろうとし、それを抽象的に「音楽」が突き破る。すると音楽が「建築」のようにも見えてきて、「歩廊」ということばとなって、融合する。「パイプ状」というのは建築のバイプを想像させると同時に、パイプ(管)楽器の音をも連想させる。そこには何かひとつの「つながり」がある。「建築」を「崩壊」させ、そこに「風」を吹き渡らせる(風を代入する)と、廃墟の柱や何かにぶつかって風の音が音が苦になるような、壁を取り払われ(壁が崩壊し、廃墟になって)透き通った空間が大きな楽器になって鳴り響くような--というような知ったかぶりへ、私は突き動かされる。野村が知ったかぶりというのではなく、「理解」しようとして、私のことばが知ったかぶりのまま動くということ。「誤読」を誘う何かがある。
 これを何といえばいいのかわからないけれど、野村の「文体」の力だね。野村の文体の中には何かそういう力がある。連想を凝縮させながら、飛躍へと突き動かす力がある。その力でことばが統一されている。そのことばにはスピードがあって、うむをいわせない。ゆっくり考えさせてくれない。
 別なことばで言えば、まあ、私はだまされているのかもしれないけれど、だまされるってうれしいなあ。その瞬間、いままで知らなかった何かが見える、何かが聞こえる。そして、何かに触れるからね。--まあ、そういう錯覚全体が「眩暈」なのかもしれないが。


芭(塔(把(波
野村 喜和夫
左右社
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西脇順三郎の一行(57)

2014-01-13 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(57)

 「えてるにたす Ⅰ」

シムボルはさびしい                       (69ページ)

 長い作品なので、今回も1ページ1行を選んで感想を書いていく。
 詩は「書き出し」がすべて。突然始まって、それが次のことばを生み出していくだけである。結露(?)というものは、ない。「意味」というものは、ない。あるとしたら書きはじめた瞬間だけにある。
 西脇は、このあと「言葉はシムボルだ/言葉を使うと/脳髄がシムボル色になって/永遠の方へかたむく」とつづける。ことばが交錯しながら広がっていく。
 「脳髄がシムボル色になって」の「色」のつかい方がおもしろい。どんな色かさっぱりわからない。--ほんとうは、この1行を選ぶべきだったかもしれない。
 というのは、そういう「色」のないものを「色」と呼ぶところからはふたつの「感想」を引き出すことができるからである。
 色ではないものを色と呼ぶ--それは西脇にはその色が見えた。西脇は絵画的な詩人である、というのがひとつ。
 もうひとつは、色ではないものを色と呼ぶのは、色を書きたかったからではなく、色ではないものを書きたかったからである。「シムポル色」という音を書きたかった。無意味なもの、音を書きたかった。音を中心に西脇はことばを動かしている。つまり、音楽的な詩人である。
 さて、どっちを選ぼうか。--「意味」というのは、正反対のことを平気で呼び寄せながら動いてしまうので困ってしまう。

 このページにある「夏の林檎の中に/テーブルの秋の灰色がうつる」というのも、とても美しい。この美しさは、また絵画的な印象が強い。
 けれどもこの2行からだって、「音楽」を中心にした「意味」をつくりあげることができる。
 「林檎の中」の「中」は内部ではなく、表面、皮の中にという意味である。表面と意味を正確にするのではなく「中」ということばをつかっているのは、その方が音として美しいからである。「林檎」という短い音と「テーブル」というのばした音を含む長い音の対比にも音楽がある。
 いや、「赤い皮の林檎」とは書かずただ「林檎」と書き、色は「灰色」だけを書くことで、そこにある色の変化を連想させるその視点は絵画的である、と反論もできる。
 
 詩はやっかいである。いや、意味はやっかいである。


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アリエル・ブロメン監督「THE ICEMAN 氷の処刑人」(★★)

2014-01-13 01:30:06 | 映画
アリエル・ブロメン監督「THE ICEMAN 氷の処刑人」(★★)

