野村喜和夫「眩暈原論(10)」(「hotel 第2章」33、2014年01月10日発行)
きのう読んだ福田拓也の長いタイトルをもった詩の「意味」はわからない。私はわかろうともしないが、野村喜和夫「眩暈原論(10)」も、私にとっては似たような感じ。「意味」を読み取って感動するわけではない。読んでいて(ことばを追っていて)、そのことばの変化(ことばそのものの「動詞」としての存在--ことばの肉体と私はときどき呼ぶのだが)--それを楽しんでいる。
「眩暈主体、それは手をもたない人間のことなのかもしれぬ。」これは野村の仮定。仮定だから、まあ、わかる。仮定しているということが、わかる。「鼻水垂らしていようが、みだれ垂らしていようが、柔らかいものにさわって恍惚としたりはしないのだ」。これは「手をもたない」の補足。手をもたなければ触ることはできない。(足で触れる、性器で触れる、舌で触れる--というような屁理屈は反論しない。)「触る恍惚」を知らずに、「目で触るという恍惚」、つまり「眩暈の恍惚」に限定される……。うーん、論理的なことばの展開。
でも、
この「しないのだ、」から「マイチネル小体」への飛躍は何? 「マイチネル小体」「パチニ小体」のことを知っている人には「わかる」のかもしれないが、私には、何のことか「わからない」。
わからないのだけれど。マイチネル、パチニという音には「い」の音が多くて、光っているような、粒々のような、ちょっと遠いところにある何か(近くてもうまく触れない何か)小さいものという感じがするなあ。
そして、この何かわけのわからない感覚、私の「いま/ここ」を拒絶して、そこに何かが存在する--その飛躍が快感。そして、そのことばが、
と、さらに飛躍する。
この「ほら、」がいいなあ。「ほら、わかるだろう、知ってるだろう」の「ほら」なのだけれど、いやあ、「あ、ごめんなさい、わかりません」と口をはさむ余裕がないでしょ? 野村のスピードにあわせて知ったかぶりをして読むしかないでしょ? その知ったかぶりの瞬間、私も何かを「飛び越える」(飛躍する/飛翔する)。この知ったかぶりをしたときの、次はどうなるのかなあ、知ったかぶりをつづけられるかなあ。知ったかぶりがばれてしまうかなあ、という感じがいいなあ。
野村の詩を読んでいるのに、詩を読んでいる私(谷内)がことばから見つめ返されている感じ。(私の知ったかぶり、私の「誤読」が、ばれていない?)
知ったかぶりを押しつけてくる(?)、このタイミング。このリズム。さらに、
「小さくなってゆく。」から「うつうつ、うつらうつら。」への飛躍。ここには「意味」はないね。野村の肉体が覚えている何かが、「うつうつ、うつらうつら。」というリズムを呼び出したのである。「うつうつ(する)、うつらうつら(する)」というのは直前の「夢」ということばと呼応しているけれど、「あれらの夢」の「夢」の中身と呼応しているかどうか、はっきりしない。内容(意味)と呼応するのではなく、夢みるという動詞と呼応すればそれでいいのだ。
わからないまま、知ったかぶりをしながら、野村のことばの呼吸にあわせる、あわせながらことばを追いかける--というのは、なんだかどきどきして楽しい。
この部分は、どうか。「建築」「骨」「塔」がひとつの「意味」になろうとし、それを抽象的に「音楽」が突き破る。すると音楽が「建築」のようにも見えてきて、「歩廊」ということばとなって、融合する。「パイプ状」というのは建築のバイプを想像させると同時に、パイプ(管)楽器の音をも連想させる。そこには何かひとつの「つながり」がある。「建築」を「崩壊」させ、そこに「風」を吹き渡らせる(風を代入する)と、廃墟の柱や何かにぶつかって風の音が音が苦になるような、壁を取り払われ(壁が崩壊し、廃墟になって)透き通った空間が大きな楽器になって鳴り響くような--というような知ったかぶりへ、私は突き動かされる。野村が知ったかぶりというのではなく、「理解」しようとして、私のことばが知ったかぶりのまま動くということ。「誤読」を誘う何かがある。
これを何といえばいいのかわからないけれど、野村の「文体」の力だね。野村の文体の中には何かそういう力がある。連想を凝縮させながら、飛躍へと突き動かす力がある。その力でことばが統一されている。そのことばにはスピードがあって、うむをいわせない。ゆっくり考えさせてくれない。
別なことばで言えば、まあ、私はだまされているのかもしれないけれど、だまされるってうれしいなあ。その瞬間、いままで知らなかった何かが見える、何かが聞こえる。そして、何かに触れるからね。--まあ、そういう錯覚全体が「眩暈」なのかもしれないが。
きのう読んだ福田拓也の長いタイトルをもった詩の「意味」はわからない。私はわかろうともしないが、野村喜和夫「眩暈原論(10)」も、私にとっては似たような感じ。「意味」を読み取って感動するわけではない。読んでいて(ことばを追っていて)、そのことばの変化(ことばそのものの「動詞」としての存在--ことばの肉体と私はときどき呼ぶのだが)--それを楽しんでいる。
眩暈主体、それは手をもたない人間のことなのかもしれぬ。鼻水垂らしていよ
うが、みだれ垂らしていようが、柔らかいものにさわって恍惚としたりはしな
いのだ、マイチネル小体、パチニ小体。ほら、あれらの夢、ひどく軽くて、長
くて、橋のようなので、両側の泥土のうつつは低く小さくなってゆく。うつう
つ、うつらうつら。石が脱ぐ悦びも、そこに撒かれて。
「眩暈主体、それは手をもたない人間のことなのかもしれぬ。」これは野村の仮定。仮定だから、まあ、わかる。仮定しているということが、わかる。「鼻水垂らしていようが、みだれ垂らしていようが、柔らかいものにさわって恍惚としたりはしないのだ」。これは「手をもたない」の補足。手をもたなければ触ることはできない。(足で触れる、性器で触れる、舌で触れる--というような屁理屈は反論しない。)「触る恍惚」を知らずに、「目で触るという恍惚」、つまり「眩暈の恍惚」に限定される……。うーん、論理的なことばの展開。
でも、
柔らかいものにさわって恍惚としたりはしないのだ、マイチネル小体、パチニ小体。
この「しないのだ、」から「マイチネル小体」への飛躍は何? 「マイチネル小体」「パチニ小体」のことを知っている人には「わかる」のかもしれないが、私には、何のことか「わからない」。
わからないのだけれど。マイチネル、パチニという音には「い」の音が多くて、光っているような、粒々のような、ちょっと遠いところにある何か(近くてもうまく触れない何か)小さいものという感じがするなあ。
そして、この何かわけのわからない感覚、私の「いま/ここ」を拒絶して、そこに何かが存在する--その飛躍が快感。そして、そのことばが、
ほら、あれらの夢、ひどく軽くて、長くて、橋のようなので、
と、さらに飛躍する。
この「ほら、」がいいなあ。「ほら、わかるだろう、知ってるだろう」の「ほら」なのだけれど、いやあ、「あ、ごめんなさい、わかりません」と口をはさむ余裕がないでしょ? 野村のスピードにあわせて知ったかぶりをして読むしかないでしょ? その知ったかぶりの瞬間、私も何かを「飛び越える」(飛躍する/飛翔する)。この知ったかぶりをしたときの、次はどうなるのかなあ、知ったかぶりをつづけられるかなあ。知ったかぶりがばれてしまうかなあ、という感じがいいなあ。
野村の詩を読んでいるのに、詩を読んでいる私(谷内)がことばから見つめ返されている感じ。(私の知ったかぶり、私の「誤読」が、ばれていない?)
知ったかぶりを押しつけてくる(?)、このタイミング。このリズム。さらに、
橋のようなので、両側の泥土のうつつは低く小さくなってゆく。うつうつ、うつらうつら。石が脱ぐ悦びも、そこに撒かれて。
「小さくなってゆく。」から「うつうつ、うつらうつら。」への飛躍。ここには「意味」はないね。野村の肉体が覚えている何かが、「うつうつ、うつらうつら。」というリズムを呼び出したのである。「うつうつ(する)、うつらうつら(する)」というのは直前の「夢」ということばと呼応しているけれど、「あれらの夢」の「夢」の中身と呼応しているかどうか、はっきりしない。内容(意味)と呼応するのではなく、夢みるという動詞と呼応すればそれでいいのだ。
わからないまま、知ったかぶりをしながら、野村のことばの呼吸にあわせる、あわせながらことばを追いかける--というのは、なんだかどきどきして楽しい。
眩暈と建築との関係についていえば、基本、建築について私は崩壊へと風を代
入するのが好き、とまで浮き、透き、音楽の骨、骨の塔から流れ出る音楽、音
楽という名の塔をめぐる骨のまぼろし、などと心せくばかりなので、そこから
うねりつづく歩廊、そこに絡みつくパイプ状の旋律のきれはし、と来ては、地
の震えのあとさきのように、もうどうにも下を潜り、右や左に逸れ、死がそう
であるように、これが眩暈だ、などといえるあいだは、まだじっさいの眩暈で
はない、なぜなら眩暈とは、顔のない情熱のひろがりである、あるいは眩暈か
ら、泡のように吹きこぼれた惑乱のきみの、きみのかけらをさがせ。
この部分は、どうか。「建築」「骨」「塔」がひとつの「意味」になろうとし、それを抽象的に「音楽」が突き破る。すると音楽が「建築」のようにも見えてきて、「歩廊」ということばとなって、融合する。「パイプ状」というのは建築のバイプを想像させると同時に、パイプ(管)楽器の音をも連想させる。そこには何かひとつの「つながり」がある。「建築」を「崩壊」させ、そこに「風」を吹き渡らせる(風を代入する)と、廃墟の柱や何かにぶつかって風の音が音が苦になるような、壁を取り払われ(壁が崩壊し、廃墟になって)透き通った空間が大きな楽器になって鳴り響くような--というような知ったかぶりへ、私は突き動かされる。野村が知ったかぶりというのではなく、「理解」しようとして、私のことばが知ったかぶりのまま動くということ。「誤読」を誘う何かがある。
これを何といえばいいのかわからないけれど、野村の「文体」の力だね。野村の文体の中には何かそういう力がある。連想を凝縮させながら、飛躍へと突き動かす力がある。その力でことばが統一されている。そのことばにはスピードがあって、うむをいわせない。ゆっくり考えさせてくれない。
別なことばで言えば、まあ、私はだまされているのかもしれないけれど、だまされるってうれしいなあ。その瞬間、いままで知らなかった何かが見える、何かが聞こえる。そして、何かに触れるからね。--まあ、そういう錯覚全体が「眩暈」なのかもしれないが。
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