監督 アリエル・ブロメン 出演 マイケル・シャノン、ウィノナ・ライダー、レイ・リオッタ

 最近、どうも映画がおもしろくない。目の状態かよくないので、影像にどっぷりひたることができないせいかもしれない。感想を書かないままの映画が何本もある。この作品も書こうかどうしようか迷ったのだが……。少し気になるところがあったので、書くことにする。
 「THE ICEMAN 氷の処刑人」は実話だという。どうもすっきりしない感じがしないのだが、実話とはもともとそういうものかもしれない。主人公は人殺し。けれども非常に家族思い。非常と愛情の両極端を生きている。
 見どころはふたつある。ひとつは主人公のマイケル・シャノンの演技。怒ると感情をおさえきれなくなるのだが、顔には怒りを出さない。行動が乱暴になる。その、なんともいえない無表情がいい。隙がないのである。どこをほめていいのか、適当なことばがみつからないのだが、身長が高くて、正比例するように顔が大きい。その大きな顔の中の目が、非情に冷たい--というのは映画の中の台詞であって、もちろん目は冷たい印象なのだが、その冷たさを際立たせているのが無表情である。まるで、殺すということにおいて顔は何の働きもしないと言っているようである。実際、殺しの仕事は顔ではなく手でやる。ナイフを使うにしろ銃をつかうにしろ、それは手でやるのであって、顔ではないからね。
 とはいうものの。じゅあ、どうやって相手を油断させるか。冷酷な顔のままだったら相手が警戒する。身構える。不意打ちだけでは殺しは難しい。
 2人目の殺しのとき。「金をやるから殺してみろ」と言われてホームレスを殺すシーン。近づいていっていきなり銃で殺すのではなく、話をして、「やっぱりたばこをくれ」と言って、相手が近づいてきた瞬間に体に銃を押しつけて殺すところなど、すごいなあ、顔ではなく「態度」出会いを一瞬油断させる。その微妙な変化をマイケル・シャノンは「肉体全体」で表現する。「顔」では演技しない。
 ディスコで青酸化合物をつかって殺したあと、そこを去るとき知人と出会う。どうやってその場を去るか。かなり緊張した場面なのだが、相変わらず顔はいつも通りで(いつも通りでないと発覚するからね、これは当然なのだが)、態度の微妙な動きで「あせり」を最小限に浮き立たせる。思わずスクリーンに吸い込まれてしまう。これは、なかなかすごい。
 もうひとつは、カメラ。全体の色調。現代ではなくて、年代はちょっと忘れてしまったがポケットベルの時代。30-40年くらい前になるのかなあ。風景が全体的に「重い」というか、浮ついた「軽さ」がない。そして、スピード感がない。マイケル・シャノンの演技とも関係してくるのだが、殺しなどというものは人に見られないようにすばやくやる必要がある。そのため、いまの映画では殺しはものすごいスピードである。アクションがオーバーである。速い分だけアクションを大きくしないと「見えない」からである。いまの映画は、カメラも角度を変えて、いくつものシーンから殺しの瞬間を再現して見せる。ところがこの映画は、そういうことをしない。あくまで人間の肉体の動きそのものをとる。言い換えると、カメラが演技をしない。演技を役者に任せてしまって、演技ではなく「場」を撮る。
 家族を侮辱されて、マイケル・シャノンが怒り、侮辱した男の車を追いかけるカーアクション、最後にマイケル・シャノンがつかまるときのパトカーのアクション(?)も、それは「場」に演技をさせているのであって、カメラは演技をしない。
 これは、これは……。なつかしいというか、なんというか。久々に映画を見たという気持ちににはなる。描かれる時代が古いからではなく、映画の撮り方が古いので、古い時代を思い出すのである。ほほう、と感心する。
 でもねえ。こんなことに感心するのはなんだかマニアック。と、映画を見ながら感じてしまうのであった。もっとかっこいい、強烈で残酷な殺しのシーンを見たかったのに、という変な欲求不満が残るのである。いまの映画の過激さに私が染まっているということもあるのだろうけれど。そして、いまの映画に染まっているからこそ、この映画のクラシックな撮り方に感心もするのだが。
 なんだか、私の感想は矛盾しているが、こういう矛盾した感想を引き出すのは、この映画にはかなり複雑なパワーがあるということかもしれないなあ。★4個にしようかなあ。まようなあ。
                     (2014年01月12日、KBCシネマ1)
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